13
「クシュリナ様!」
誰……?
「姫様、しっかりなさってくださいませ!」
もしかして、ダーラの声?
夢だろうか……これも、全部。
そう思いながら、クシュリナはぼんやりと瞳を開く。
「……姫様……」
ダーラの顔が、目の前にあった。震える声、わななく唇、目には一杯の涙をためている。
「ダー……」
「姫様……よくぞ、よくぞご無事で!」
ひし、と身体を抱きしめられる。仰向けになったまま、クシュリナは息苦しいまでの抱擁に戸惑った。天井には円形の屋根。象牙飾りの隙間から、暗い夜が覗いている。
ロトンダ……ここはまだ、白蘭宮の庭園だ。
「……っっ」
恐怖が突然、全身を貫くように蘇った。
舞い散る花弁、生臭い鼻息、耳をつんざく咆哮。
「い……やっ、ダーラっ、怖いっ、怖いっ」
がむしゃらにダーラの細い体を抱きしめる。
「大丈夫でございますよ。もう、大丈夫なのでございますよ」
どれだけ抱きしめても、恐ろしさと心細さで手足が震える。瞳からは無意識の涙が溢れる。
「忌獣が出たわ」
震えながら、クシュリナはダーラを見上げた。
なんとも言えない表情で、ダーラはただ黙っている。
「嘘じゃないわ、本当に見たのよ、ユーリは? ラッセルは? みんな無事なの? ねぇ、ダーラ!」
「……俺なら、大丈夫だ」
掠れた声が、背後でした。
はっとクシュリナは振り返っている。
まず、ラッセルの姿が目に入った。鷲翼の紋章が入った紫のクローク。帽子はなく、髪はやや乱れて額にかかり、表情が暗く翳っている。
「やぁ、クシュリナ」
その腕に、肩を支えられるようにして歩いているのはユーリである。
額を白い布で覆われ、顔半分は血で汚れている。足取りはおぼつかなかったが、青ざめた唇には彼らしい微笑が刻まれていた。
「ユーリ!」
クシュリナは歓喜の声をあげた。その途端、ようやく、彼らの背後に広がる白蘭庭の様子が目に入る。
至るところにバートル隊のクロークが翻り、月が煌々と輝く庭からは、すでに禍々しい気配は消えている。 まるで、何事もなかったかのように。
「お互い命拾いしたってとこだな」
ロトンダの長椅子に下ろされたユーリは、すぐに身を起して、クシュリナに笑いかけた。
見下ろすラッセルは、先ほどから一言も口を利かず、沈鬱な目に厳しい影をひそませたまま、じっと一点を見据えている。
悲壮ささえ漂う美しい横顔に、その刹那クシュリナは、はっとするほど強い衝動を感じていた。
ラッセル……。
あの生と死のぎりぎりの境で、命がけで抱きしめてくれた……あの腕……胸の広さ……重なり合ったふたつの鼓動……温かな指の力強さ。
が、一瞬吹き荒れた心の嵐は、決して表には出せないまま、静かに胸の底に沈められていく。いつものように。
「……ラッセル、姫様なら大丈夫よ。どこにもお怪我はありません」
ダーラが、そっと立ち上がった。その口調がいつになく強張っていることに、ふと眉を寄せた時、ひどく険しい表情のまま、顔をあげたラッセルがダーラを鋭く睨み据えた。
「ダーラ!」
びくっとダーラの背が緊張する。息を引いたのはクシュリナもまた同じだった。
その刹那、クシュリナは、ラッセルがダーラを殴ると思ったし、ダーラも同じ覚悟を決めていたはずだった。
が 。
「ラッセル、よせ」
鋭い一声が、ラッセルの動きを遮った。
たちまち足をとめたラッセルが、そしてはっと振り返ったダーラが、同じ所作で手を胸にあて、視線を伏せる。
暗い影が、ロトンダを覆うように占拠した。
ざっと居並んでいるのは、紫のクロークに鷲翼の紋章。パシクのバートル隊である。
その中央に、ひと際背の高い男が立っていた。
加賀美ジュール……。バートル隊を指揮する社交界の嫌われ者。
クシュリナも、一瞬息を詰めている。下賤な身分、成り上がり者、礼儀知らずの野蛮人。悪名名高い男を間近で見たのは初めてだ。
人の域を超えているのではないかという長身に、クローク越しでもはっきり判るほど隆々たる体躯。右眉から瞼を挟む頬上部にかけて、すっと一筋、裂けたような傷痕がある。
そのせいか、右瞼がやや下がり気味だが、双眸はくっきりと黒く、闇の中でもそこだけ爛と輝きを放っているようだった。
「姫様、なにはともあれ、ご無事でなによりでございました」
ジュールは慇懃な口調で言い、形ばかりの配下の礼を示して見せた。
低い、思いのほか、耳触りのいい声だった。
「すぐに宮までお送りいたしましょう。御二人は我が隊が護衛いたします。 ラッセル、馬車は」
「ジャムカをやらせました。直にこちらにまいります」
事務的に言い添えたラッセルが、今、ひどく怒っていることに、クシュリナは改めて気がついていた。
怒るのも 最もだ。
いや、それどころか、今夜の行動がハシェミやその他オルドの耳に知れることになれば、いったいどれほどの非難がクシュリナに寄せられるか判らない。
そして、もしかするとその咎は、全てダーラが背負うことになるかもしれないのだ。
「あの、今宵のことは」
「忌獣だな」
ユーリの冷やかな声が、ダーラを庇おうとしたクシュリナの声を遮った。
「そうでございましょうか」
不思議な微笑を浮かべたジュールの声は冷静だった。
「私どもが駆け付けた時、ユーリ様は気を失っておいででした。何が起きたのか、正確にご記憶だとは思えませんが」
「自慢じゃないが、遭遇したのはこれが初めてじゃないんでね」
ユーリは、血混じりの唾を吐きだした。
「お前だって、庭中に散らばってる連中の亡骸を見れば判るだろう? 手や足がちぎれてあちこちにふっ飛んでる。あれが、人間にできる仕業だとでも思ってるのか?」
クシュリナは再び、自分の手足が震えだすのを感じていた。
自分には……初めてだった。でも、それでも、はっきりと判る。あれが夢でも幻でもなければ、闇の中で闊歩していたものの気配は、おそろしいほどの質量を持つ獣群だ。巨大で……ひどく禍々しい匂いを持った……まさに、魔獣と呼ぶにふさわしい生物。
「それにしても驚いたよ。皇都に忌獣は出ないと聞いていたのに、まさか宮殿の中で出くわすとはね」
ユーリの血濡れた唇に、皮肉な笑みが広がった。
「今日が初めてじゃないんだろ? それでパシクは、大慌てで忌獣討伐隊を作ったってわけか。そりゃ、よっぽど深刻な状況なんだろうな」
どういうこと……?
驚愕に近い思いで、クシュリナはユーリの言葉を聞いていた。 まさか、では忌獣は……もう随分前から……この皇都にも出ていたというのだろうか?
「ユーリ様は、お疲れになっておいでなのです」
ジュールの声は、憐れむように優しかった。
「襲ってきた者どもの正体は、すぐに吟味いたしまして、正式に青州公様にご報告いたしましょう。そしてもうひとつ、あなた様とクシュリナ様が、どのようにして今宵御面会の運びとなったのか、……それもまた、吟味せねばならないのでしょうか」
その刹那、ユーリの表情がかすかに翳るのがクシュリナにも判った。
「表沙汰にされたくないのは、青州公様、ユーリ様もまた同じことなのではございませぬか? となれば、今宵、白蘭宮では事件など何も起こらなかったのです。それでよろしいのではないでしょうか」
言葉に迷うユーリの心持がクシュリナにも判るし、同時にクシュリナも、何も言うことができなかった。
「ユーリ様。忌獣は皇都には現れませぬ。二度とかような不吉な予断、宮内で御口になさいませぬよう重ねてお願い申し上げます」
冷徹なまでに毅然と言い切り、ジュールはクロークを翻した。
「曲者どもは、全て我がバートル隊が始末いたしました。多少荒っぽい仕儀となりましたが、皇都の大切な御世継ぎが襲われたのですから、当然の仕打ちにございます」
「……ああ、そうか……そういう仕組みだったのか」
黙っていたユーリは、不意に鼻先で笑うと、独り言でも言うように呟いた。
「これで謎が解けたよ。皇都にだけ忌獣が出ないという、不可思議な謎が。なぁ、ラッセル、お前も最初から知っていたんだろう?」
不意に水を向けられたラッセルは答えない。
横で聞いているクシュリナは、深い衝撃を感じたまま、動かないラッセルの横顔を見つめ続けた。
「聞いたか、クシュリナ」
声をたてて笑いながら、ユーリはクシュリナを振り返る。
「それが忌獣討伐隊の正体だ。笑わせてくれるじゃないか。つまり、討伐隊とは、証拠隠滅と口封じに駆けずり回ってる役立たずの犬どもってわけだ!」
「なんと、ののしられようとも」
ジュールは丁寧な所作で、腕を胸に当てて見せた。
「今宵、ユーリ様を襲った刺客を倒したのは、バートル隊にございます。その事実に嘘偽りはございません」
ユーリは呆れたように肩をすくめ、ジュール率いるバートル隊は一斉にクロークを翻した。
「ダーラ、……お二人をそれぞれの宮までお連れしろ」
ラッセルの静かな声がした。すでにジュールの一行はロトンダを離れ、白蘭園のほうに向かっている。馬車の音が近づいているのが、クシュリナにも判った。
「私はここに残る。くれぐれも他のオルドに話が漏れないよう、留意してくれ」
「わかったわ。ラッセル」
二人はすでに、持ち前の冷静さを取り戻しているようだった。淡々と目くばせを交わし合い、すれ違うようにして、ラッセルは庭の方へ、ダーラはクシュリナの方へ近づいてくる。
「ラッセル、お前を見損なったよ」
ユーリに冷やかな皮肉を投げられても、ラッセルの背は止まらなかった。
ロトンダの前に馬車が止まる。
クシュリナは、胸がつまるような苦痛と共に、今夜初めて知った事実の意味を考え続けていた。
皇都には……忌獣が出ていた……おそらく、もう随分前から。
それを、ラッセルもダーラも……おそらくお父様も知っていて……なのに、それでも依然として、皇都には忌獣が出ないと、民に喧伝していたのだ。
「さ、姫様……」
ダーラの声につられるようにクシュリナは顔をあげる。その刹那、くっと呼吸が詰まるのが判った。
胸が急速に締め付けられる。発作の前兆。 いけない、こんな時に。
両手で口元を覆うようにして、クシュリナは前のめりに顔を伏せた。
「姫様!?」
ダーラは知らない。クシュリナでさえ、とうに忘れかけていた。十一の年まで自身を苦しめた胸と呼吸の異変は、とうに完治したと思っていたのだ。
(その病のことだけは、誰にも知られてはならぬと思え)
父の厳命が、胸に刺さるように蘇る。
「クシュリナ、どうした?」
「姫様、どこかお怪我を?」
ユーリを始め、馬車を先導してきたパシクたちも騒ぎ出す。
クシュリナは肩を揺らすようにして、吸う間もなく溢れる呼吸に必死に耐えた。
苦しい。 息が、出来ない。
「ラッ……」
助けて、苦しい。
ダーラが肩を抱いて起こそうとする。クシュリナは全身で抗って首を振った。
「姫様? どこぞお苦しいのでございますか?」
「クシュリナ、顔をあげてみろ」
どうしよう、どうすればいいんだろう。
こんなところで、こんな人前で。
「ラッセル?」
ダーラの驚く声がしたのと、自分の身体がふわりと宙に浮いたのが同時だった。
「後を頼む」
耳元で声がする。抱き支えてくれる力強い腕と、暖かな胸。
「姫様は私が、お送りする」
「ラッセル……」
クシュリナは、すがるように胸にもたれながら、呟いた。
まだ呼吸は苦しかった。それでもクシュリナは不思議な安らぎに満たされたまま、広い胸に頬を寄せて、目を閉じた。
昔からそうだった。子供の頃から、彼はいつも私の傍にいてくれて。
発作が起こるたびに、楽になるまで、抱きしめてくれた。 。
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