11
「戻ろう、クシュリナ」
クシュリナの腕を素早く掴み、ユーリは元来た道を振り返った。
「大丈夫よ、ユーリ、皇都に忌獣は出ないわ」
「そうじゃない」
そうじゃない?
後も見ずに走り出したユーリの表情は見えなかった。
「ユーリ、大丈夫だから」
「いいから、走れ!」
その時だった。闇にも鮮やかだった白蘭の庭に、いきなり黒い影が躍動した。
クシュリナには、夜から突然、闇の塊が舞い降りたようにしか見えなかった。
地面が振動し、白の花弁が雪のごとく舞い上がる。
影は、ひとつではなかった。二つ、三つ、それはすぐに人の輪郭をあらわにする。顔と身体を覆った闇色のマント。見上げるほどの巨大な体躯。金属のこすれあう音がして、ぎらっと光る大刀が抜きはらわれる。
「逃げろ、クシュリナ!」
固まるクシュリナを押しのけるようにして、ユーリが前に立ち塞がった。
が、逃げようにも逃げられない。クシュリナの背後にも、黒の暗殺者が回りこんでいる。
「ユーリ……」
「大丈夫だ、俺の傍から離れるな」
いったい、彼らはどこから入り込んできたのだろう。ただでさえ警備の厳しい金羽宮にあって、この白蘭宮はパシクの精鋭、バートル隊に護られているはずなのに。
「蒙真のカマラだな」
クシュリナを背で庇いながら、ユーリが鋭く牽制する。
彼が恐れたのは闇ではなく、今の状況だったと、クシュリナはようやく気がついた。蒙真の カマラ? それが、無反応に距離を詰めてくる相手の名前だとは思えない。
まだクシュリナには、今の状況が呑み込めなかった。が、出会った最初からユーリに見え隠れしていた影が、最悪の形で噴出したことだけは理解できた。
「離れるなよ」
囁いたユーリが、じり……と、土を擦るようにして後退する。そして低く囁いた。
「俺が時間を稼ぐから、君はその隙に走って逃げろ」
「えっ?」
「宮に戻って助けを呼んでくるんだ。俺なら、絶対に大丈夫だから」
「大丈夫って」
クシュリナは耳を疑った。先ほどまで伏せっていたユーリが、武器を携帯しているとは思えない。それに 見上げるほどに上背がある相手は複数、すぐにでも、ユーリを殺そうと身構えている。
ぎらっと、刃が夜に閃いた。
「クシュリナ、逃げろ!」
怒声と共に、突き飛ばされたクシュリナは、膝を折って地面に手をつく。
「ユーリ?!」
顔を上げると、身をかがめたユーリが、ぱっと何かを投げるのが見えた。
きらきらと光る銀の粒が、ユーリの掌から飛散する。
それは毒粉なのか眼つぶしの一種なのか、黒の男たちが妙な声をあげ、顔をそむけて、狼狽の態を見せる。
「馬鹿野郎、早く逃げろ!」
振り返ったユーリに手を引かれても、クシュリナの足は動かなかった。舌は石のように強張り、手も足も、棒のようになっている。
「クシュリナ!」
ユーリの絶叫、はっと顔をあげると目の前に黒いマントが迫っている。頭上に振りかぶられたぎらめく大刀。
「くそっ」
凶刃に、ユーリが飛び込んでいく。
身をかがめて黒の大男にしがみつく。束が振り下ろされ、ユーリはもんどりうって横に転がった。が、すぐさま体勢を立て直し、振り降ろされる剣を避けて、再び相手にとびこんでいく。
「早く逃げろ!」
その綺麗な額から血の滴が滴っているのを見た時、クシュリナはようやく自分を取り戻していた。
早く……、早く、助けを呼んでこなきゃ。
ユーリが投げた銀粉をまともに顔に受けた連中は、まだ苦しげに咳き込んでいる。が、手にはしっかりと剣を持ち、今にも襲いかからんと身構えている。組み合っている相手を含めると敵はは三人、このままでは、ユーリは確実に殺されてしまう。
まろぶように立ちあがったクシュリナは、が、次の瞬間、はっと足をすくませた。
何……?
悪夢だろうか、幻だろうか。目の前の光景が一変している。
低木の庭園があった辺りに、闇が黒々と濡れた口を開けている。
何、何なの?
恐慌状態の中、ユーリの怒鳴り声が、どこかひどく遠くで聞こえる。遠い果て、まるで別の世界のような遠くから。
クシュリナは動けなかった。
開かれた闇に、何かが……、ひどく禍々しい気のようなものが……膨れ上がっていくのが判る。
突然、周囲から一切の音が消えた。死にも似た静寂が、クシュリナを取り囲んで包みこむ。
何……、いったい、何が起きているの?
まるで、自身を刻む時が静止してしまったようだ。
どろどろと濡れた真っ暗な空間だけが、生き物のように増殖している。
はっ、はっ。
闇の中から音がした。
獣じみた獰猛な何かが荒く息を吐いているような、そんな音だ。
はっ、はっ。
音と等間隔で吹き付けてくる、生暖かく湿った臭気。
はっ、はっ。
みし……と地面が軋んだ。
「や……」
恐怖にかられ、クシュリナは後ずさった。
醜悪な気配が、湿度を保ち、ねっとりと肌にまとわりついてくる。
ざわざわと増殖する闇の塊 それが、次第に一つの形に凝縮され、輪郭を持った何かに変化していく。
もしかして。
クシュリナの心臓は凍りつく。
忌……、獣……?
突然背後で、闇を裂くような悲鳴が響き渡った。
「う、うわぁあああぁぁぁっ」
「ひぃぃっーーっっ」
連鎖したように、獣じみた悲鳴が後に続く。長く尾を引く、恐怖と絶望にかられた叫び。
クシュリナの喉からも、悲鳴が迸る寸前だった。
その時、目の前を幻のように一筋の光が走った。
12
それが、風を裂いて飛ぶ剣だと気付いた時、いきなり、背後からクシュリナは抱きすくめられていた。
「??……っ」
恐怖が、全身を硬直させる。
「いやっ」
声は、強い力でねじふせられた。ざらりとした感触に口を覆れ、声をたてられないまま、クシュリナは手足だけを抗わせる。
いや、いや、いや、怖い、怖い、怖い怖い 怖い!
拘束する力が、獰猛なほどに強くなる。
無骨な腕、耳に触れる息遣い。ようやく背後にいるのが人だと気がついた。男の人 濃紫のクローク。パシクだ。この人は敵ではない。口を塞ぐ大きな掌は、皮の手袋で覆われている。
誰……?
抱きすくめられたまま、翻ったクロークに覆われるように、クシュリナは仰向けに倒された。
顔を上げる間もなく、上から重みが被さってくる。目に男の肩が押しあてられる。口を塞ぐ手が離れた代わりに頭を抱きよれらせ、いっそう強く抱きしめられる。
ラッセル……?
確証がもてないままに、クシュリナは何故かそう信じて、必死に手を伸ばしていた。
闇の中で、しっかりと手を掴まれる。離されまいと、クシュリナは懸命に指を求めて握り返す。
「ラ、」
凄まじい咆哮が、クシュリナの声を遮った。
オォオおォ……オぉオオ。
空気が震え、大地がびりびりと振動する。
「うぐぉっ」
「がはぁっ」
聞くに堪えがたい断末魔の声がした。ぐふっぐふっと、荒い獣の息遣いが、悪夢のようにそれに混じる。
風を切る鈍い音。
水を含んだ何かが飛び散り、重みを持つ塊が四方に投げ散らされている。
狂ったように、誰かが何かを叫んでいる。意味の判らない言語は、蒙真の言葉だったのかもしれないが、絶望的な悲鳴と共に、やがて止んだ。
白蘭の甘い匂いと濃密な血臭。
ぐふっ、ぐふっ。
獣が鼻息を放つ音。
恐ろしさで半ば意識を喪失したまま、クシュリナは歯を食いしばるようにして両目を閉じ続けていた。
忌獣……忌獣だ……でも、……だとしたら……どうして、皇都の、……金羽宮の中に……。
オおオ……ォォオおオオン。
凄まじい咆哮が、クシュリナの思考を切り裂いた。
その刹那、密着した男の身体がひどく緊張したのがはっきりと判った。
オオォ……おオオォ……ン。
耳の奥がびりびりと震えた。臭気を伴う息遣いは、もう目の前から聞こえてくる。
ごうっとすざましい風が空気を裂いた。
抱きしめる男の腕に、懸命の力がこもる。
死ぬ……んだ……私……。
視界が翳り、意識がすうっと遠のいていくのが自分でも判った。
怖い……でも、怖くない……ラッセルが……一緒だから……。
最後に自分の名前を呼ばれた気がした。夢の中……この世の、別の場所から聞こえるような遠い声で。
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