9
 
 
 夜風は涼しく、冷えた白蘭の香りが心地良かった。
「さぁ」
 ユーリが腕を差し出したので、少しためらってから、手を伸ばす。
「ユーリ……誰かに見られたら」
「君は、今の自分の格好を忘れているね。大丈夫、もし見つかっても、金羽宮の女官と恋に落ちたとでも言い訳するさ」
「まぁ」
「似合ってる」
 微笑してユーリは歩き出す。
 月明かりが眩しいほどだった。風と水流の囁き、涼やかな虫の音色。手を引かれて歩いている内に、やがて不安も畏れも薄らいでいく。
 数ある金羽宮の庭の中でも、客宮である白蘭宮の庭園は格別だ。
 ロトンダと呼ばれる円筒状の建物を中心に、円を描くように広がる扇型の白蘭園。
 花壇の淵には、年中咲き誇る薄桃色のクレオネ、紫のプリムラなどが飾られ、朝であっても夕であっても、美しい色彩と香りを誇っている。
「月が綺麗ね」
「夜の散歩なんて、何年かぶりだよ。青州じゃ、君にも俺にも、過剰な保護者がついていたからな」
 ユーリはいたずらっぽく微笑したが、クシュリナは、自分の表情が翳るのを感じた。
 過剰な保護者    それは、ラッセルのことだろう。
 青州では、例え月が輝く夜でも、クシュリナは外出をすることが許されなかった。
 忌獣が出ないと言われている皇都に戻ってからも、ラッセルはそれを許さなかったし、クシュリナも彼との約束を守り続けた。
 ちらっと、ラッセルの横顔が脳裏をかすめる。
 知れば、彼は怒るだろうか。でも、皇都はシュミラクールで一番安全な場所だ。シーニュに護られた都には、かつて忌獣が出現したことは一度もないし、これからもないと言われている。
「ここは……平和だね」
 空を見上げたユーリがぽつりと呟いた。人形のような横顔を、月光が冴え冴えと照らしている。
「青洲では、もう首都といえども安心はできない。夜道をのんびりと散歩するなんて、自殺したいと言っているようなものだ」
「……そう、そうだったわね」
「君がいたころは、それでもまだマシだったんだ。この数年の状況は目を覆わんばかりだよ。いったい、何人の民が殺されたことだろう」
 クシュリナがいた時から、青洲の人々の忌獣に対する警戒心は相当なものがあった。
 それでも、当時はまだ、シュバイツァ城がある首都だけは安全な場所だと言われていたのだ。   
 ユーリは、足元の小石を軽く蹴った。
「ラッセルのいるバートル隊ってのは、忌獣退治の専門なんだってな」
「……ええ」
 突然ラッセルの名前が出たことで、心臓が鼓動を早め始める。
「なんか不思議な気がするな」
「不思議って?」
 ユーリは、首をかしげてみせた。
「だって皇都に忌獣は出ないんだろう? じゃあ、ラッセルは、どこで何と闘っているんだ?」
「近郊の州だと思うわ。……バートル隊は、いつも遠征に出ているみたいだから」
 さすがに、ダーラに厳しくたしなめられた、甲州との境に忌獣が現れた話はできなかった。
「ふぅん……」
 ユーリは、訝しげに眉を寄せる。
「それじゃ青州にも来てるのかな。そんな話は聞いたことがないし、……皇都のパシクなんかが、州境を超えて入ってきたら、ちょっとした騒ぎになると思うけどね」
「どういう意味?」
「少し考えたら判るだろ。例えば、皇都に青州の白水仙軍(コンチェラン)が侵入するとしよう。パシクは大軍を率いて、コンチェランに立ち向かうんじゃないのか?」
「………」
「例え忌獣討伐のためと言われても、他州の侵攻を五公が許すはずがない。それは、相手が皇都のパシクだって同じことだよ」
 確かにその通りかもしれない。
 奥州、甲州、薫州、青州、潦州からなるイヌルダ五州は、五公と呼ばれる五人の公爵によって守られ、それぞれ固有の自治権を有している。
 その領域には、皇室や法王といえども、勝手に入ることはできないのだ。クシュリナも、これだけはよく知っている。皇室にも法王にも、すでに五公を抑えられるだけの力はない。
 だからこそ、甲州公である父ハシェミは、女皇アデラと対等に渡り合っているのだ。
「なんにしても、ラッセルは相当やっかいな仕事をやってるんだな」
 不思議な笑いを浮かべて、ユーリは肩をすくめてみせた。
「皇都を出れば敵は忌獣だけじゃない。州境をうろうろしてる限り、下手すりゃ五州軍が、牙を剥いて襲いかかってくることだってある」
「お父様は、そんな真似はなさらないわ……それに、薫州のフォード様だって」
 クシュリナは言葉を詰まらせた。
 ラッセルのことを考えると胸が痛む。どうして、何故、よりにもよって彼が、そんな危険な任務につかなければならないのだろう。
「忌獣は、どうして現れたんだと思う?」
 ふいにユーリが呟いた。仰ぐと、美しい横顔が月光で蒼白く輝いている。
クシュリナは眉をひそめていた。
「さぁ……、考えたこともないわ。私が生まれた時には、もう、忌獣は存在していたんだし」
「何故、人ばかり襲うんだろう。まるで、憎んででもいるかのように」
「………」
 黙るクシュリナに、横顔で微笑を返し、ユーリは青みを帯びた月を見上げた。
「俺は、忌獣に襲われた人の亡骸を見たことがある。言葉にできないほどひどい有様だが、食いちぎられた肉体より、もっと恐ろしいものがある……それは、連中の死に顔だ」
「顔……?」
「恐怖に心を食われている。……殺された連中は、全員そんな顔をしてるんだ」
 意味が判らず、クシュリナはただ息を詰めている。緊張を解くようにユーリは笑った。
「ここはいい、都には灯りが絶えないから、きっと忌獣も近寄らないんだろうね。悪いがシーニュに護られているなんて戯言、俺はまるで信じていない」
「まぁ」
「怒るなよ。護っているのは神じゃなくて、単純に金だ。富める都市は護られ、貧しい邑は見捨てられる。忌獣ってのはわりに単純な生物で、光を恐れて闇を好むんだ。俺はそう思ってるね」
 ラッセルが聞いたら、どう思うだろう。
 彼は一度も、イヌルダがシーニュに護られているとは言わなかった。もしかすると、彼も、そのくらいのことは判っていて   
「灯りのない農村地の惨状は、……皇都で暮らす連中には想像もできないだろうね。いや、そもそもする気さえないんだろうけど」
 ユーリの皮肉な声が、クシュリナを現実に引き戻した。
「そんなことないわ」
 幼馴染の言葉をいちいち真剣に取り合っていたら神経がもたないけれど、その言葉だけは聞き捨てがならなかった。
「だって、彼らを守るために、バートル隊があるのではなくて」
「守る? 君が言う彼らとは、もしかして貧しい人々のことか?」
 即座に振り返ったユーリが眉をあげる。
「驚いたな。本気でそう信じてるのか」
 灰青の目には、辛辣な光が滲んでいた。
「君は何も知らないんだな。バートル隊とやらがどの程度の規模だか知らないが、たかだか数百人で、シュミラクール規模で広がっている忌獣を防ぐことができるもんか」
「どういうこと……?」
「パシクは皇都を護るのが仕事だろ。バートル隊が護っているのは皇都の貴族や皇族であって、それ以外の連中じゃない」
 クシュリナには何も言えなかった。 
 ラッセルのためにも反論したかったが、何を、どう言っていいかさえ判らなかった。
「君は、現実など何ひとつ知らないのさ……。忌獣に関して言えば、本当の意味で身に危険を感じているわけでもない。そうだろう?」
 そうだろうか……そうかもしれない。
 忌獣は怖い。でも、皇宮にいる限り、遭遇することなどないという安心感がある。だから    ラッセルがバートル隊に入るまで、忌獣について、深く考えたこともなかった。……
 繋がったユーリの手に力がこもる。
 月が煌煌と輝いていた。青い光は、ユーリのこの世のものならぬ美貌を、一層強く引きたてている。クシュリナは何も言えないまま、ただユーリの体温を感じていた。
「時々、怖くなるんだ」
 ユーリは呟いた。
「忌獣はひょっとして、この世界の意志そのものじゃないかと思うことがある。青の月が満ち欠けをやめてしまった時から、……この世界は、ゆっくりと終焉に向っているんじゃないだろうか」
 
 
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 クシュリナは夜空を見上げた。
 真円を描く月    決して欠けることのない蒼い月。
 もう二百年の世に渡り、満ち欠けをやめてしまった青の月。時の流れを計る術を失った先人は、太陽の角度で、時間を読む太陽暦に切り換えたという。
     世界の終焉……?
「リュウビの時が近いから、皇都でも色々……不穏な噂が乱れ飛んでいるけれど」
 クシュリナは、足を這い上がるような不安を、明るい笑顔で打ち消した。
「私は逆に、この月が、昔は満ちたり欠けたりを繰り返していたなんて信じられないわ。こんなに美しい月が欠けてしまうなんて」
 不思議そうに目をすがめたユーリが、苦笑する。
「君らしい答えだね」
「ユーリが深刻に考えすぎなのよ。忌獣はいつかきっといなくなるわ。だってもともといなかった生物でしょう?」
「……そうかもな」
「今回も、シーニュがきっと護ってくださるわ。……今までだってシュミラクールには、何度もリュウビとリュウズが訪れたけど、その度に無事に乗り越えてきたのだもの」
 ユーリは横顔を天に向ける。彼が声を出さずに笑っているのが、クシュリナには判った。
「君みたいな楽天家に、果たして女皇が務まるのかな」
「えっ、なにそれ、どういう意味?」
「皇室にいたって、君は幸せにはなれないよ。誓ってもいい、絶対に不幸な運命が待ち受けている」
 ユーリの目から、笑いが消えた。
「迷わずに毒を飲ませるべきだった。……最後の最後で何を血迷ったんだろうな、俺は」
「……ユーリ?」
 手のひらにかかる力が強くなる。触れている肌の温度が上がったような気がした。
 宝石を思わせる銀灰色の瞳が、強い熱を帯びて見下ろしている。
 まさか   
 クシュリナは、かすかな動揺を感じながら、瞬きをした。
 さっき部屋で聞いた話は、冗談じゃなくて……本当に。
「嘘だよ。まさか本気にしたんじゃないだろうな」
 が、突然ユーリは声をあげて笑いだした。
「ユーリ?」
「イヌルダを出て、俺と君の二人で生きていくって? ありえない想像だよな。温室育ちの君と、始終倒れてばかりの俺。本当、冗談みたいな空想だ」
「………」
 まだ、おかしそうに笑い続けるユーリを、クシュリナは、ふと寂しさにも似た不安を感じて見つめている。
 ふたつ年上のユーリのことを、放っておけないと思うのはこんな時だ。
 出会った最初から、ユーリには自棄にも似た諦めがある。自身の運命に逆らうことを最初から放棄していて、ただ、なげやりに生きているように、クシュリナには思えてしまう。
 運命にあらがえないのは、クシュリナもまた同じだが、漠然と    それでも、なんとかなるのではないかと希望を抱く自分とは違い、ユーリの心は、いつも暗い闇の淵に佇んでいて、そこから、一歩も動こうとしない。
「……ユーリ、お母様と、妹さんは元気にしてるの」
「青州を経つ前に手紙をもらった。二人とも変わりないってさ」
 一瞬、幸福そうな横顔を見せたユーリは、自らの胸元をそっと抑えた。
 彼の胸には、片時も外さない銀鎖の首飾りがかけられている。
 それは彼が、五歳で故郷を追われた時に母親から託されたもので、ユーリにとっては母親そのものなのだった。
「……いつか、蒙真に帰れるわ。ユーリ」
「………」
 気休めでも、そう言わずにはいられなかった。クシュリナは、ユーリの冷えた手を握りしめる。
「約束したじゃない、いつか私をユーリの故郷に連れて行ってくれるって。エミルを紹介してくれるんでしょう?」
 ユーリはただ、微笑する。
 彼の妹エミルとクシュリナは同い年だ。が、兄は(エミル)を覚えていても、妹は(ユーリ)を覚えてはいないだろう。五歳の兄と三歳の妹は、十四年前に別れたきり、一度も顔を合わせていないのだ。
 クシュリナに判るのは、ユーリが蒙真族の血を引いていて、何かの事情で    おそらくは蒙真の政治に関わることなのだろうが    家族と引き離され、青州鷹宮家に引き取られたということである。
 蛮族と蔑まれている蒙真族に、このような美しい容貌を持つ者がいるとはクシュリナもそれまで知らなかった。
 はっきり言えば、イヌルダで自身が蒙真の血を引いていると名乗ることは、相当の勇気がいる。
 蒙真とは、イヌルダの人々からみれば野蛮で野卑な後進国家であり、その血を引く人々は、無骨な容姿や肌の色から、シーニュに選ばれし民ではないと蔑まれているのである。
 むろん、青州でもユーリが蒙真の血を引くことは、頑なに伏せられていた。というより、ユーリの素性には決して触れてはならないという、暗黙の決まりが出来ているような雰囲気があった。
 クシュリナがそれを知ったのは、青州にいた最後の月に彼自身の口から打ち明けられたからなのだが、それでもユーリは、蒙真にあって自分がどのような立場なのか、何故逃げるように故郷を追われ、鷹宮家にかくまわれているのか    そういった肝心なことは、一言も語ってはくれなかった。
「人のことばかり、心配してる場合かな」
 蘭の花弁が一枚、ユーリの足もとに舞い降りた。
 二人の目の前には、白亜と象牙でつくられた美しい円塔(ロトンダ)が迫っている。
「君はもうすぐ十八だ。この国のしきたりでは、そろそろ結婚しないといけないんじゃないのか」
 自身の現実    逃れられない運命。クシュリナもまた、眉をわずかに翳らせていた。
「帰ってこないことには……どうにもならないわ」
「法王家の御坊ちゃまか。アシュラルねぇ、いったいどんな男なんだろうな、そいつは」
 アシュラル。
 何故か強い動悸が胸をかすめたが、クシュリナはすぐに目を伏せ、首を横に振った。
「説明する価値さえないわ。ユーリだって判ったでしょう。皆の言う通り、あの人は逃げているのよ」
 七年間。    一度も戻ってこなかった。
 面会はおろか、手紙ひとつ寄越さない名ばかりの婚約者。
「何から逃げてるんだろうな。法王の息子なら、その気になれば、なんだってできるだろうに」
 ユーリが、苦笑する気配がする。
「だから、……その、私からよ」
「君から? 君みたいな人畜無害のお人好しから逃げるなんて、いったいどこまで意気地がないんだ、その男は」
 それには、クシュリナのほうがむっとしている。ユーリは白い歯を見せた。
「アシュラル卿のことなら、あれから色々な所で耳にしたよ。出奔して七年は確かに長い。ただ遊び呆けているのなら、とんでもない馬鹿息子が、君の亭主になるわけだ」
「どうでもいいわ。彼がどんな人になっていようと、私にはまるで関係のないもの」
「おいおい、何をむきになってるんだよ」
「むきに? どうして私が?」
 冷めた憤りを抱いたまま、クシュリナはユーリから顔をそむけた。
「こういう言い方をしてもいいのなら、私はあの人が大嫌いなの」
 初めて心から憎いと思った人。それがクシュリナにとって、アシュラルという人の全てだった。
「彼が、どんな非道い仕打ちを私にしたか。どんなに下劣で、いやらしい人間なのか……口にしたくもないけれど、聞いたらユーリだって、絶対に判ってくれると思うわ」
 言いながら、自分の頬が紅潮していくのが判った。
「イヌルダへ帰った時、まだ、彼が旅から戻っていないと聞いて本当に嬉しかった。このまま、ずっと、帰らなければいいと思っているほどよ」
 ユーリは黙っている。
「もう、あの人の顔も声も、忘れてしまったわ」
 それだけは嘘だった。今でも、クシュリナははっきりと覚えている。
 囁く声と声。見つめ合う顔と顔。
 あの夜の    アシュラルの声、顔、言葉、その一言一句全てを。
「それでも君は、皇都に戻った」
 ややあって聞こえたユーリの声は、楽しそうでも、不思議な寂しさを含んでいた。
「それほど嫌う男と結婚すると判っていながら、君は皇都に戻ったんだ」
「だって、そうするしかなかったもの。私は」
「当ててやろうか、それは甲州公のためでも、イヌルダのためでもない」
 一転した冷たい口調には、軽い軽蔑がこもっているような気がした。
「君は、ただ、ラッセルの傍から離れたくなかっただけなのさ」
 咄嗟にクシュリナは、不器用に息を飲んでいる。
「馬鹿だな、君は。君こそ、人の気持ちがまるで判っていない。新婚の初夜までラッセルが護ってくれると、まさか本気で信じているのかい」
「なに、言って」
 怒りで頬を染めたクシュリナは、次の瞬間、はっと口を噤んでいた。ユーリの顔が、暗い影に覆われていく。
 つられるように空を仰いだユーリが、眉をしかめるのが判った。
「月が   
 いつの間に、雲が出てきたのだろう。
 二人の目の前で、月が、みるみる黒い雲に覆われ始めた。
 
 
 
 
 

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