7
ダーラの合図があったのは、翌日、夕刻を幾分か過ぎた頃だった。
「なんだか、空が曇っているわね」
庭に降り立ったクシュリナは、黄昏が降りてきた空に目をやった。
見上げた青の月は雲に覆われ、円はおぼろに霞んで見える。
「姫様、お早く」
周囲を見回しながら、ダーラがうながす。二人の前にはジャムカが用意してくれた黒塗りの馬車。従者や女官が、オルド間を行き来するために使用するものである。
ユーリの逗留している白蘭宮は、金羽宮本殿の一角にあり、クシュリナが暮らす青百合オルドからは、馬車を使って移動しなければならなかった。
黒のケープを頭からすっぽり被ったクシュリナは、今はダーラと同じく胡粉色の女官服を身につけ、髪もひとつに括っている。
「夜に、外に出るのは随分久しぶりになるわ。……」
「そういえばそうですわね。皇都に戻られて以来、夜の外出は御控えになっておいででしたから」
クシュリナの不安が通じないのか、ダーラはあっさりと笑って先に歩き出す。
ダーラと共に馬車に乗り込んだクシュリナは、それでも落ち着かないものを感じながら、刻一刻と色を変えていく空を見上げた。
(よろしいですか、皇都にお暮らしだからといって油断してはなりません。私と御約束くださいませ。月のない夜は、何があろうと決して外には御出にはならないと。 )
皇都に戻る時に、ラッセルからくどいほどに注意を受けたことが、今さらのように思い出される。皇都には忌獣は出ない。それはシュミラクール界の常識だし、実際、皇都に住む誰もが平然と夜間に外出している。
わかっていても ラッセルと交わした約束だけに、それを破ることには少なからぬ躊躇いがあった。
ジャムカが操る馬車は、静かに夕暮れの宮内を進んでいく。ケープを深く被りなおし、クシュリナはそっと目を閉じた。
ラッセルは……バートル隊として白蘭宮に詰めているのだろうか。だとすれば、彼にも今夜会えるのだろうか。
もう考えまいと決めているのに、ラッセルの静かな佇まいや控え目な微笑を思い出した途端、胸が切なく痛んでいる。
馬車は時々停まり、その都度ダーラが見張りのパシクに何かを説明していたようだったが、馬車を降りると、そこはもう白蘭が咲き乱れる宮庭だった。目の前には居館の裏口があり、黒い人影が佇んでいる。
それが、青州のシュバイツァ城にいた侍女頭のエボラであると知り、クシュリナはさっと表情を翳らせていた。
男のような体格を持つ無愛想な中年女は、いってみればユーリの監視役のような役回りで、青州でも散々嫌な目にあったからである。
「よろしいですか」
「ええ」
が、ダーラとエボラは短く言葉を交わし、それが互いの了解の合図のようだった。
あっさりと関門を突破した二人は、居館の中に入り、そこでようやく暑苦しかったケープを脱いだ。
「すごい、ダーラ、あのエボラを黙らせるなんて」
心底感嘆して、クシュリナはダーラを見上げていた。
「黙らせるも何も、そういう約束をしていただけですよ」
あっさり答えるダーラの横顔は、いつもより素っ気ない。クシュリナはようやく、二人の間に口にできない約束 何かの利益交換が行われたのだと察したが、問いただすことはできなかった。
ダーラは、クシュリナの第一女官であると同時に、パシクの優秀な騎士でもある。当然、クシュリナには見せない面も色々持っている。
「この先のお部屋で、ユーリ様はお休みになっておいでです。エボラ様が侍女を皆退けてくださいましたから、お一人で待っておいででしょう」
ダーラが指し示す先に、蝋燭灯りに照らされた豪奢な扉が浮かんでいる。
クシュリナを見下ろし、ダーラは静かに微笑した。
「私は、こちらでお待ちしています。誰もお部屋に近づかないよう、見張りをせねばなりませんから」
「そうなの?」
当然、ダーラも同席するものだと思い込んでいたクシュリナは、驚いて顔をあげている。
「ええ。それから私が合図するまで、お部屋から決して出られませんように。帰りの支度が整い次第、扉を二度、三度叩きます。それまでは、決して」
「………」
締め切られた部屋で、ユーリと二人。
何故だか、嬉しさとは別の胸騒ぎがした。
が、十二の年から一緒に過ごした幼馴染に、そんな杞憂を感じた自分が恥ずかしくなり、クシュリナは頷いて歩き出す。
最後にダーラを振り返ったが、静まり返った廊下には、すでに誰の姿もなかった。
8
薄暗い部屋からは、微かな香が漂っている。グレシャムの好みなのか、青洲でもよく嗅いだ、薬湯にも似た甘ったるい匂いだ。
あまり好きではない 長く嗅いでいると、実際に頭が痛くなってくる。
目的の人は、天蓋から垂れる孔雀藍の帳の向こうで、横になって休んでいるようだった。
「ユーリ? ……私よ」
「クシュリナ?」
帳の中から、わずかに掠れた声が聞こえた。
「本当に ? 驚いた、本当に君か?」
絹が擦れる音。ユーリが急いで起きあがる気配がする。
「そのままでいいわ、休んでいて」
駆け寄ったクシュリナは、帳から顔を出したユーリを見て、さっと眉をひそめていた。
思ったより顔色がよくない。肌は透き通るようで、解けた銀の髪は乱れ、力なく額に落ちている。
それでも、病んだ目だけが輝いて、唇には喜色が強く浮かんでいる。
ユーリははしゃいだ態で歩み寄ると、白雪虎の毛皮で覆われた長椅子を指差し、クシュリナの手を引いた。
「座ってくれ、そう、そこに。俺が隣にいってもいいか?」
「それは……いいんだけど」
「少しは警戒しろ、二人きりだぞ、俺だって男だからな」
からかうような笑みを見せると、ユーリはクシュリナの対面の肘掛椅子に腰を下ろした。
卓上には、溢れるほどの果物や季節の花、砂糖菓子などがぎっしりと並んでいる。
赤みがかった黄薔薇を見た時、クシュリナはそれらの送り主を知った。黄薔薇、妹のサランナである。
「さぁ、飲んで。青洲から持ってきた花蜜酒だ、君の好物だったろう」
上機嫌のユーリから、煌めく硝子瓶から注ぎ分けた琥珀を勧められる。
クシュリナは、銀杯を口につけるだけにとどめ、杯を飲み干すユーリの様子を見守った。
気のせいだろうか、青州に居た頃より、やはり具合が悪そうな気がする。
「そんな目で見るなよ」
杯を置き、長い足を組むと、ユーリは笑った。
「……今度は私、見とれてないわよ」
警戒しながら答えると、ユーリは、弾けるような笑顔になった。
「そういう意味じゃない。見かけはひどいだろうが、実際はそうでもないんだ。今の君の目は、まるで死にかけの病人でも見てるようだぜ」
「ま……」
確かに図星だ。が、死にかけとはいかないまでも、今のユーリの顔色は元気とは程遠い。
「旅の疲れなの? なんだかいつもより、状態が悪そうに見えるわ」
「伏せっていないと、グレシャムにあっちだこっちだと連れ回される。社交界は嫌いなんだ。で、体調が悪いということにさせてもらってる」
「……本当に?」
「本当だよ」
本当とは思えなかったが、結局は何を聞いても、同じ答えしか返されないだろう。ユーリは、昔からそういう人で、弱音めいたことは絶対に漏らさない頑なな気質を持っている。
「まぁ、実際は少しばかり疲れたんだろうな。船は苦手でね、君には悪いが、もう二度とあんな長旅はごめんだよ」
「だったら、次は、私が青洲に行けばいいのね?」
クシュリナは、軽い皮肉をこめで切り返したが、笑うユーリの目にいつもの覇気がないのは明らかだった。
窓の外で、暑気の先触を告げる虫が鳴いている。
もう直、イヌルダはごく短い雨期に入る。
「……何?」
微笑したユーリが、わずかに首をかしげて見下ろしている。
「何って……?」
クシュリナは戸惑って瞬きをした。
「俺を見てるから」
「そ、そりゃ……、他に見るものがないんですもの」
「じゃあ、俺も君を見てなきゃな」
吸い込まれそうに美しい瞳から、ふっと笑いが消えたような気がした。
沈黙に初めて気まずさを感じ、クシュリナはそれを誤魔化すように立ちあがる。
「皆が、色々噂しているのだけど」
「噂って?」
目を逸らしたユーリが、花蜜酒の瓶を持ちあげる。
「……バートル隊が、この館を見張っているって……、ユーリは知らないだろうけど、いつもなら皇都の州境を警備している部隊なのよ」
「ふぅん」
「もしかしてグレシャム様は、何か揉め事でも抱えていらっしゃるのかしら」
思い切って訊いたことだが、ユーリは眉をしかめ、わざとらしく腕組みをしてみせた。
「あの人は男女問わず、あらゆるところで恋の恨みを買っているからね。いつ、背後から刺されても不思議じゃない」
「まぁ、ふざけてないで、本気で答えて」
「ダーシーともめてるんだ」
あっさりと認め、ユーリは肩をすくめてみせた。
「……本当に?」
「そ、青州を出る時からずっと、ダーシー派の暗殺隊につけ狙われてる」
「まさか」
グレシャムによってゼウスに追放された弟のダーシー。
クシュリナが知る限り、兄思いのダーシーに、そのような真似ができるはずがない。
「別に驚くようなことじゃないだろ」
ユーリの口調はさばさばしていた。
「青州には、ダーシー擁立派が沢山いるんだ。グレシャムが強引に公の跡を継いだ時から、いずれ戦いになるのは目に見えていたからね」
「………」
「なんにしても、君が気にすることじゃないよ。しょせん鷹宮家の御家問題だ」
クシュリナは黙っていた。まるで自分とサランナの未来を言われているようだ。
どちらが跡を継いでも遺恨が残る。例え本人にその意思がなく退いたとしても 周囲の者が放っておかない。
「そういう争いって……どちらかが死ぬまで、収まることはないのかしら」
「ん?」
訝しげな目で見上げられる。
「……ううん、なんでもない。……」
今の平穏は、きっと嵐の前の静けさだ。クシュリナが法王家のアシュラルと結婚し、サランナがヴェルツの息子ダンロビンと結婚すれば、教会、五州を巻き込んでの争いになることは避けられない。いや、それだけならまだしも、ゼウス、ウラヌス、タイランド、蒙真の支配するナイリュ――残る四国を巻き込んでの大きな戦争が起こるかもしれない。
どうすれば誰も傷つけることなく、妹との争いを回避することができるだろう。
「面白い話をしてやろうか」
背後の人が立ち上がる気配がした。振り返ると両手に二つの銀杯を持っている。
歩み寄ったユーリは、優しい微笑を浮かべたまま、クシュリナに杯を差し出した。
「……なぁに?」
「飲んで」
いつにない態度に不思議さを感じながらも、勧められるままに、甘い果実酒に唇をつけた。
「実はそれは、毒入りだ」
クシュリナは吹き出すようにして笑っている。
「なぁに、それ」
「君と心中しようと思ってね」
ユーリは、唇の端に淡い微笑を刻んだまま、自身も杯を飲みほした。
「毒は、すぐには効かない。そうだな……明日に朝にはきいてくる。君と俺は、互いの寝室で冷たくなっているところを発見される」
「素敵だけど、そんなのじゃ誰も心中だとは思わないわ」
クシュリナの手から空になった杯を取り上げ、ユーリは苦笑にも似た笑いを浮かべた。
「むろん、そうだ。毒殺だということになるだろう。同じ時間に、眠るように静かに心臓が止まっているんだからね。その場合どうなると思う? 身体に起きる変化を見るため僕らは教会に安置される」
「……そうなの?」
「先代の青州公が死んだ時、念のため三日間埋葬を遅らせたからね。変化は何も起こらなかった。だから病死。でも、仮に起きていたとしても、全てダーシーのせいにされていたんだろうけれど」
聞き捨てならない言葉だったが、ユーリは楽しそうな口調で続けた。
「話を戻そう。教会に安置された僕らは、毒を飲んでからきっかり二日後に目を覚ます。心臓が再び動き出すんだ。静かに 誰にも知られないように」
自身の胸を押さえ、ユーリは、再び長椅子に腰を下ろした。
「そこからは、君のダーラとエボラの出番さ。二人の手を借り、僕らは埋葬の直前に棺桶から抜け出す。そしてイヌルダを出て……どこへ行こう。ナイリュの南には、まだ見知らぬ島がいくらでもあるからね。どこでだって生きていける」
「二人とも病弱よ? なんだか、とても頼りない旅になりそうだわ」
クシュリナが言うと、声をたててユーリは笑った。
「想像以上にロマンのない答えだね」
「さっき、長旅は二度とごめんだって、ユーリがそう言ったのに」
「言った。全く余計なところはよく覚えてるんだ、君って人は」
からかうような言葉とは裏腹に、振り返ったその顔は、意外なほど優しく見えた。心に沁みていくような眼差しで、ユーリはしばらくクシュリナを見つめていた。
「いつまで……皇都には、いられるの」
「いつまでも」
目をそらさずに、ユーリは微笑した。
「君を放ってはおけない。……このまま青州には、帰れない」
「……ユーリ」
クシュリナは、彼の眼差しに戸惑って視線を下げた。ユーリはどうしたんだろう。青洲にいた頃も、深刻な話をすることは何度もあった。でも、これほど熱を帯びた眼差しで見つめられたのは初めてだ。
「なんだか……へんだわ。今夜のユーリ」
「病気だからね」
軽口をたたいたものの、ユーリもまた、どこかぎこちなく視線を逸らした。
「少し、庭を歩かないか」
「え?」
「ここは空気が悪い、風にあたりたいんだ、外に出よう」
「え……でも」
外の暗さは、もう室内にいてもはっきりと判るほどだ。
第一、訪問自体がお忍びなのに、二人で出歩くなど、ダーラが許すわけがない。
ユーリは、クシュリナの逡巡を感じ取ったのか、視線を露台越しに見える庭に転じた。
「おいで」
露台から、外を見るくらいならいいだろう。
ユーリの背を追うようにして露台に出ると、煌々と輝く月が、白蘭が咲零れる庭園を照らし出しているのが目にはいった。
雲は、完全に晴れている。
「中庭だから、外からは誰も入ってこられないよ」
ひょいっとユーリが手すりを飛び越えたのは、その言葉を発した直後だった。
「えっ、ユーリ!」
「おいで、こっちだ」
明るい顔で振り返られる。
青州でも、こうやって互いの部屋を行き来していたことを思い出し、クシュリナはあきらめにも似た溜息をついた。
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