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「まぁ!」
「まぁ、何てこと!」
 ややあって、その場にいた婦人たちから、口々に驚きの声があがる。
 むろん、当のサランナの驚きのほうが大きかったに違いない。衆人を前にしたこれ以上ない侮辱に、頬をさっと赤く染め、さしもの微笑みも強張っている。
「お受けしたいのはやまやまですが、皇都では、婚約者を持つ女性に、踊りを申し込んではいけないしきたりがおありだとか」
 世にも美しい笑顔を浮かべ、ユーリは優しい口調で続けた。
皇都(こちら)への旅の途中に耳にした話です。クシュリナ様が皇都にお戻りになった二年前、若い殿方と踊られたことで、社交界中の御不興を買われたそうですね。僕が聞いたところ、社交界の……確か三大勢力とやらが、それぞれ猛烈にクシュリナ様に抗議なさったのだとか」
 強烈な皮肉だったが、サランナは、訝しげに瞬きをする。
 実際、カナリーからなされた抗議に、サランナは関与していなかったのだろう。当時、妹はまだ十四歳だったのだ。
 それより、ユーリが二年前の事件を知っていることのほうが、クシュリナは驚きだった。
 皇都の社交界に戻った初日、クシュリナは沢山の青年貴族から踊りを申し込まれた。それこそ、息つく暇もないほどだった。思えばその日、三大勢力を差し置いて、クシュリナは目立ちすぎたのだ。
 騒ぎが起きたのは、その翌日である。婚約者がいながら他の殿方と一番に踊るなどとんでもない。イヌルダの第一皇女なら、しきたりを率先して守るべきではないか。という抗議が、パトゥ、カナリー、カーディナルの三大勢力から相次いで寄せられたのである。
 まさに言いがかりだったが、その騒ぎが広まったことで、クシュリナに踊りを申し込む男性は誰もいなくなった。以来クシュリナは、舞踏会となれば父と踊るしかなくなったのだ。
「僕はそれを承知の上でクシュリナ様を強引にお誘いし、先ほど厳しいお叱りを受けました。田舎育ちの僕には、どうやらこちらのしきたりの厳しさがわかっていなかったようです」
 サランナに劣らぬほどの愛らしい微笑を唇に浮かべ、ユーリは優雅に立ちあがった。
「せっかくのお誘いですが、その罰として、今宵はもう、誰とも踊らないことに決めております。ご無礼をお許しください」
     ユーリ……。
 かすかな眩暈をクシュリナは感じた。青州でもよく目にした光景だ。一度受けると思わせて、次の瞬間手ひどく断る。これはユーリの、性質の悪い嫌がらせなのだ。
「まぁ!」
「何と言う無礼な!」
「あつかましい、たかだか青洲公の養子が、サランナ様に」
 案の定、カナリー取り巻きたちの怒りが爆発する。
 騒然とした雰囲気の中、ユーリは恐ろしいほど冷めた目をして、すでに関心を失った人のようにあらぬ方向に視線を向けている。
「皆さま、お静まりになって」
 静かな声で、場を制したのは、サランナだった。
「そう……そうですの。よく判りましたわ、ユーリ様。でもそれは、言い訳ですわね」
 ユーリに向きなおったサランナは、扇で口元を覆い、悲しそうに睫毛を伏せた。
「ユーリ様は、クシュリナお姉様とだけ、踊りたくていらっしゃるのでしょう? 二年ぶりにお会いになったのですもの。そのお気持ちをお察しできない、私が失礼を申し上げたわ」
 瞬くだけで、サランナの美しさが潤みを帯びて増すような気がした。
「では、またの機会にお会いしましょう。ユーリ様」
 妹は、これ以上ないほど優しい一礼をユーリに残し、優雅な所作でドレスを翻した。貴婦人たちの衣擦れの音が、そそくさと後に続く。
「あー、すっきりした」
 振り返ったユーリが、ぺろりと舌を出した。「ざまぁみろ」
「……ユーリ……」
 すでに、クシュリナには言葉さえ出てこない。
「言っただろ、君をいじめる奴らは許さないって。ま、俺にできる復讐なんて、この程度のものだけどな」
「ユーリ、ひどいわ。いったいサランナが何をしたというの?」
「君をいじめた」
「ユーリ!」
 さばさばと歩きだすユーリの背を、クシュリナは憤りを感じながら追っている。
「気持は嬉しいけど、そんな真似をして何になるの? あなたがどんな目にあったって、私に助けることはできないのよ」
「平気さ」
「あなたは判っていないのよ。この社交界でトロウスを敵に回すことが、どういう意味を持つか」
「判ってないのは君のほうだよ」
 ユーリは足を止める。不思議なくらい、その口調には、静かな自信が滲んでいた。
「俺なら本当に平気なんだ。多分、君には想像もできない理由でね」
「どういう意味……?」
 クシュリナは眉をひそめる。
「ユーリ、そんなところで何をしているんだ」
 冷やかな声がしたのは、その時だった。
 
 
                
  
 
 振り返ったユーリが、眉をしかめて嘆息する。
 ユーリの養父、青洲公鷹宮グレシャムが、婦人たちを引き連れて、こちらに向って来るところだった。
 一見上機嫌そうなグレシャムの目は、けれど氷のように冷え切っている。
 バトゥとカナリーが対峙して、あれだけの騒ぎを起こしたのだ。同じ広間にいて、気にならなかったはずはない。
 が、グレシャムは、不機嫌などおくびにも出さない優雅な所作で、義理の息子を婦人たちに紹介した。
「皆さま、ご紹介いたしましょう。これが私の息子、ユーリです」
「まぁ、可愛らしい」
「なんて美しいお子様でしょう」
 ユーリを取り囲む女性たちから、口々に、称賛の声があがる。
「本人が先ほど申し上げた通り、この子は蒙真で生まれ、育ちました。いえ、むろんあの蛮族どもとは縁もゆかりもございませんが、わけあって蒙真国の友人に身柄を預けていたのです。お恥ずかしいお話ですが、それもまた、私どものお家事情だとご理解ください」
 穏やかな口調でグレシャムは、ユーリが起こした波紋の余波を消していく。
「そのようなことまで仰らなくとも」
「このような美しいお子様を、誰が蛮族などと思いましょうに」
「ユーリ様が、鷹宮家の血筋であられることは、このお見事な御容姿が、何より雄弁に物語っておられますわ!」
 同情の声を、爽やかな笑顔で受け流し、グレシャムは、クシュリナに向き直った。
「申し訳ございません。ユーリが何か、ご無礼を申し上げませんでしたか」
「いいえ……」
 涼しげな目許。穏やかで紳士的な語り口。
 青州でも、女性たちの誰もがこの笑顔の虜になっていた。が、彼の裏の顔を知っているクシュリナには、その爽やかな笑顔は、むしろ毒々しくさえ映っている。
 クシュリナが青州に遊学中、グレシャムが不在がちだった本当の理由は、彼が先代の青州公に忌み嫌われていたからである。
 領内の農村民に対するあまりに残虐なふるまい、そして眉をひそめたくなるほどの遊蕩ぶりは、クシュリナも何度も耳にしたし、目にしている。
 先代の青州公は、むしろ弟のダーシーを後継にと望んでいた。が、故にダーシーは兄に命を狙われ、先代青州公が病に倒れた後に、青州を追放されたのだ。
「ユーリ、こちらへ」
 グレシャムはユーリの手を取り、自分のほうに引き寄せた。
 ユーリは……いつものことだが、この男の前に出ると、蛇に睨まれた蛙のごとく大人しくなる。
 理由は知らないが、二人の間には昔から絶対的な服従関係があって、ユーリが    クシュリナには今でも得心がいかないのだが    この酷薄な男のことを、ある意味信頼していることも知っている。
「では、クシュリナ様、私どもはこれで失礼致します。また、改めてオルドにご挨拶に伺いますので」
「弟君のダーシー様は、お元気ですか」
 グレシャムが不快になると知りながらも、声をかけたのは、ダーシーのことが本当に心配だったからだ。
 グレシャムとは二つ違いの弟、ダーシー。
 それこそ無口で無愛想な性格で、兄とは逆に女性たちからひどく嫌われていたが、誠実で心根の優しい男である。その気になれば、グレシャムを追放することも可能だったろうに、最後まで兄を信じたばかりに、青州を追われるはめになった。
「おかげさまで、ゼウスで元気にやっているようですよ」
 眼も合わさずに答えると、グレシャムは、口を開きかけたユーリを引っ張るようにして背を向けた。
「ダーシー様とは、青州公様の弟君の?」
「噂では、とんでもない放蕩者であったとか。今は、北のゼウスに幽閉されているそうですわよ」
「グレシャム様も、出来の悪い弟を持たれて、お気の毒でございますわねぇ」
 囁きと共に、女性たちも後に従う。
 さっと振り返ったユーリが、胸のあたりで、指を二本立てて見せた。クシュリナにしか判らない、二人の「またな」の合図である。
     ユーリったら……。
 嘆息しつつ、合図を返そうとした時、紫の上衣が、一斉に頭上で動くのが目に入った。
 バートル隊……?
 二階の小部屋に控えていたバートル隊である。
 颯爽と進む隊士たちの中に、一際背が高いラッセルの横顔が見えた。先頭に立つのはジュールである。
 彼らの動きが、ぴったりと広間の青州公の動きと一致しているのを見た時、クシュリナは眉を寄せていた。
 もしかして……グレシャム様とユーリを、見張るために……?
 再び視線を下げた時、すでにグレシャムとユーリの姿は、婦人たちの輪の中に溶け込んでいる。
 遠ざかっていく青洲公と彼の義理の息子を、クシュリナはひどく不安な気持ちで見送った。
 
 
   
 
 

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