第二章 鷹宮ユーリ |
1
円舞曲が終わった途端、ユーリとクシュリナは多くの婦人たちに取り囲まれた。
「紹介しますわ。この方は青州公鷹宮グレシャム様のご子息で、ユーリ様。私が遊学中に親しくさせていただきましたの」
クシュリナは出来る限りの笑顔と礼節をもって、ユーリを社交界に紹介した。
こういった場をユーリが嫌うと知っているから、余計に丁寧になっている。
「鷹宮ユーリです」
ユーリは、優雅に一礼した。
彼が動くたびに銀の髪がまばゆく煌き、長い睫が白磁の肌に影を落とす。実際、その動作は、居合わせたどの貴婦人よりも美しく見えた。
「驚きましたわ。こんなにお綺麗な殿方がいらっしゃるなんて」
「こうして並んでいらっしゃると、クシュリナ様とは、まるでご兄妹のようですね」
婦人達は、口々にユーリの美貌を褒めそやす。
「青州のシュバイツァ城では、本当の兄妹のように過ごしましたから」
クシュリナは、精一杯の微笑を浮かべて応対に努めた。
「御年は、十九歳。皆さまもご存じだと思いますけれど、青州公の御親戚にあたられる御血筋の方で、先年、正式に鷹宮家のご養子になられましたの。多少無口なところはございますけれど、とても心優しい、素敵な殿方でいらっしゃいますわ」
ね、とユーリを振り返り、目で軽くけん制する。
正直、内心では冷や冷やしている。
ユーリは昔から、貴婦人と呼ばれる類の女性たちが大嫌いなのだ。青州でも、端女や村女などには驚くほど優しいのに、貴族の女性相手には氷よりも冷たい。
クシュリナも、青州についた最初は、泣きたいほど冷たくあしらわれた。
二人の垣根が取れたのは、ラッセルが仲立してくれたからだろう。双方の生い立ちに、同じ孤独の匂いを感じとった時から、二人は親友のように親しくなった。 まるで……見えない糸で引かれあうように。
「じゃ、ユーリ様、そろそろグレシャム様の所へお戻りになられたら」
その時だった。
「失礼ですけど」
婦人たちの輪の向こうから、柔らかな、鼻にかかった声がした。
ざっと婦人たちの輪が割れる。
現れたのは、社交界最大勢力黒椿の面々。先頭に立つのは、バトゥの盟主ヴェルツ公爵夫人エレオノラである。
「ユーリ様はどちらのお生まれでいらっしゃいますの? 青州公の御親戚だと申されましたけれど、その目色も髪色も、イヌルダでは見ないものですわね」
黄金色の髪飾りと甘い銀粉をふりつけた髪が、まばゆいばかりに輝いている。身体に吸いつくような真珠色のドレスが、女の豊満な肉体をなまめかしく強調している。
切れあがった瞼の下から覗く青碧の瞳を見た時、ふっとクシュリナは、気持ちが冷たくなるのを感じていた。
夜の花園、囁く声と声。……いけない。 。
どうして今、そんな必要のないことを思い出してしまうんだろう。
すっとユーリが前に出た。代わって答えようと思ったクシュリナがはっとした時、すでにユーリは口を開いている。
「僕に記憶はございませんが、出身は.蒙真島だと聞かされています」
ざわっと周辺が色めきたった。
驚いたのは、クシュリナも同じである。ユーリの出自に係る話は 決して口外してはいけないはずではなかったのか。
「蒙真?」
「では、蒙真族の血を引いているんですの?」
「嘘でしょう? あの蛮族どもとユーリ様は、似ても似つきませんわ」
蒙真族は、褐色の肌と突き出た頬骨、そして灰色がかった太い髪を特長としている。優雅さとはかけ離れたその容貌から、イヌルダでは彼の一族を蛮族と呼び、ナイリュの覇者となった後でも、決して対等にはみようとしない。
「さぁ、僕が知っているのは、蒙真で生まれたということだけですから」
ユーリはそっけなくなく受け答えた。
「でも、おかしいのではございません?」
扇で自身をかろく扇ぎながら、エレオノラが口を挟んだ。
「青州公の御親戚が、蒙真におられるなんて聞いたことがございませんわ。いったい青州公様は、彼の国とどういう繋がりをもっておいでですの?」
婦人たちはまだざわめいている。クシュリナも、内心動揺しながらユーリの横顔をうかがい見る。いったいどうして、ユーリはわざわざ自身と青州公の立場を危うくするような秘事を口にしたのだろう。
と、突然ユーリは、さしものエレオノラの美貌がかすむほどの笑顔になった。
「同じことを二度答えなければならないのが、こちらの社交界のしきたりですか」
何を言われたのか理解できないような目で、エレオノラはユーリを見上げる。
ユーリは、美しい笑顔のままで、社交界の女王を見下ろした。
「しきたりとあらば、お答しますよ。僕が知っているのは、僕が蒙真で生まれたということだけです」
「……ま」
ようやく、侮辱されたと知ったエレオノラの眉が曇る。
が、社交界の女王はすぐに精神的優位を取り戻したのか、扇を優雅に裏返しながら、たおやかな眼差しをユーリに向けた。
「青州公の御子息と申されたかしら」
問われたユーリは、美しい微笑をますます濃くする。
「それも、二度、答えなければならないのですか」
「ええ、婦人に聞かれたことには何度でも答えるのが、こちらの社交界のしきたりですのよ」
「では、何度でもお聞き下さい。頭の弱い方々にも判るよう、僕も丁寧にお答えしましょう」
「………」
ユーリ……。
クシュリナは額に手を当て、目を閉じていた。
どれだけ機嫌が悪いのだろう、それとも、何かに腹でもたてているのだろうか。今夜のユーリは最悪だ。
「青州は随分な田舎だと聞いておりますけれど、皆、あなたのように口のきき方をご存じないのかしら」
唇に毒の笑みを刻んだまま、エレオノラは、静かに扇を翻した。
「あなたの無邪気な無知が、青州公様に害を及ぼさねばよろしいのですけれど」
「なるほど? まるで貴女が、そうされるような御口ぶりですね」
場は静まりかえり、貴婦人たちも、蒼白になって押し黙る。
クシュリナもまた、半ば色を無くしていた。ユーリの口の悪さは知っているが、今夜はどう考えてもやりすぎだ。何を考えているのか知らないが、本気で黒椿を怒らせたら、とんでもない報復が待っている。
でも、どうすればいいのだろう。
判っていても この場をいさめる器量は、自分にはない。
「ユーリ様って面白い方ね!」
その時、ひときわ華やかな明るい声が、沈黙を救った。
2
「それに、お姉様と踊るなんて、とても勇気がおありになるわ」
サランナだった。カナリーの取り巻きをずらっと周囲に並べている。まるで、大輪の花がいきなりその場に咲き誇ったようだ。
婦人たちの環が、サランナを取り巻くようにさっと割れた。
向かい合うバトゥとカナリー。
互いに譲らない光が、双方の陣営からまばゆいばかりに放たれている。
クシュリナも、思わず一歩引いていた。
「ユーリ様は、ご存知ないのね」
眉を寄せたエレオノラが見守る中、サランナは無邪気にユーリの傍に歩み寄った。
「お姉様には、アシュラル様という、それはそれは素敵な婚約者がいらっしゃるのよ。そしてイヌルダには、アシュラル様より優れてお美しい方はいままでおられなかったの。ねぇ、皆さま? そうではなくて?」
「そう……そうですわね」
「青州公様もお美しくていらっしゃいますけど、あの当時のアシュラル様の人気ぶりときたら、とても敵うものではございませんもの」
我に返ったように、周囲の婦人たちがサランナに追従する。
得意気に頷いて、サランナは続けた。
「だからお父様以外、誰もお姉様と踊れないの。だって、誰が隣に並んでも、アシュラル様と比較されるだけなんですもの。お姉様に円舞曲を申し込むのは、大変な勇気が必要なのよ」
わざと言ってくれているのか、それとも真実思い込んでいるのか。
クシュリナは不思議な思いで、邪気のない笑顔を振りまく妹を見つめた。
実際は、そういう理由で父以外の男性と踊ることができないのではない。 それどころか、クシュリナがアシュラルと踊ったことなど一度としてないのだから。
「アシュラル様は、遍歴の旅に出ておられると聞いていますが」
不意にユーリが口を開いた。
「まぁ、あの方をご存じでいらっしゃいますの?」
サランナはますます嬉しそうな顔になる。
「ええ、そうですわ。アシュラル様は騎士になるための旅に出ておられるのです。各地の演武会に参加して、ご自分独りの腕だけで賞金を得て生きていくの……全ては、お姉様と結婚する資格を得るために!」
両手を胸で組んだサランナは、夢見るような眼差しをクシュリナに向ける。
「ああ、お姉さまが羨ましい。なんてロマンティックなんでしょう!」
どう反応していいか判らず、クシュリナは曖昧にうなずいた。昔からサランナが、アシュラルに執心しているのは知っていたが、そこまで美化されているとは想像外である。彼が旅に出た真実の理由を知ったら、この妹はどんな反応を見せるだろう。
「殿方が、自分のために戦って血を流すなんて、どきどきするわ!」
周りの婦人たちが笑いを零し、エレオノラも苦笑する。さすがにクシュリナも微笑んでいた。
サランナ……なんて可愛い子なのかしら。
巡り合わせとはいえ、こんな無邪気な妹と皇位を争う立場にあることが、心の底から厭わしくなる。いや、決してその争いで血を流すようなことがあってはならないと、改めて思っている。
「遍歴の旅は、古の下級騎士のすることだと聞いています」
が、再び口を開いたユーリの横顔は、苦笑さえ浮かべてはいなかった。
「アシュラル様は、シュミラクール界を統べる教会の総領、コンスタンティノ法王様のご子息であられるとか。何ゆえ身分の貴い方が、そのような戯言に興じられるのか、僕には、まるで理解できませんね」
その口調は、サランナの興奮に水を差すように冷たかった。
さすがに皮肉と理解したのか、サランナの無邪気な表情もさっと翳る。
「ユーリ!」クシュリナもたまらず声を荒げ、二人の間に割って入ろうとした時だった。
「アシュラル様は、法王庁の枢機卿でいらしたの。皇室に入るためには、僧籍を返上して騎士の称号を得なければならないのですわ」
やんわりと声を挟んだのは、目に微笑を湛えたエレオノラだった。
「それにしても、これほど長い旅をなさるなんて……」
エレオノラは扇越しに、挑発的にクシュリナを見る。
その眼差しの意味を知っているクシュリナは、ただ、だまって視線を下げた。
話題がアシュラルに及んだことで、エレオノラの関心がユーリから自分に移ったのだろう。それはそれでほっとしたが、不愉快にならないと言えば嘘になる。
「騎士の旅など真似事でよいものを。本当に律儀なお方ですこと、アシュラル様は」
「あら、そんなことをおっしゃられては」
「クシュリナ様にお気の毒ですわ」
バトゥの取り巻きたちから、囁きと、忍び笑いがひそやかに広がる。
エレオノラは、ますます楽しげに目を細めた。
「まさか、あのアシュラル様に限って、お戻りにならないことなど……、ねぇ」
今、社交界に公然と蔓延している噂。
アシュラルは、皇位継承者と結婚する重圧に負けて、逃げ続けているのだと。
「公爵夫人、そのような言い方はおやめになって!」
気まずい空気をきっぱりと断ち切ったのは、またしてもサランナだった。
潤んだ目で責めるように見上げられ、さしものエレオノラも、口ごもる。
「アシュラル様は逃げるようなお方ではありません。それに、そのような言い方をなさっては、アシュラル様を信じて待っていらっしゃるお姉様がお可哀想だわ!」
美しい目には、本当に涙が滲んでいるようだった。
「ねぇ、お姉様、そうですわよね?」
その瞳で真摯に問われ、クシュリナも言葉に窮している。サランナには悪いが、アシュラルのことなら、信じてもいないし、待ってもいない。
が、サランナの懸命の訴えは、エレオノラにとってはむしろ興ざめようだった。妖艶な女は鼻白んだように肩をすくめ、扇をひらりと翻す。
「ユーリ様」
最後に振り返ったエレオノラは、嫣然と微笑した。
「仰られる通り、こちらの社交界には色々しきたりがございますの。よくお勉強なさって、ぜひまたゆっくりお話いたしましょう」
ユーリは答えず、ただ唇に笑みを浮かべる。
エレオノラを筆頭に、バトゥの一団がぞろぞろと去っていく。クシュリナがようやく肩の力を抜いた時、すうっと傍をすり抜けたサランナが、自らの手をユーリに向けて差し出した。
「よろしくて? ユーリ様、次は私と踊ってくださらないこと」
再び婦人たちの間に、どよめきが広がった。自分より身分が低い男性に、女性から踊りを申し込むなど、あり得ない珍事だからである。しかもサランナは、イヌルダの第二皇女だ。
ユーリもまた驚いたのか、少しだけ眉を動かした。
「僕のような、出自が判らぬ者が相手でよろしいのでしょうか」
「お生まれなど、ユーリ様はユーリ様ですわ」
サランナは小首をかしげて愛らしく笑う。
それは本当に愛らしい微笑みで、傍で見ているクシュリナでさえ、ふっと笑んでしまいそうになる。
「あなたは……変わったお姫様のようですね」
ユーリの横顔が、初めて優しくなったように見えた。
クシュリナは複雑な思いで、見つめ合う二人から目を逸らした。
すんなり妹の手を取ってほしいという思いと、断ってほしいという思い 名状し難い二つの願いが、自分の中で揺れている。
不意に、気持ちが再び、嫌な風に冷たくなるのをクシュリナは感じた。
今と同じ状況が、確か、昔もあったような気がする。随分前だ、あれは、いつのことだったのだろう。 。
「では、サランナ様」
ユーリが、うやうやしく膝をついた。「謹んで、お断りさせていただきます」
「………」
断る……?
クシュリナも耳を疑ったが、その場に、あっけにとられたような沈黙が広がった。
|
|