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12
円舞曲が終わった。
優雅に一礼したサランナは、広間の中心に位置している緋薔薇談話場、第二十七代女皇、礼宮アデラの席へと向かう。
華やかな笑顔でサランナを迎えたアデラは、果物の皿をサランナに勧め、二人は顔を近づけあうようにして談笑を始めた。
アデラの笑顔が、決して自分に向けられないことを、クシュリナは幼い頃から知っていたし、義母に関して、もう特別な感情を持つことも無くなっていた。
自分が生んだ実の娘を愛しみ、皇位につけたいと願うのは、当然の感情だろう。その帰結として、前妻が生んだ娘であるクシュリナに敵意を持つのも理解できるような気がする。
クシュリナの実母は第二十六代女皇だったが、幼い頃から病弱だったらしく、クシュリナを産んですぐに病で死んだ。
アデラはその妹に当たる。
妹が、死んだ姉に代わりハシェミと再婚し、第二十七代女皇に即位したのだ。そして一年後に生まれたのがサランナである。
「クシュリナ様、次の円舞曲が始まりますけれど、もうハシェミ様とは踊られませんの?」
ナタルたちが戻ってきて、気づかうような声をかけてくれる。
「せっかく、それほどお見事なドレスをご用意なさいましたのに、ご披露なさらないなんてもったいなさすぎますわ」
「そうですわ。行ってらっしゃいましよ」
クシュリナは微笑したまま首を横に振った。
「ありがとう。でも、もう少し休んでいるわ」
ハシェミは今、珍しくアデラの談話場に参加している。サランナを囲むようにして、妻であるアデラと向かい合っている。おそらく、サランナに無理に引っ張って行かれたのだろうが、親子三人の語らいというのは、クシュリナには永遠に訪れない光景だった。
とうに諦めていることでも ふと、やるせない思いに捕らわれることがある。
何故、私にはお母様がいなかったのだろうか。もし生きておられたら、どのように愛してくださっただろうか。 。
「ねぇ、そう言えばサランナ様ですけど、本当にダンロビン様とご婚約なされたのでしょうか」
不意にナタルが、声をひそめてクシュリナに囁いた。
クシュリナも同時に眉をひそめている。そのダンロビン ヴェルツ公爵とエレオノラの一人息子が、颯爽とサランナのいる談話場に向かっている後ろ姿が目に入ったからだ。
ナタルも同じ光景を見たのか、露骨に眉をしかめて不快な顔をしてみせる。
「なんだか腹立たしいですわね。ダンロビン様ったら、あれだけクシュリナ様にご執心でいらしたのに」
「ナタル様」
クシュリナの顔色が変わるより早く、鋭い声で遮ってくれたのは背後に居合わせたルシエだった。
いつも嫋なルシエの目が、珍しく怒りをあらわにしている。
その剣幕に驚いたのか、ナタルは戸惑ったように瞬きをした。
「あ、その……、申し訳ございません。姫様が、あの方を毛嫌いして、そのために青州にまでお逃げになられたのはわかっているんですけれど」
「昔の話だわ」
クシュリナもまた、動揺した自分に情けなさを感じつつ、取り繕った笑顔を見せた。
「私も、ダンロビン様も子供だったの。それでも、そのような噂がサランナの耳に入れば、嫌な気持ちになるに違いないわ。……私でも、いい気持ちはしないでしょうし」
「でも、噂が本当ならですけど、ヴェルツ公爵とサランナ様が結びつくのは、危険すぎると思いますわ」
ナタルは、ちらちらとルシエの表情を窺いつつ、言いにくそうに言葉を続けた。
「姫様がコンスタンティノ家の方と婚約しているから、それ以上の力をサランナ様にお与えになさるためのご婚約ならば、……皇都は大変な事態になりますわよね」
言われるまでもなく、そういった事情は、政治に疎いクシュリナでも理解している。
クシュリナは生まれる前から、コンスタンティノ家の嫡子と婚約している。が、その婚約とは何から何まで異例づくめの、言ってみれば皇室始まって以来の珍事だと揶揄されている。
なにしろ、代々法王庁のトップに立つコンスタンティノ家と皇室は、古から対立と衝突を繰り返してきた犬猿の間柄なのだ。
両家の婚約は、イヌルダ青州、奥州、薫州、潦州を統べる四公の猛反対を押し切って、父ハシェミが独断で決めた。それもまた、極めて異例なことだと言われている。
その婚約に最も強く反対していたのが、奥州公ヴェルツ公爵 サランナとの婚約が取りざたされているダンロビンの父親である。
ヴェルツと法王コンスタンティノとの不仲は、互いに目さえあわさないほど強烈で、今では公の場で同席することすらないという。
「ではヴェルツ公爵様は、本当にコンスタンティノ大僧正様とお争いになるおつもりなのでしょうか」
「大僧正様は、シュミラクールを統べる教会の総領ですわよ? 争いが起きれば、それはイヌルダだけに収まらず、五国全体を巻き込んだ騒ぎになるのではありません?」
「皆さま、もうそのような話は、およしなさいませ。クシュリナ様がお困りになっておいでですわ」
ルシエ一人が眉をひそめてたしなめているが、最早、誰も聞いてはいない。
それ以上、その場にいるのが耐えがたくなって、クシュリナは立ちあがっていた。
13
後に続く女官を引き連れたまま、クシュリナはテラスの一角に、席を取った。
そこは風に当たるために設けられたいわゆる休息の間であり、多少なりとも広間の喧騒から一線を引いていられる場所である。
「姫様、まぁ、なんという場所におられるのです」
背後からあきれたような声がした。振り返ると、女官服姿のダーラが眉をしかめて立っている。
「ダーラ」
クシュリナは安堵の声をあげていた。まるで親を見つけた子供のような気分だった。
かつてはラッセルがそうだったように、ダーラが傍にいないと、クシュリナはいつも落ち着かない。何をしていても、どこか不安な気持になる。
「どうしたの? 今夜はパシクに混じって、警備をしているのではなかったの」
「ええ、こう見えて警備隊です。広間専門の」
ほっそりとした腰に手をあて、普段より美しく見えるダーラは、険しい目でクシュリナを見下ろした。
「先ほどから見ておりましたが、いったい何をなさっておいでなのですか。最初の円舞曲をサランナ様に譲られたばかりか、このような寂しい席に御移りになられて」
「……皆が、サランナの婚約の話をするから……、なんだか、苦しくなってしまって」
クシュリナはうつむき、胸に手をあてた。本当は、自分が一番気になっている。
「ダーラ、皆が噂している通り、ヴェルツ公爵とコンスタンティノ大僧正様は、本当にお争いになるおつもりなのかしら」
「クシュリナ様」ダーラが、軽く溜息をつく。
「以前も言いましたが、アデラ陛下が、サランナ様を次期女皇にと望まれる限り、いずれ、こういった争いが起こることは、覚悟せねばならないのですよ」
「でも」
「ご安心なさいませ。甲州公ハシェミ様とコンスタンティノ家が結びついている限り、ヴェルツなどに負けはいたしません。クシュリナ様がご結婚して皇位を継がれれば、このような不穏な噂は吹き飛んでしまいますでしょう」
そうだろうか。
信じてはいないが、クシュリナの母、第二十六代女皇クシャナの死に、今でも毒殺の噂がつきまとっているように、クシュリナが仮に即位しようとも、二人の姫が生きている限り、遺恨は尽きないのではないだろうか。
「ダーラ、私、サランナとは争いたくないの。もし、皇位を巡って大きな争いが起こるくらいなら……私、」
私……皇位継承権を返上したい。
ずっと思っていた。自分は、宮中の暮らしには向いていない。駆け引きも争いも苦手で、他人と競い合う精神的負担にも耐えられない。
それならいっそ、皇都を出て、どこか静かな場所でひっそりと暮らしたい。意思と無関係に定められた婚約者とではなく 本当に愛する人と。
「また、そんなお気の弱いことを」
かつかつと歩み寄ってきたダーラが、少し強くクシュリナの背を叩いた。
「しっかりなさいませ。皇位をお継ぎになられるのはクシュリナ様をおいておられません。これは、姫様お一人の問題ではないのです、皇位とは、個人の意思でどうこうできるものではないのですよ」
「……お父様みたいなこと、言うのね」
クシュリナは苦く笑んだ。ダーラの言うことは正論だ。でも、今聞きたい言葉ではない。
「ダーラ、飲み物を持ってきてもらえる?」
「少し休まれたら、ハシェミ様の所に謝りに行かれるのですよ?」
厳しく念を押して、ダーラが人ごみの中に消えていく。
一人になったクシュリナは、目の前で繰り広げられる喧騒を、無言のまま見つめ続けた。
ダーラは大好きな友人だ。彼女がいないと、クシュリナ一人では何もできない。
伏魔殿のような宮中で、まがりなりにも二年の間、つつがなく過ごすことができたのは、全てダーラのおかげである。誰よりも信頼しているし、これからも、ずっと傍にいてほしい。 。
でも時々、彼女の無神経さや明るさ、まっすぐさが、たまらなく嫌になるのは何故だろう。
自分にはないものを、全て持っているダーラ。強さも美しさも、賢さも。そして……心から愛する人も。
私……、ダーラに嫉妬してるんだわ。
なんともいえない自己嫌悪を感じ、クシュリナは黙って唇を噛んだ。
また、しばらくすれば円舞曲が始まる。アデラの笑い声、サランナの笑顔が視界に閃く。父は怒っているだろう。あれから一度もクシュリナのほうを見ないのがその証だ。
ひどく憂鬱な気分だった。いつもなら一人で過ごすこともさほど気にはならないのに、耐えがたいほどの孤独が、胸をつく。
その時だった。
「クシュリナ姫」
柔らかい、少し癖のある声がした。
「僕と、踊っていただけますか」
14
「ユーリ……?」
ややあって、クシュリナは唖然と呟いた。
目の前で膝をついているのは、青みがかった灰色の瞳、人をくったような柔和な口元、煌く銀色の髪を持つ男の人。 。
「やぁ、クシュリナ」
黒い羽飾りのついたつば広の帽子を少しあげて、鷹宮ユーリは真珠のような歯を見せた。
銀刺繍を施した漆黒の上衣とチェニック、黒ずくめの衣装が、肩までの白銀の髪によく映えている。
「ユ、……ユーリ、どうして」
クシュリナは驚いたまま、急いで周囲を見回した。到着が遅れていた青州公の来訪は、まだ告げられてはいないはずだ。
「グレシャムならまだだよ」 顔を上げたユーリは、いたずらっぽく微笑した。
「支度に手間取ってる。今頃、念入りに化粧でもしてんじゃないかな」
「じゃ、……もしかしてユーリ一人で?」
答えを半ば予期しつつ、おそるおそる、クシュリナは聞いている。
「こっそりと、裏口からね」
「………」
社交界では考えられないしきたり違反であるが、青州にいた頃のユーリには、それが常の行動だった。
しきたりは破るためにある。 青州で、ユーリから連日聞かされた格言である。
が、ここは青州ではなく、イヌルダ皇都。しかも、しきたりにはとびきり煩い社交界である。
今夜の来賓が、先ぶれもなくこっそり忍び込んでいいはずもなく、知れてしまえば、婦人たち全員が眉をひそめるのが目に見えている。
「いつまで、俺に、膝をつかせておくつもりなんだ?」
ユーリが笑いながら手を差し出す。
「話よりは、まず踊ろう、久しぶりに君の下手な踊りが見たくなった」
その時、ようやくグレシャム公の来訪を告げる鼓笛が鳴った。楽隊が、華やかな音楽で来賓の登場を盛り上げる。
「きゃあっ、青州公様ですわ」
「今夜も、一段と麗しくていらっしゃること」
女性たちの歓声が曲と共に舞いあがる。
青州公、鷹宮グレシャム。
見事な長身に、整った怜悧な顔。うねりを帯びた闇色の髪。確かに一見、はっとするほどの美男子だが、つり上がった眉はいかにも猜疑心が強そうで、切れ長の目には他人を不快にさせる険がひそんでいる。
それは、クシュリナが知る限り、グレシャムという人の本質を見事についているのだが、大広間に集まった殆どの女性たちは、彼の外見の美しさに心奪われているようだった。
そのグレシャムは、諸侯や婦人たちの挨拶を笑顔で受けつつ、時折、鋭い目を広間の四方に巡らせている。
彼の癇癪の強さを知っているクシュリナは、不安にかられて、まだ膝をついたままのユーリを見下ろした。
「……探しているんじゃないかしら」
「俺?」
ユーリは悪びれない顔で、ひょいっと肩をすくめてみせる。「だったら、見つかる前に、一曲踊っておかなきゃな」
「でも、後ですごく怒られるわ」
「俺がね、だから君が気に病む必要はない」
でも、と言う前に、膝に置いていた手を掴まれた。
「さぁ、行こう」
「ユーリ、駄目よ」
引かれるように立ち上がったクシュリナは、そのまま言葉を失っていた。ふいに立ちあがったユーリの姿が、別人のように見えたからだ。
広い肩幅、すらりと伸びた足、細くても男らしい厚みを増した腰。クシュリナの知っていた頃の彼とは、まるで違ってしまっている。
顔の輪郭からも女性的な細さが消え、少年らしくふっくらとしていた頬は、今は、削いだように研ぎ澄まされている。
青州で別れて二年、今、ユーリは十九歳になっているはずだった。
大人……に、なったんだ。
ようやく、ハシェミに釘をさされた意味を、クシュリナは理解した。
ユーリは十九歳、クシュリナは十七歳。どれだけ仲のよい友人でも、もう昔のように、手を繋いで走ったり、抱きついたり、そんな真似は二度と出来ない。
「悪いが、そういう目は、見飽きてるよ」
言葉が出ないままのクシュリナを、ユーリは、からかうような眼で見下ろした。
「そういう目……?」
「俺に恋する女の目だ」
「まっ」
唖然としたクシュリナは、ようやく警戒を解いて吹き出していた。
「自信過剰ね」
「僕から自信を無くしたら、何も残らないって言ってくれたのは何処の誰だ?」
少し癖のある喋り方。皮肉気な笑い方。
外見以外はまるで変わっていない。昔のように、冗談が好きで、口が悪くて、よく自分を笑わせてくれたユーリのままだ。
クシュリナは自然に微笑していた。
「ユーリって相変わらずね、中身は全然成長してないってよくわかった」
「君は、外見すら変わらないね。どうも、成長が止まってるようだ」
「まぁ、私だって、随分背が伸びたのに」
ユーリは微かに笑って肩をすくめる。「身長差は、そのままだよ」
円舞曲が始まった。
「さぁ」
ごく自然に、ユーリはクシュリナの手を引いて抱き寄せる。はっと、クシュリナは我に返った。
「待って、駄目だわ。私は 」
「婚約してるから? さっき婦人たちの噂で聞いたよ」
「ユーリ」
「そんな大昔の作法、今じゃ誰も守ってないってさ」
そうじゃなくて。
クシュリナは周囲を見まわした。確認するまでもない、広間に集う人たちの目が、自分とユーリに注がれている。ユーリの珍しい目と髪の色、そして並みはずれた美貌は、否が応でも人目を引かずにはいられないのだ。
少しだけ、足がすくんでいた。こんな形で目立ちたくないという気持ちがどこかにある。目立ってしまえば、必ず何らかの形で報復があるから。 。
「青州にいた時の君は、もっと大胆だったな」
ユーリの宝石のような眼は、そんな逡巡を見透かしているようだった。
「それとも君も、つまらない女どもの仲間入りをしちまったのかい?」
その言葉に反発を感じたクシュリナは、腹を括ってユーリの手を取っていた。
いたずらっぽい目でユーリは笑う。
「そうこなくちゃな」
足を踏み出した時、 ひどくわくわくするような、胸がすくような、不思議な高揚感がこみあげた。
ユーリといると、いつもそんな気持ちになれる。高い壁も、手を取り合って飛び越えられるような、そんな大胆な気持になる。
ユーリは馴れた手つきでクシュリナの腰に手を回した。
二人は、広間の中心に出た。
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