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「あの方はどなたですの、ほら、クシュリナ様と踊っておられる、あの……」
たちまち密やかな囁きが、広間中に充満する。
「もしかして、あの方が青州公の?」
「なんて、お綺麗な殿方でしょう。まるで、異国の姫君のような」
「……今の、聞こえた?」
踊りながら、クシュリナはユーリにそっと囁いた。「姫君だって」
「慣れてるよ」
ユーリは、唇の端だけをわずかにあげる。「男装の麗人よりは、腹が立たない」
「そういえば、随分髪が伸びたのね。だから女の子だって言われるんじゃないかしら?」
回る度に、長い、見事な白銀の髪が揺れる。光が煌めき、銀の雫を飛散させているようである。
褒め言葉のつもりだったが、ユーリは閉口したように唇を曲げた。
「いっそ、ばっさり切りたいんだけど、なかなか思うようにさせてもらえない。うっとおしくて苛々する」
「させてくれないって、グレシャム様が?」
「奴が望むことなら、俺はなんだってさせられるのさ」
冗談ともつかない口調に、クシュリナは訝しくユーリを見あげ、距離の近さに戸惑って視線を逸らした。
目の前に、宝玉のように煌めく瞳と、薔薇の花片にも似た唇がある。
「どうした」
「別に……」
「見惚れたな?」
「ちっ、違うわよ」
けれど。 。
クシュリナは眉をひそめていた。
その美しさに、以前には見られなかった病的な匂いが、濃く漂っているような気がするのは心配のしすぎだろうか。
が、もう一度彼の顔を見上げ、クシュリナの懸念はますます濃くなった。
「ユーリ、あまり体調がよくないの?」
「どうして?」
「……なんとなく、だけど」
「病弱なのは生まれつき、今にはじまったことじゃないよ」
確かに、どこがと問われればわからない。が、どことなく、以前のユーリとは違う気がする。
「やっぱり、君だけは誤魔化せないね」
「え?」
憂いを帯びた目でクシュリナを見下ろし、ユーリは長い睫を伏せた。
「本当は君の言う通りだ。さっきから、少し気分が悪い。……胸が、痛くて苦しいんだ」
「まぁ、だったら踊りなんてやめて」
「君があまり近くにいるから、心臓がおかしくなったんだろうな」
「………」
唖然とするクシュリナに、ユーリは弾けるような明るい笑顔を見せた。
「本気で心配したろ、今」
「ユーリ……」
「信じた人間にすぐに騙されるのが、君の最大の欠点だね。でも、同時にかけがえのない長所でもある」
「もう、知らない」
「ほら、怒ってないで、こっちを向いて」
笑いながら引き寄せられる。
「本当のことを言おうか」
向きなおった時、初めてユーリの口調が改まった。
「俺としたことが、少しだけ緊張している。……本当だよ」
睫が頬に影を落とし、翳った瞳が寂しげに見えた。
「諸侯の挨拶を受けている君を見た時、驚いて声も出なかった。随分大人になっていたし、……最初は別の人だと思った」
「………」
昔から、どこまでが冗談でどこまでが本心か、判りにくい表現の仕方をする人だった。
クシュリナはようやく、二年ぶりにユーリの心に触れた気がした。
彼も自分と同じように、二年の月日がもたらした成長に違和感を覚えていたのかもしれない。その隙間を埋めようとして、無理に軽口を叩いていたのかもしれない。
「緊張しているのは私だって同じだわ。お父様以外の方と踊るのは、随分久しぶりだから、足運びだってあやしいもの」
「実は、ずっと指摘しようと思ってた。確かに、危なっかしい足取りだ」
二人は顔を見合わせて笑った。再会して、初めて心から笑い合うことができた気がした。
「君に会いたかった。話したいことが沢山あって、何から話していいか判らないくらいだ」
「私もよ、ユーリ」
「元気だったのか? 社交界でいじめられてるって、青州にまで噂が届いてるぞ」
「平気よ、青州でさんざんユーリに鍛えられたから」
言葉が堰をきったように溢れ出す。言葉を交わせば 昔と何一つ変わらない、幼馴染の顔に戻る。
ユーリは笑いながら言った。
「知らせてくれればすぐに飛んで行ったのに、一体どこのどいつだ、俺の大切なお姫様をいじめるご婦人どもは」
その言葉に、クシュリナはわずかに眉をひそませていた。
「……ユーリ、私、何度も手紙を書いたわ、どうして返事をくれなかったの」
背後の男性と肩が触れそうになったのか、顔を背けたユーリの表情は判らなかった。
すぐに、優しい笑みを湛えた眼で見降ろされる。
「すまなかった。手紙なんか出すより、絶対に会いに行くつもりだったんだ」
「ユーリは無精だって判ってたから、気にしてなかったけど」
「無精じゃない、情熱的だと言ってくれ」
くすっと笑いながら、クシュリナはユーリの表情に翳めた変化が気になっていた。
まるで 手紙のことを初めて聞いたような、そんな意外そうな顔を、一瞬、確かに浮かべたような気がしたから。
クシュリナの疑念を見透かしたように、ユーリはすぐに話題を変える。
「ラッセルは元気か? 相変わらず生真面目に君の保護者をやっているんだろうな」
「ええ、彼は変わらないわ」
「今も、どこへ行くにも一緒なんだろう? ラッセルが心配性の親鳥なら君は甘えん坊のひよこだからな。お互いに依存しすぎて、親離れも子離れもできないんだ」
今度は自分の表情が曇ったかもしれない。「そんなことはないわ」クシュリナは急いで笑顔を作った。
「彼、結婚することになりそうなの。彼の幼馴染でダーラというのだけど、とても美人で、頭がよくて、すごくお似合いの二人なのよ」
「ふぅん」
話題の人を探そうとしたのか、ユーリが軽く視線を巡らせる。「ラッセルに限ってそれはないよ」
「……どうして?」
「君が結婚するまで、彼は絶対に独り身でいるからさ」
「だからどうして?」
「どうして? 俺じゃなくラッセルに聞いてみればいい」
鼓動が高くなるのを感じた。かつては何の根拠もなく、自分自身もそう信じていた。ラッセルは、何があってもずっと変わらず、自分の傍にいてくれるのだと。
「私の結婚を待っていたら、ラッセルがいつ結婚できるかわからないわ。……私の結婚は、もしかするとまだ先になるのかもしれないし」
内心の動揺が、知らず言葉を濁している。
ユーリの眉が、微かに寄せられた。
「じゃあ、噂は本当なのか。君の婚約者がまだ戻ってこないって」
クシュリナは目を伏せた。
「ええ……彼はまだ、騎士の旅から戻らないわ」
騎士の旅 別名遍歴の旅。
古来、イヌルダの下級騎士には、一人前になるまで、武者修業の旅に出るというしきたりがある。クシュリナの婚約者は、今、その遍歴の旅の真っ最中なのだ。
「それにしても、今の時代に騎士の旅ね。王宮の騎士は、随分と古風でいらっしゃる」
「後にも先にも、そんな旅に出たのは彼しかいないわ。それに、遍歴の旅は」
彼に与えられた懲罰なのよ。 。
言いかけて、クシュリナは言葉を飲み込んだ。
かつて、自身を苦しめた様々な過去の情景が、苦々しく胸に蘇る。
「何年戻らないんだ」
「そうね……、もう、七年になるかしら」
最後に彼を見たのが、クシュリナが十一歳の時だから、もうすぐ七年の歳月が流れる。
「……それは、戻らないんじゃなくて」
さすがに気を遣ったのか、ユーリの言葉が、そこで途切れた。
クシュリナはうつむいた。言われなくても判っている。宮中の誰もが影で公然と噂していることでもある。
「というより、その男、いったい何を考えてるんだ? 法王の息子だろ? 確かコンスタンティノ……」
「アシュラル」
何気なくその名を口にして、まるで雷に撃たれたように、クシュリナは放心した アシュラル。
聖将院コンスタンティノ・アシュラル。
また。
この感じ。 。
その名の響きが、不思議なざわめきをもって、胸の内に広がっていく。
「クシュリナ?」
「……ごめんなさい。少し、踊りに酔ってしまって」
なんだろう、今日の私。
彼の名前なら、殆ど毎日、何かにつけて耳にしているはずなのに。
アシュラル。
冷酷な瞳、傲慢な唇。
二度と会いたくない男 私を、徹底的に侮辱した男。
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