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「サランナ」
 クシュリナは、驚いて声をあげていた。
「ごきげんよう。クシュリナお姉様、お父様」
 青百合談話場の中に、しずしずと入ってきたのは、一つ違いの義母妹、鞠宮サランナである。
 ずらりと黄薔薇女官(カナリー・マーラ)を引き連れたサランナは、花がほころぶような笑みを浮かべると、優雅に、礼儀作法通りの一礼をした。
 あっけにとられていたクシュリナも、そこで慌てて立ち上がり、作法通りの礼を返す。
「ご、ごきげんよう、サランナ」
 緊張した声は裏返り、返礼の間も最悪だった。座したままのハシェミが小さく嘆息し、サランナの女官たちが、かすかに失笑するのが気配で判る。
 クシュリナは、まだ驚いていた。
 ほとんど口をきいたこともない異母妹が、    しかも、社交界の三代勢力として君臨しているカナリー・オルドの主が、姉のサロンに顔を出すなど、今までなかったことだからである。
 イヌルダの第二皇女、鞠宮サランナ。
 ひとつ違いのサランナとは、生まれた時から別オルドで育ち、会話どころか顔を合わせる機会すら与えられなかった
 当り前のように互いの存在を黙殺しあってきた姉妹は、仲がいいとか悪いとかいう以前に、これまで、まともに接触することさえなかったのだ。
 が、サランナにはそのあたりの屈託はないのか、クシュリナを見上げると、水晶のような瞳を嬉しそうにきらめかせる。
「まぁ、今夜のお姉様のドレス、なんてお美しいんでしょう。まるで絵本から抜け出した妖精か、雪花の化身のようですわ!」
「あ、ありがとう」
「それなのに私ときたら……まるで、お姉様の引き立て役をしているみたい」
 それは、いきすぎた謙遜か、もしくは軽い厭味のように、クシュリナには思えた。
 サランナは、イヌルダのどの女性よりも美しい。その華やいだ美貌は、一目見たら決して忘れられないだろう。
 最高級の紫水晶を思わせる大きな瞳、長い睫毛、愛らしい唇に薔薇色の頬。
 ほっそりとした首は少女のように華奢で、なのに、なまめかしく膨らんだ白い胸は、しっとりと濡れ、いっそ妖艶にさえ見える。
 淡い薔薇色のドレスは、サランナの碧がかった黒髪を艶やかに引き立て、大きく開いた襟や細身のラインは、胸の膨らみと腰の細さを完璧に強調しているようだった。
 どこを取っても    美で競うなら、自分に勝ち目はないと、クシュリナは思っている。
「ね、お父様、先月、私のサロンでカード遊びをしたのを覚えていて?」
 サランナは、無邪気な瞳を輝かせて、ハシェミのほうに向きなおった。
「ん? ああ、そんなこともあったかな」
「まぁ、私は忘れはしなくてよ。最後の最後で私が勝って、お父様になんでもひとつ、言うことを聞いていただく約束をしたわ」
 腕をとって甘える娘に、ハシェミは困惑したように苦笑する。
「はは、そうだね。私はすっかり忘れていたよ」
「でも約束は約束だわ。お父様、一度交わした約束を破るのは、上に立つものとしては失格なのではありませんの?」
 生真面目に抗議され、さしものハシェミも、お手上げ状態で立ち上がる。
「わかったわかった、なんでも聞こう」
「本当になんでも?」
「ああ、私にできることならね。でも、その前に円舞曲が始まる。お前の相手が待っているのではないのかね」
「だから、その相手が、今夜はお父様なのですわ」
 虚を突かれたようにハシェミが、黙る。
 驚いたのは、居並ぶ青百合女官も、黄薔薇女官も同じことのようだった。
 ハシェミの最初の円舞曲の相手は、常に第一皇女であるクシュリナと決まっていたからである。
「これはまた、難しいお願いだね」
「まぁ、どうしてですの?」
 苦く笑うハシェミに、サランナは不思議そうな眼ですり寄った。
「先ほど、なんでも言うことを聞くとおっしゃったばかりではありませんか。私、今夜こそ、お父様と一番に踊ろうと思って、朝からずっと楽しみにしていたのよ」
「いや、しかし」
 ハシェミは苦笑を浮かべたまま、クシュリナのほうを見る。
「お姉さまと一番に踊られるのが、舞踏会の慣例なのは判っていますわ」
 サランナは、哀願するような眼差しをクシュリナに向けた。
「ねぇお願い、お姉様。いつもお父様を一人占めなさっておられるのだから、たまには私に譲ってくださってもよろしいでしょう?」
「サランナ」
 困ったように、ハシェミが小さく首を横に振る。そして、サランナの腕から、そっと自身の腕を抜きとった。
「お前の気持は嬉しいが、こればかりは変えられないのだよ。宮廷のしきたりだからね」
「お父様……」
 クシュリナには、うつむいたサランナの横顔が見えた。長い睫毛が、寂しそうに揺れている。
 その横顔に、つい、自分自身の影を見ている。
 いつも一人だった子供時代、義母と一緒に過ごす異母妹が、うらやましくて寂しくて仕方なかった頃。   
「さぁ、行きなさい、サランナ。きっとお前の相手がお待ちかねだ」
「……はい」
「サランナ、よろしくてよ」
 しおれた背中に、咄嗟に、クシュリナは声をかけていた。
 不思議そうな眼で振り返る妹に、クシュリナは優しい微笑を見せた。
「私、今夜はとても気分が悪くて、少し休みたいと思っていたの。私からお願いするわ。最初の円舞曲は、どうぞ、お父様と踊っていらして」
 背後の女官たちから、非難めいた囁きが聞こえ、ハシェミが、髪に手をあて、そっと溜息をつくのが判る。
 その中で、大輪の薔薇が花開くようなサランナの笑顔だけが、クシュリナをほっとさせていた。
「ありがとう、お姉様!」
 歓喜の声をあげた妹は、再び、ハシェミの腕を抱いて自分のほうに引き寄せた。
「参りましょう、お父様。いいでしょう? お姉様のお許しが出たんですもの」
「仕方がないね」
 折よく、楽隊の音楽が、円舞曲に変わる。
 クシュリナの前を過ぎるハシェミの横顔には、失望にも似た怒りがあった。
 お父様……ごめんなさい。
 いつものように胸が痛むのを感じたが、あんな風にサランナに哀願された父もまた、本心からうれしくないはずはない。
 それに、どんな時であっても、クシュリナは一つ年下の妹と争うのを好まなかった。そうでなくとも、宮内には、今、不穏な噂が溢れている。   
「お姉様も、しきたりなど気になさらずに、誰かと踊られたらよろしいのに」
 最後に笑顔で言い残し、美貌の妹はドレスを翻して背を向けた。
 
 
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 一人残されたクシュリナは、所在なく談話場の長椅子に腰を下ろした。
 もう取り巻きたちはいない。最初の円舞曲は、招待客全員が参加する「しきたり」になっているからだ。
 これに限らず、社交界には様々なしきたりがある。それは概ね、形だけのものだったり、過去の遺物にすぎなかったりするのだが、それでも、先祖の亡霊のようなしきたりが、今もクシュリナをがんじがらめに縛っているのだった。
「姫様、……、今のお振舞いは、あまりよろしい選択だとは思えません」
 背後に控える青百合女官の一人が、眉をひそめるようにして囁いた。
「そうです。最初の円舞曲を誰と踊るかというのは、とても大事なことなのでございます」
「ハシェミ様がいつもクシュリナ様と踊られるのは、姫様をイヌルダの第一皇女と知らしめたいからこそ」
 他の女官たちも、口々に言い募る。
「いいのよ。だっていつも、私がお父様を一人占めしているのですもの」
 クシュリナはそれだけ言って、演舞場の方に視線を転じた。
 中央では、一際華やかな美貌を持つ女性が踊っている。
 三大勢力最大の力を持つ黒椿の盟主、イヌルダ社交界の女王    エレオノラ。
 エレオノラの手を取っているのは彼女の夫、奥州公ヴェルツ公爵である。
 場内が、にわかにどよめいた。ヴェルツ夫妻のすぐ傍に、サランナとハシェミのカップルが現れ、どちらかが譲るしかない距離にまで近づいたからだ。
 さすがに場を譲ったのはエレオノラだったが、サランナを一瞥する眼は轟然として、明らかに臣下の礼を欠いていた。
「本当に腹立たしいこと」
「なにゆえ、あのような下賤な女に、姫様方が、遠慮しなければならないのでございましょう」
 女官たちが、険をあらわにして囁いている。
 青百合オルドの女官たちは、ことさらエレオノラを敵視している。それは、かつてクシュリナが、何度も黒椿の女王に辱めを受けたからだ。
 けれど、クシュリナ自身はそういった憤りを、あまりエレオノラに感じてはいない。
 青州へ遊学する前、確かにクシュリナは、この社交界で言語に絶するほどの辛い目にあった。が、その原因は、すべからくこの場にいない婚約者が作ったものだと、クシュリナは思っている。
 もう七年もイヌルダに戻らない、生まれる前から定められた婚約者。    彼が今どこにいて何をしているのか、クシュリナは何も知らされていない。
 最初の儀式的な円舞曲が終わり、二曲目に入る。踊り手の半分は談話場に下がる。
 広間の中央に、サランナとハシェミが躍り出ると、場内の視線は、滅多に合わさることのない組み合わせに釘付けになっているようだった。
「まぁ、サランナ様がハシェミ公とご一緒に」
「サランナ様ときたら、なんというお美しさでいらっしゃるのかしら。まるで咲き誇る薔薇のようですわ」
 囁きとため息が、ひそやかに広がる。
 クシュリナは、長椅子に座ったまま、踊る妹の姿を見つめていた。
 別オルドで育てられたため、話したことはあまりない。が、クシュリナはずっと、母違いの妹の存在を意識していたし、姉としての愛情を抱きつづけていた。
 孤独な宮中にあって、サランナはたった一人の血をわけた妹である。無邪気で可愛いらしいサランナの姿を目にするたびに、一度でいいから、二人で遊ぶことができないかしら、と何度思ったことだろう。
 が、その願いが叶えられたことは一度もない。
 クシュリナがどう思おうと、また、サランナの本心がどうであろうと、二人の周囲にいる人間が、それを許さなかったからだ。
 目の前を通り過ぎる婦人達が、声を潜めて囁き合っている。
「サランナ様は、いよいよ、ヴェルツ公爵のご子息、ダンロビン様とご婚約なさるとか」
「まぁ……」
「ではあのエレオノラ様が、サランナ様の義理の母ということに?」
「ヴェルツ公爵と、コンスタンティノ大僧正様との間で、争いにならなければよろしいのですけれど」
 コンスタンティノ大僧正の名前が出たことで、クシュリナは、噂の矛先が自分に向けられているのを知った。
 宮廷で囁かれる口さがない噂は、殆どが誇張された中傷なのだが、ひとつだけ真実を突いていることがある。
「それにしても、サランナ様とクシュリナ様、一体どちらが、皇位を継承なさるのかしら」
 この宮中では今、長女クシュリナと次女サランナ、二人のいずれが皇位を継ぐのか    その件を巡って、冷ややかな均衡と対立が生じているのである。
 
 
 

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