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8
「おやおや、美しいご婦人たちが、何を憂鬱な顔をしておいでかな?」
その声は、はりつめた空気を和ます、清涼の風のようだった。
「まぁ、ハシェミ様」
「これは甲州公様、ご機嫌うるわしゅう」
不安を笑顔に変えた貴婦人たちが、席を立って、作法通りの礼をする。
「随分、おしゃべりが弾んでいたようだね」
甲州公、右京ハシェミは、切れ長の涼やかな目に微笑を浮かべ、談話場の面々を見回した。
青い宝石と帯紐を巻いた山高の帽子。金の刺繍を施した上着の襟にはレースのラフ。スラッシュ入りのボディスと袖のついたチェッニック。
かつては、イヌルダ一の美剣士と称されるほどの勇ましい騎士だったというが、今ではその面影は微塵もない。たおやかで優雅な、剣など手にしたこともないような、詩人か楽人といった風貌をしている。
「ルシエ、今夜、薫州公様はお着きにならないならないようだね」
ハシェミが、優しい眼差しを、末席のルシエに向ける。
「まぁ、本当でございますか」
絹糸のような美しい髪を腰まで垂らしたルシエは、少し驚いた目で立ち上がった。
「御母上が困っておいでだ。ルシエ、ここはいいからあちらに行っておいで」
「申し訳ございません。今宵は間違いなく顔を出すと、そう申しておりましたのに」
困惑気味に一礼すると、ルシエは、控え目にドレスの裾を翻した。
「おゆるし下さいませ、クシュリナ様、私が余計なことを申しましたばかりに」
すれ違いざま、そっと、そのルシエに囁かれる。
「いいえ、ありがとう。助かったわ」
優しい女の心づかいが嬉しくなり、クシュリナもまた、小さく囁き返していた。
ルシエの父、薫州公松園フォード公爵は、武道派で知られる無骨な騎士であり、若い頃から大の社交界嫌いで知られている。
そのため、皇都で暮らす彼の妻子は、公の代理として何かと行事に引っ張り出され、今夜のような公式行事では、客の対応に追われがちになってしまうのだ。
いってみれば若い娘たちのお目付け役のようだったルシエが去ると、場は一気に砕けたものになった。
「ハシェミ様、私たちは何故バートル隊があのように恐ろしい顔で並んでいるのか、それを話し合っていたのですわ」
まず、ナタルが先鞭を切り、彼女の友人が、次々とそれに続いた。
「もしや、蒙真国の争いごとが、イヌルダにも及んでいるのではないかと……」
「みな、噂しておりますわ。もし三鷹家が再び、彼の国を支配するようになったら、今度こそイヌルダと戦争になるのではないかって」
唖然としていたハシェミは数度瞬きをし、それから、不意に相好を崩して笑いだした。
「あっははは、それは、随分勇ましい話だね」
「まぁ、ひどい、そんなにお笑いになるなんて」
「みな、不安に思っておりますのに」
婦人たちが、いっせいに非難の目をハシェミに向ける。
ハシェミは苦笑しながらわざとらしい咳ばらいをし、その優しい視線を、中央に座すクシュリナに向けた。
「クシュリナ、お前はどうかな。お前も皆様方と同じ考えを持っているのかな」
不意に矛先を向けられ、クシュリナは緊張して口ごもる。
「私は……」
蒙真国こと、旧ナイリュ国を巡る内紛は、クシュリナもよく知っている。
もともと旧ナイリュを治めていたのは、シュミラクールが五国に別れた時に発祥したといわれる名門、三鷹家である。
それが百年ほど前、ナイリュの南部に位置する小民族、蒙真に攻め込まれ、三鷹王朝はあっけなく滅亡した。いわゆる『蒙真の乱』である。
以降、事実上ナイリュという国名は消え、彼の国は蒙真と改名されている。
三鷹家の敗因は、圧政に苦しんでいた民や小領主の寝返りだと言われているが、実際はそうではない。イヌルダをはじめ、ウラヌス、タイランド、ゼウスの四国、そしてシュミラクールの僧侶を統べる法王が、ナイリュに大軍を送りこんで蒙真を援助したからだ。
つまり三鷹家を間接的に滅ぼしたのは、イヌルダを主とする連合国軍であったと言える。 むろん、それにはイヌルダなりの正義があり、理由があった。
三鷹家は、五国で唯一、シーニュ神を否定し、邪神マリスを信仰する王朝だったのである。
いわば、イヌルダ皇室との宗教的な対立が、三鷹家を滅亡に追い込んだのだった。
「どうして百年前のように、女皇様も法王様も、兵をお出しにならないのでございますの?」
「そうですわよ。このままでは、ナイリュは再び三鷹家のものになるという話ではございませんか」
「おそろしい……、あの忌まわしい邪教徒ども」
言葉に詰まるクシュリナに代わり、婦人たちが口々に申し立てた。
全ては彼女たちの言う通りで、今、ナイリュは再び、三鷹家の手に落ちると言われている。
処刑を逃れた旧三鷹派が各地で挙兵し、王朝の末裔三鷹シオンを神輿に、猛烈に蒙真王を攻め立てているのである。
「これは、おそろしいことを仰られる」
ハシェミは、涼しげな目で微笑した。「まるで、こちらのご婦人がたは、イヌルダと三鷹家の戦を待ち望んでおられるようだ」
「まぁ!」「まぁ!」「ひどうございますわ!」
たちまち、批難の嵐が吹き荒れる。
「シーニュ神を護る我が国が」
穏やかに、ハシェミは全員を見まわした。
「邪神を奉ずる者と対峙するのは、しごく自然のなりゆきだがね。ただ、争うことだけが解決の全てではない。それに百年の昔とは違い、今の三鷹家がマリスを信仰しているとは限らないではないのかな」
顔を見合わせた女たちの表情が、どことなく納得気味に和らいでいく。
その間を見切ったように、ハシェミは優雅な所作で、右手を広間のほうに差しのばした。
「さ、そろそろ最初の円舞曲が始まろう。皆、今のうちにトロウスにも挨拶をしておきなさい」
9
「どうした? 今夜のお前は、随分疲れているようだね」
談話場の席についたハシェミは、クシュリナを見下ろすようにして微笑した。
「私が、ですか」
驚いたクシュリナは、そのままの言葉を繰り返す。
「疲れているのでなければ、今夜のお前は第一皇女失格だろうな」
淡々とした口調でいい、ハシェミは目許から笑いを消す。
クシュリナはどきりとして、咄嗟に胸を押さえていた。
甲州公ハシェミ。口元に生やした髭さえなければ、まだ二十代にも見えるだろう。凛として若々しく、宝石のように美しい碧の双眸。かつてはシュミラクール一の美剣士と名高かった男である。
が、誰の目から見ても優しい父親としか写らないハシェミが、時に、氷より冷たい眼差しをすることを、クシュリナはよく知っている。
「先ほどのような話、本来なら、お前が上手くまとめて、皆を安心させてやらねばならないところた。なのに私が話している間、お前の気持ちは、ずっとよそを向いていたようだったね」
見抜かれている。 クシュリナは、強い動悸を感じながら、視線を下げる。
「ごめんなさい……申し訳ありません」
「別に、私に謝ることではないだろう」
動悸は、しだいに、針で刺されるような痛みに変わる。クシュリナは苦痛を微笑で隠したまま、ハシェミに、再度赦しを乞うた。
「私、確かに今夜は疲れていて、少しばかりぼんやりしていたようですわ。全て、お父様の言われるとおりです。本当に申し訳ございませんでした」
「わかれば、それでいいんだよ」
柔らかく笑んで、ハシェミは卓上の銀杯を持ちあげた。
「気をつけなさい。以前も言ったが、公の場では決して素の感情を出さないように。お前は、イヌルダの第一皇女なのだからね」
「はい、判っております」
「よろしい」
目を細めたハシェミの表情に、すでに先ほどの怒りはない。
クシュリナはようやくほっとして、肩から力を抜いていた。同時に、胸の痛みも和らいでいる。
子供の頃からの癖のようなものだが、父が怒っている そう思うだけで、クシュリナは息苦しくなり、胸が刺されたように痛み出すのだ。
「クシュリナ」
頭に、ふわりと優しく手が置かれる。それでも父は不機嫌だろうと思っていたクシュリナは、少し驚いて父を見上げた。
「お前は笑っていなければならないよ、クシュリナ」
「お父様……」
不思議なほど、ハシェミの眼は優しく、同時に、どこか寂しげにも見えた。
「どんな時でも笑っていなさい。それがお前の、一番大きな武器になるのだからね」
緊張しながら、クシュリナは頷く。そして、内心思っている。
どうしたんだろう、今夜のお父様は。
間違っても、人前で頭を撫でるような振る舞いをする人ではない。それに、どうして、そんな寂しそうな眼……。
楽隊の奏でる曲調が変わった。
そろそろ、最初の円舞曲が始まるという合図である。
手を離したハシェミは、微笑しながら大広間内を見回した。
「お前の楽しみにしていた青州公は、どうやらご到着が遅れているようだね」
「船が、遅れていらっしゃるとか」
「そうだね……、少しばかり、手間取っておられるようだね」
普段より厳しい宮内警備と、何か関係があるのだろうか。ふっとそんな気もしたが、口にすることはできなかった。
そこに、触れてはならない壁があることが、父の横顔から察せられたからだ。
その父の眼が、優しく笑んで、クシュリナを見下ろす。
「青州公は、今夜はご養子をお連れだという話だが、それが、お前が以前手紙に書いてくれたユーリ君のことかな」
「ええ、お父様、憶えていてくださったの?」
父の顔色を読むのも忘れ、クシュリナはぱっと笑顔になった。
「青州で、本当に仲良くなったお友達なの。とても美しくて頭のいい方よ。きっと、お父様もお気に入りになられるわ」
ハシェミも、ますます目を細くする。
「お前の手紙を、昨夜、全て読みかえしてみたよ。最初は、ユーリ君をむしろ苦手にしているのかと思ったが、最後は、随分と仲がよくなったようだね」
「あの……私、そんなことまで?」
クシュリナは、自分の顔が赤くなるのを感じていた。
遊学時代、父の命もあって、三日に一度は必ず近況を手紙に書いては送っていた。今となっては、何を書いたか定かではないが、忘れているだけに恥ずかしい。
父は、おかしそうに、くっくっと笑った。
「ああ、色々書いてあった。そうだ、最初お前は、ユーリ君のことを、女の子だと思っていたのではなかったかな。そうそう、随分長い間そんな誤解をしていたように思ったが」
「だって、本当に綺麗な人だったのよ、誰だって勘違いすると思うわ」
「ははは、では私も、今夜顔を見るのを楽しみにしておこう」
「本当なのよ、お父様。どんな女性より、お綺麗な方よ」
笑う父に、クシュリナはますますむきになっている。
そう、本当にユーリは、綺麗な男の人なのだ。透き通るような銀の髪。灰と藍が溶け合った目色。驚くほど華奢な手足に雪白の肌 まるで、おとぎ話に出てくるお姫様のように美しい。
なのに、性格は外見とは真逆で、その差に、最初は随分翻弄され、泣かされたのを覚えている。
「青州は、楽しかったかね」
「ええ、とても!」
勢いよく答えると、ハシェミの碧い目に苦笑が浮かぶ。
「やむにやまれぬ事情があったとは言え、三年も、お前を皇都から追いやってしまった。そのせいで、今、随分と苦労しているようだが、辛くはないかね」
「平気ですわ。お父様、私きっと、ユーリに鍛えられたんです。以前は辛かったことが、あまり気にならなくなりましたから」
かつては、全てが辛かった。この席に座っていることも。婦人たちの囁きを耳にすることも。
今でも、本当に全てが辛くないと言えば嘘になる。皇都にいるだけで、クシュリナは自身の孤独を否応なしにつきつけられるからだ。そして、逃れようのない運命も。 。
ハシェミが、かすかに息を吐く気配がした。
「……手紙を読み返して、あらためてお前が、青州でいかに楽しい時を過ごしていたのか、判ったような気がしたよ。お前が、皇都に戻るのを嫌がったのも、無理はなかろう」
言葉を切り、盃に口をつける。再び顔を上げた時、父の目からは笑みが消えていた。
「クシュリナ」
横顔を見せたまま、ハシェミは静かな口調で問った。
「お前は……、いくつになったのだったかな」
父が、眼を逸らしたまま口を開く時、それは大抵、婉曲な叱責を意味している。
クシュリナは緊張した。自分は今、何か……父の気に障るような受け答えをしただろうか。
「十七歳です、お父様」
「そうだったね。蛟の月の生まれだから、あと半年で十八歳だ」
「………」
さっと眉が曇っていた。父が何を言わせたいか、ようやく理解できたからだ。
古よりのしきたりにより、イヌルダの第一皇女は、十八歳になるまでに婚姻しなければならない。
クシュリナの場合、その相手は、生まれる前から定められている。
「もう……結婚の準備をしなければならない年ですわ」
ハシェミはようやくクシュリナを振り返ると、そっと髪を撫でてくれた。
「判っているなら、いいんだよ、クシュリナ」
優しいけれど、不思議に冷めた眼差しだった。クシュリナは目を閉じ、父の肩に頬を寄せた。
父の、怒る顔は見たくない。悲しむ顔はなおのこと見たくない。昔からそうだった、どんなに嫌なことを命じられても、父の反応を予想するだけで何も言えなくなってしまう。 。
「青州にいた頃、お前はまだ子供だった。今は違う、判るね」
「……はい」
「お前には、定められた者がいる、それも忘れてはいけないね」
眉を寄せるクシュリナの髪を、父は軽く、いなすように叩いた。
仰いだ口元は笑っている、けれど眼は笑っていない。
「ただでさえ、宮廷の連中は口さがない、噂が立てば、傷つくのは立場が弱い者だということを忘れてはいけないよ」
「噂って」
それには、クシュリナは少し驚いて声を上げた。
まさか父は、自分とユーリの仲を誤解しているのではないだろうか。
確かに、自身の立場も忘れてはしゃいでしまったが、そういった心配ならしてもらう必要はない。
「私とユーリは本当に仲の良いお友達です。それ以上の何かなんて、ありません」
「あら、おめずらしい、お父様とお姉様が喧嘩なんて」
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