金羽宮を、紫の薄闇が包みこんでいた。
 大広間(サルーン)では、宮廷楽隊が、美しい夜想曲を奏でている。
 百花繚乱、咲き誇っているのは溢れんばかりの色彩である。
 紅孔雀、金珊瑚、銀水晶、この夜のために集結したドレスの生地は、藍河を通じて世界各国から届けられた逸品ばかりだ。なめらかな真珠色、とろけそうな桜桃、吸い込まれそうな深海色。世にも珍しく美しい衣装は、金銀の刺繍、雪のようなレース、輝く宝石の類で飾り立てられ、まばゆいばかりの光を放っている。
 囁き、笑い声、衣ずれの音。甘い果実酒と酔うほどの香水、異国の花々の強い香り。
 この場所に来ると、クシュリナは地上から足がふわりと浮くような、不思議な感覚に見舞われる。それは決して愉快な心持ではなく、むしろ胸が重くなるような、こめかみに軽い痛みを伴うような、そんな憂鬱な気分である。
「ご覧になられました? 今宵のエレオノラ様のご衣装ときたら」
「胸など、半分こぼれんばかりで。いったいどなたに見せるおつもりなのかしら」
 クシュリナの座する席の周辺から、そんな声が聞こえてきた。
 いつもの光景ではあるが、大広間の客人たちは、大きく三つに分かれている。
 黄薔薇(カナリー)緋薔薇(カーディナル)黒椿(バトゥ)   社交界三大勢力(トロウス)である。
 それぞれが広間の四方に専用の談話場(サロン)を有し、とりまき貴族たちを従えて大きな輪を作っている。
 その中にひとつ、三代勢力には及ばないまでも、それなりの輪を作っている談話場があった。
 それが青百合(フラウ)、第一皇女であるクシュリナのサロンである。
「まぁ、ナタル様ったら」
「相変わらず、お口が悪くていらっしゃるのだから」
 青百合談話場(フラウ・サロン)に、一斉に、鳥のさえずるような笑い声がした。
 クシュリナを囲んでいるのは、父甲州公ハシェミがあつらえてくれた取り巻きたちである。
 いずれもハシェミと繋がりの深い貴族の子女だが、正直言えばクシュリナは、彼女たちの大半が苦手だし、会話にも殆どついていけなかった。
 集まれば、必ず誰かの悪口になるし、始終軽薄な噂ばかり追いかけている。話題といえばドレスに化粧、そして殿方の動向ばかりで、クシュリナにはまるで興味が持てないものばかりである。
 もちろん中には、趣を異にする子女もいる。ひっそりと末席に座している薫州公令嬢、松園ルシエがそうである。
 年は娘たちの中では最年長の二十二歳。絹のようなまっすぐな髪と澄んだ理知的な瞳を持つルシエは、芸術や学問にも造詣が深く、クシュリナにとっては、唯一安心して話ができる相手だった。
 が、万事が控え目なルシエは、サロンの席では聞き役に徹することが多く、今も、一人静かに佇んだまま、娘たちのお喋りに耳を傾けている。
「それにしても、まだ、青州公様はおいでになられないのかしら」
 細い眼をさらに細めて、陶然と呟いたのは、サディル男爵令嬢のナタルだった。
 年はクシュリナより一つ下、賑やかで明るい、噂好きの少女である。
「船が遅れておられるとお聞きしましたけれど」
「まぁ、事故でも?」
「早くお会いしたいわぁ。あの方の笑顔を思い出すだけで、私、胸が痛んでしまいますもの」
「ええ、本当に!」
 周りの婦人たちも、口々に同じような言葉を漏らす。
 彼女たちが噂している青州公とは、言ってみれば今夜、最も待ち望まれている来賓の一人だった。
 青州は、かつてクシュリナが三年に渡って滞在していたイヌルダ南部の地域である。当然、話題が青州公に及ぶたびに、クシュリナは質問攻めにあうのだが、今もまた、たまりかねたように、女性たちの眼が、一斉にクシュリナに向けられた。
「ねぇ、クシュリナ様、いい加減話してくださいましな」
「え……、な、何をでしょう」
 引いたクシュリナを、女たちの視線が取り囲む。
「クシュリナ様はご存じであられるのでしょう? グレシャム様とは普段、どのような御方ですの?」
「三年も、青州にご遊学なさっていたのですもの。随分親しくおなりになったのではなくて?」
「ご趣味は? お好きな食べ物は?」
「あの……、私は、別に」
 一斉攻撃。尻込みするクシュリナに、ますます興味津津とばかりに婦人たち眼が注がれる。
「今宵は、ご養子をお連れになられるというお話ですけど、いったい、どのような御方ですの?」
「どうして、妻を持たないグレシャム様が、ご養子などお取りになられたんですの?」
「ねぇ、クシュリナ様ったら!」
 
 
 青州鷹宮(たかみや)家の若き領主、公爵(デューク)・グレシャムは、社交界では一番の人気を誇る美男子である。
 骨格に秀でた長身で、馬術の名手、性格は明朗快活で、なにより、古来より美系揃いで知られる鷹宮家の末裔らしく、顔容が際立って麗しい。さらに言えば、二十八歳にして独身   婦人たちが口の端にのぼせないほうがどうかしている。
 父の死後、正式に家督を継いで、皇都の社交界にお披露目を果たしたのが一年前。以来、グレシャムは婦人たちの間で最も名高い独身男性となった。
 
 
「あの方は」
 何度も繰り返される質問に困惑しつつ、クシュリナは控え目な笑顔で答えた。
「私が滞在している間中、ご遊学のために青州を空けておられましたから、残念なことに、いくらもお話する機会はありませんでした」
 たちまち談話場に、不満気な雰囲気がたちこめる。
「いつも、同じお答えですのねぇ」
「それでも、グレシャム様とご一緒に過ごされた時期もおありなのでしょう?」
 クシュリナは黙って微笑した。
 正直言えばクシュリナは、グレシャムという男があまり好きではない。彼の実像が社交界の噂とかけ離れていることも知っている。
 が、それをあえて自身の口から吹聴してはならないことを、クシュリナはよく知っていた。
 第一皇女である自分の発言や行動は、いかなる時であっても慎重でなければならない。うかと口にしたことが、この社交界で後々どんな波紋を招くか、予想もつかないからである。
「では、グレシャム様がご養子をとられたのは、どうしてですの?」
 ナタルが身を乗り出した。「それは、ご存知ないとは言わせませんわよ。ご養子のユーリ様とクシュリナ様は、青州で随分懇意にされておられたのでしょう?」
 誰もが聞きたがっていた質問なのか、その刹那全員がしん、とする。
「ご養子の、ユーリ様とは」
 用心深く、クシュリナは答えた。「青州では、随分親しくさせていただきましたが、ただ、私がいた頃は、ユーリ様はまだ正式なご養子ではありませんでした。私に判るのは、ユーリ様が鷹宮家の縁続きの方だということだけですわ」
「まぁ、では、ご縁とはどのような?」
「さぁ、私には、詳しいご事情までは」
 実際は、クシュリナは知っている。青州では有名な話だから、イヌルダ社交界に広まるのも時間の問題だろう。
 鷹宮ユーリは、グレシャムの亡くなった叔父が、異国の女に産ませた遺児なのだという。つまり、グレシャムにとっては従兄弟にあたる。
 しかし、青州遊学時代、クシュリナはユーリから、表向きとは違う彼の出生の秘密を打ち明けられている。
 それは、ラッセルにもダーラにも話していない   クシュリナとユーリの、二人だけの秘密だった。
「では、後継のつもりで、ご養子にされたのかしら?」
「でも、ご結婚もまだなのに、なんだか不思議な気がいたしません?」
「噂では、ユーリ様とは、ものすごい美少年だとか」
「まぁ!」
「なんだか、あやしいですわねぇ」
 クシュリナはそっと息を吐き、永遠のような小鳥のさえずりから意識を逸らした。
 ダーラでもいれば、機転を働かせて上手く話を打ち切ってくれるのだが、今夜、ダーラはフラウ・パシクに合流し、宮内の警備にあたっている。
「それにしても、今宵の警備は……少し、大げさすぎるような気がいたしますわ」
 ふと、誰かが小さく囁いた。
 振り返ったクシュリナは、その人が、あえて話題を変えてくれたのだと気がついた。サロンの中で、唯一クシュリナがひそかな憧憬を抱いている    薫州公令嬢、松園ルシエである。
 ルシエは、澄んだ水青の瞳に憂いのような影を浮かべ、二階のほうを扇で示した。
「ご覧なさいまし。三宮殿のパシクだけでなく、鷲翼(バートル)隊までも、ああして揃っております。今まで、このようなことがあったでしょうか」
 示された扇の先には、大広間をぐるりと見下ろすように作られた幾数もの小部屋がある。それぞれに格子のある窓が添え付けられ、その中に、正装したパシク騎士が居並んでいた。
 羽根帽子に施された鷲翼の紋章と、濃紫のクローク。
 パシクの精鋭、バートル隊である。
「まっ、しかも……、あれは、ジュールではございません?」
 眉をひそめ、驚いたような声を出したのはナタルだった。
「まぁ、バートル隊の隊長の?」
「あの男が、舞踏会の警備に?」
 クシュリナも顔をあげている。
 小窓の一つから、際立って長身の男の姿が垣間見えた。
 鼻下にたくわえた美髯に、肩甲骨までの見事な黒髪。社交界にも名を知られたパシクの英雄、加賀美ジュールである。
 が、男の存在は、婦人たちの間では嫌悪を持って知られている。それは、彼が庶民の出であると同時に、雅な宮廷の中にあって、いかにも野蛮げな風貌を持っているからである。
 瞼に濃く刻まれた刀痕と、背に負った異様な形の槍刀。岩にもにた巨大な体躯。
 出自はもちろん、全てにおいて優雅であることを求められる騎士にあって、ジュールと彼が率いるバートル隊の存在は、確かに異質な雰囲気を有していた。
「舞踏会の警備に、あのジュールが混じっているなんて、……なんだか、物騒な気がいたしますわ」
 緋の扇で自身を扇ぎながら、婦人の一人が不安気に呟いた。
「特別なことでもあるのでございましょうか?」
「クシュリナ様、何かご存知ではあられません?」
「いえ……私は、何も」
 戸惑ったクシュリナは、ラッセルの姿を探したが、濃紫のクロークの中に、彼の姿はないようだった。
 今夜は宮内の警備に合流すると    ダーラもそれしか言わなかったし、クシュリナもさほど気にとめなかった。が、確かに普段見慣れない紫のクロークがこうもずらりと並んでいると、一種、異様な雰囲気がする。
「もしや、蒙真(モマ)国で起きている争いごとが、関係しているのでは……」
 ナタルが呟き、さっと、婦人たちの眼に、今までとは違った空気がよぎる。
 表情をかげらせてしまったのは、クシュリナもまた、同じだった。
「ナタル様、そのようなお話、舞踏会の席に相応しいものではございませんわ」
 ルシエが、柔らかな口調でたしなめる。
 蒙真国    史書に記された正式国名は、ナイリュ王国。イヌルダの南に位置する、四方を海に囲まれた島国である。
 その王国の名前は、今では忌獣と同じくらい、イヌルダにあっては忌わしいものだった。

 
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.