5
 
 
 
 「まぁ、なんてお美しいんでしょう!」
 背後で、ダーラの弾んだ声がした。
 青百合宮殿(フラウ・オルド)の化粧室。
 舞踏会の支度を済ませたばかりのクシュリナは、入ってきたダーラを鏡越しに見上げた。
「後は、私が姫様におつきします。皆は、それぞれの持ち場に戻るように」
 颯爽と指示を出すダーラは、光沢を帯びた銀灰の上衣に、藍色のショースをまとっている。
 長剣を腰に携えた凛々しい姿は、女官というより、美しい騎士に見えた。
「ダーラ様、甲州公様の散財ぶりには、どのオルドの女官(マーラ)も目を丸くしていますわ」
 女官の一人が、満足げに口を開いた。
 くすくすと笑いながら、もう一人の女官が相槌を打つ。
「公は、クシュリナ様のために、私財を潰しておしまいになられるのではないかって! このような見事なドレス、五国のどこを探しても見当たりませんもの」
「確かに、甲州公は、クシュリナ様を溺愛しておられますからね」
 苦笑しつつ、ダーラもそう締めくくった。
 甲州公とは、クシュリナの父、右京ハシェミの公称である。イヌルダの北部甲州を領地としていることからそう呼ばれている。
 女官が感嘆する通り、金羽宮本殿に居を構えるハシェミからは、連日のように新しいドレスや装飾品が届けられる。が、クシュリナは、それらが父の愛情だけから贈られるものではないと、知っていた。
 二人になると、にっこりと笑んで、ダーラはクシュリナの背後に歩み寄ってきた。
「本当にお綺麗でいらっしゃいますよ」
「そうかしら……」
「ええ、これほどお美しい姫君は、五国広しと言えどもおられません。私が男だったら、きっとクシュリナ様に恋をして苦しんでいますわ」
「まぁ」
 笑いながら、それでもクシュリナは、内心、気鬱なものを感じていた。
 確かに衣装は美しい。
 豪華なレースで縁取りした雪白のドレス。右肩にはパールをちりばめたストールがかかり、幅広のラフと銀刺繍のはいった裾は、優雅にたっぷりと広がっている。
 この日のために、父が最高の贅を尽くして作らせたドレスである。
 でも、それを着ている自分はどうだろう。貧相に痩せた身体、寂しい顔立ち、衣装が美しい分だけに、ますます惨めに思えてくる。
 背後では、ダーラが髪飾りを直してくれている。クシュリナは、そっとダーラを見つめた。
 きりっとした瞳、薄く張り詰めた肌、男のような凛々しい衣装。
 美しいと思った。実際、ダーラとは本当に綺麗な人だ。すらっとした身体、整った目鼻立ち、化粧や衣服で飾り立てなくても、全身から自然の美がにじみ出ている。
「ダーラは、いいな」
 思わずそう呟いていた。
「なにがでございます」
 花を付け替えるつもりなのか、背を向けたダーラが答える。
「綺麗だし、大人だし……、私、ダーラみたいになりたかった」
「ご冗談を」
 ダーラの背中が笑っている。
「姫様は、ご自分がどれほどお美しくていらっしゃるか、ご自覚がなさすぎますよ」
 どこがだろう……。内心、皮肉な気持ちになりながら、クシュリナは黙ってうつむいた。
 正直言えば、自分の顔ほど、嫌いなものはない。貧相なのに女々しくて、……なんだか、意地が悪そうな顔をしている。
 ダーラは新しい花を持ってきて、結いあげた髪に飾りつけた。「さぁ、こちらのほうがお似合いでございましょう」と言って、満足そうに鏡を見つめる。
 が、その眼差しは、すぐに厳しく引き締まる。
「姫様、お判りでしょうが、今宵こそ、カナリー・オルドに負けてはなりませんよ」
 カナリー・オルド。    クシュリナは、自分の顔色が翳るのが判った。
 黄薔薇宮殿(カナリー・オルド)とは、鞠宮(まりのみや)姓を持つ、異母妹サランナの勢力を示す総称である。
「ダーラ……何度も言うけれど、私は妹と争うつもりなんて」
「また、そのようなお気の弱いことを」
 ダーラが、呆れたような嘆息を漏らす。
「姫様にその気はなくとも、黄薔薇(カナリー)緋薔薇(カーディナル)黒椿(バトゥ)、社交界の三大勢力(トロウス)が、皆、姫様の敵であることをお忘れになってはいけません。今までも、姫様の足を引っ張るべく、あの方たちは様々な罠を仕掛けてきたではありませんか」
「……それは、別に罠と決まったわけじゃ」
「また、そのような楽天的なことを」
 びしっと決めつけられ、クシュリナは溜息をつく。
 十二の年から三年間、皇都を離れて青州に遊学していたクシュリナは、そのせいか社交界では、非常に立場の弱い新人だった。
 ダーラの言うような嫌がらせめいたことは、確かにしばしばありはしたが、クシュリナ自身は、あまり気にしないようにしている。
 もともと、争いごとを好まない性格なのと、かつて    青州に遊学する前   十歳から十二歳になるまでの二年間、社交界で味わったあまりに惨めすぎる体験が、自然、痛みの抗体となっているのかもしれない。
 「姫様、イヌルダ中の貴族が集まる舞踏会は、いわば女たちの戦いの場なのです」
 ダーラの声が厳しくなった。
「社交界を甘くみてはなりません。三大勢力(トロウス)を押さえ、いずれは姫様があまねく女性たちの頂点に立たねばならないのです。それが、皇位第一継承者であるクシュリナ様の務めだとご理解ください」
 
 
 金羽宮を中心とした社交界には、三大勢力と言われる派閥がある。
 それが、金羽宮三宮殿(オルド)のうちの二つ、黄薔薇を紋章とするカナリー・オルド。そして、緋薔薇を紋章とするカーディナル・オルドである。
 カナリーは、異母妹の鞠宮サランナ。
 カーディナルは、義母であるイヌルダ第二十七代女皇、礼宮(あやのみや)アデラをそれぞれ示す。
 三オルドの内、残る一つが、クシュリナの暮らす青百合宮殿(フラウ・オルド)であるが、ダーラが日々案じているとおり、第一皇女を有するこのオルドが、一番力が弱く、味方も少ない。
 が、実のところ、黄薔薇(カナリー)緋薔薇(カーデイナル)も、最高位の皇族でありながら、三大勢力の中では二番手、三番手なのである。最大の力を持つのは黒椿(バトゥ)の紋章   イヌルダ一の大諸侯であり、司法長官でもある奥州公ヴェルツ公爵。
 その夫人であるエレオノラが、実質イヌルダ社交界の女王として振る舞っているのだった。
 
 
                 6
 
 
「……ダーラ、ラッセルの話だけれど」
 居間に戻ったクシュリナは、長椅子に腰を下ろしてダーラを見上げた。
「ラッセルがどうしました?」
 お茶の用意を済ませたダーラは、礼儀通りの所作で、クシュリナの前に陶碗を置く。
 金羽宮あげての宴の開始は、あとわずかに迫っている。
 幼馴染と再会できる喜びより、まだ、今朝の憂鬱が尾を引いている。ダーラに言ったところでどうなるわけではないと判っていても、それでも、口にせずにはいられなかった。
「彼の任務のこと、ダーラも知っているんでしょう?」
 答えないダーラは、銀盆を抱いて背後に下がる。
「聞いたわ。ラッセルから、忌獣の話を」
「まぁ、姫様」
 即座に非難めいた声が返される。クシュリナは身を乗り出した。
「なんとかして、ラッセルを近衛青百合隊(パシク・フラウ)に戻すわけにはいかないかしら。私、バートル隊の任務が、あれほど危険だとは思わなかった。ラッセルは困ると言ったけれど、私……」
 私、どうしても。
「……姫様」
 腰に腕をあてたダーラは、一拍おいて、呆れたように苦笑した。
「バートル隊への異動は、近衛司令でもある甲州公さまのご命令です。だいたい姫様が言ってだめなものを、私が言ったところできくものですか」
「でも」
「それに、ラッセルなら大丈夫ですから」
 にこやかに笑うと、ダーラは背を向けて、移動卓に並べた茶道具を片付け始めた。
「姫様はご存知ないでしょうが、忌獣討伐といってもそれほど危険な仕事をしているわけではないのです。姫様がご心配なさる必要は、全くないのでございますよ」
「………」
「さ、もう忌獣の話はお忘れくださいませ。皇都にお暮らしになる姫様には、関係ないお話でございますから」
 さざ波のような憤りを、クシュリナはうつむいてやりすごした。
 ダーラは、何を呑気に笑っているのだろう。
 ラッセルは、あんな恐ろしい怪物を相手にしているのだ。いったい、どこが危険ではないと言うのだろう。
「ラッセルは、ルカの邑に忌獣が出たと言っていたわ」
 開き直って口にした言葉だが、その途端、ダーラの手がぴたっと止まった。
「みな、皇都に忌獣は出ないと言っているけれど、ルカは皇都のすぐ隣よ。そんな場所にまで忌獣が出るなら、私たちだって、気をつけなければいけないのではないの」
「クシュリナ様」
 ダーラが顔をあげる。クシュリナは驚いていた。ダーラの目が、別人のように冷たくなっている。
「それは、何かの聞き間違いでございましょう」
「え?」
 クシュリナは戸惑って瞬きをする。
「ああ、それともラッセルが言い間違えたのかしら」
 間違えた  
 訝しくダーラを見上げると、ダーラは不意に相好を崩してくすくすと笑いだした。
「ああ、判った。ラッセルったら……きっと姫様をからかったんだわ。あれほど言ったのに、いつまでも姫様を子供扱いして」
「違うわ。ダーラ、ラッセルは」
「姫様を子供だと思って、少し大げさな話をしたのでしょう。姫様、そのような話、真に受けてはなりません」
「………」
 眉を寄せたダーラの目が、何かに挑むように厳しくなる。
「皇都に、忌獣は出ません。これまで出たこともなければ、この先も出るはずがないのです。お判りになりますか、姫様。何故なら皇都はシーニュ降臨の地、神に護られた国なのですから」
 言葉にできない反発が浮かんでは消えていく。
 ダーラの言葉の底に流れるものは判る。彼女が、自分のためを思って言ってくれていることも。
 それでも、今、こんな言葉で、ラッセルとの間に生まれた真実の感情を、台なしにされたくはなかった。
「ラッセルは……彼は、今、どこにいるの?」
「ラッセルですか」
 ダーラは、不思議そうに眉を上げる。
「ラッセルに、何か御用でも?」
「………」
 何故それを、ダーラにいちいち言わなければならないのだろうか。
 不満が眉を曇らせたが、ダーラは気付かないようだった。
「あの人なら、今宵は警備で広間の方に詰めております。御用があるなら、私が伝えておきましょう」
 悪びれないダーラの無神経さに、クシュリナは初めて、粟立つような嫉妬を覚えていた。
 あの人  
「……まるで、自分のもののような言い方をするのね」
「え?」
「ラッセルとはいつ結婚するの?」
 口にしてから、言ってしまった自分に驚いた。クシュリナは不自然な鼓動を感じながら、ダーラを見あげる。
 どうしたんだろう、今日の私。大好きなダーラ相手に、こんな嫌な気持になるなんて。
「それは」
 さすがに戸惑ったのか、ダーラは表情を曇らせて視線を伏せる。「……私の一存では、決められぬことですから」
「私から、お父様にお願いしてみてもいいのよ。大好きな二人が結婚するなら、これほど喜ばしいことはないもの」
 本音なのか、嘘なのか、自分でも判らない。
 ひとつだけ確かな、混じり気のない真実は、彼が誰かのものになるなら、それはダーラしか考えられないということだ。
 他の誰であっても許せない。でも、ダーラなら認められる。
 けれど、同時に、相手がダーラでなかったら、   こうも苦しまなくてすんだような気もするのだ。  
「お気遣い感謝します」
 顔をあげ、ダーラは、はっきりと微笑した。
「でも、その時は、ラッセルがお願いにあがると思いますから」
「そう……」
 クシュリナもまた微笑して、卓上の銀碗を持ちあげる。
 今朝、夢で知った感情が一欠けら、胸の奥に零れて、吸い込まれていく感じがした。

 
 
 
 
 
 
 
 
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