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 並木道を通り、渓流沿いにいくつかの城門を抜けると、高台にある草原に出る。草原の向こうにはシーニュの森が、黒みを帯びた緑の木々を、眩しい日差しにきらめかせている。
 クシュリナはウテナの手綱を引いた。
 背後で、追走していたラッセルも馬脚を止める。
 皇室領の終わりを告げる境界の森。立入が厳しく制限されているシーニュの森に面したこの高台は、見渡す限りの広大な敷地を、今朝も、鳥と風だけに開放していた。
 ここは、皇都の全景が一望できる場所でもある。
「あれは、どこの船かしら」
 眼下の海を見下ろし、弾んだ声で、クシュリナは訊いた。
 馬を走らせる前の鬱屈は、跡形もなく消えている。
 それは目の前に広がる、夢のように美しい光景のせいかもしれないし、久々に馬を走らせた爽快感から来るのかもしれない。   が、そうでなくとも、ダーラさえいなければ、クシュリナはいつでもラッセルの前で笑い、素直に甘えることができるのだった。
「きっと青州の船ね、ラッセル、ユーリはあれに乗っているのかしら」
 隣で、ラッセルが静かに微笑しているのが判る。
 あのような遠くの船、見分けなどつきませんよ、と言われているようである。
 見下ろす藍河(らんが)は南海に通じ、蒼碧の海から、いくつもの帆船が、竜のごとく藍河を目指している。
 藍河は内陸を通り、皇都を擁す積青湾(せきせいわん)に続いている。それは巨大な人口湾で、青を湛えた美しい水のほとりに、クシュリナが暮らす宮殿があった。
 その名を、金羽宮(きんぱきゅう)という。
「黄金の城なんて趣味が悪いって、ユーリは散々毒づいたけれど、実際に見てみれば判るわね。この世界に、金羽宮より美しいお城なんて、絶対にないと思うもの」
 内陸湾の畔に建てられた、巨大な城、金羽宮。
 金羽宮は大きく本殿と三つの宮殿(オルド)に分かれ、皇族をはじめ、約二千人の文官、女官、侍女、侍従、近衛隊と呼ばれる騎士たちが住み暮らしている。
 その規模と壮麗さは、五国一と称され、若者であれば、誰もが一度は登城を夢見、憧れる場所だともいわれている。
 今も、二対の黄金の鐘楼が、陽の光を受けて燦燦と輝き、鏡にも似た青に溶け込んだ金色は、湾全体を神々しい光で揺らめかせている。
「この城は、ゴルダ城というのが正式の名称ですが、広く金羽宮と呼ばれています。その意味をご存知でしょうか」
 ラッセルの声がした。
 柔らかな黒髪が、風に舞いあがって光を孕む。
「意味……?」
「ええ」
「……城の輝きが波に映えて、広げた翼のように見えるから、と……聞いているけれど」
 戸惑いながら答えると、ラッセルは小さく頷いた。
「そうです。まるで金翼が海から飛び立つように見えることから、そのように呼ばれています。黄金鳥は、創造神シーニュの象徴。その姿を模した金羽宮は、いわば、シュミラクール界の象徴でもあるのです」
 淡々と語る穏やかな目は、どこか遠くを見ているようだった。
「私たちはシュミラクールの聖地、イヌルダの民。シーニュの血を継ぐ者です。その直系である姫様には、高貴なる者の義務として、世界の平和と秩序を護る務めがある。それを、お忘れになってはなりません」
 ふと、その台詞をクシュリナは、遠い過去にも聞いたような錯覚を感じていた。いつだったろう……どこでだったろう。すごく昔のような気がするし、……つい昨日のことのような気もする……。
「今は乗馬の時間だわ、ラッセル」
 自身を惑わす不可思議な感情を、クシュリナは笑顔で押しやった。
「それとも私、何か失敗でもしたのかしら。ラッセルに教えられた通り、ダーラの言うことをよく聞いて、毎日、自分の務めをこなしているつもりよ」
 ラッセルは苦笑する。その横顔に、あるかなきかの翳りが滲んでいる。
 パシク・フラウを離れてからの二年、彼の顔に、日に日に憂いの影が濃くなっていることを、クシュリナはよく知っていた。
「もしかして、……また、忌獣が出たの?」
 不安に目を瞬かせて、クシュリナは訊いた。
 ラッセルは少し驚いた顔を向けると、たちまち眼元を引き締める。
「そのような言葉、二度と姫様が口にされてはなりません」
 忌獣の名は、宮中では禁句である。存在自体が、神の血統を守る皇室においては禁忌だからだ。
「わかっているけど……」クシュリナは言い淀んだ。同時に、彼に子供扱いされていることが、たまらなく悔しくなった。
「でも、そうなのでしょう? だからラッセルは、ひと月も金羽宮を空けていたのでしょう? そんなの、フラウ・オルドの侍女たちだって噂しているわ。私だって   
 このひと月、どれだけ心配したことか。
 帰途についているとダーラに聞かされた時、どれだけ安堵したことか。
「私は、もう子供ではないのよ」
 ラッセルの近況は、全てダーラを通じてでしか判らない悔しさが、クシュリナの瞳を潤ませた。
「だから、ラッセルのお仕事のことも、教えてほしいし、話してほしいの。宮中では、誰も表だって忌獣の話はしないけれど、皆、内心ではとても不安に思っているわ」
 
 
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 ラッセルは、黙ったまま、馬を降りた。
 歩み寄ってきた彼が、腕を伸ばす。その手に支えられながら、クシュリナもウテナを降りた。
 乾いた手のひらは、少しだけ温かく、指は、滑らかで冷たかった。
「成長あそばされたことは、存じ上げております。もう、十八歳になられるのですから」
「………」
 顔の上げられないクシュリナを、ラッセルは無言で見つめている。彼の、沁み入るような眼差しを感じながら、クシュリナはますます苦しくなって、睫毛を伏せた。
 彼は   どうしてこうもぶしつけに、私を見つめることができるのだろう。
 私にはできない。
 滑らかな肌、男らしい頬の輪郭、首筋、きれいな鎖骨、衣服の上からでもわかる、引き締まった腰の形。
 こうして見つめられるだけで、ドキドキする。全てが眩しくて、……直視できない。
 傍に寄られると苦しくて、なのに、離れられると泣きたくなる。このもどかしい感情を、クシュリナはすでに恋だと自覚していた。
 恋   けれどそれは、何があっても叶うことはない。身分の差はもちろん、クシュリナには、ラッセルと出会う前から定められた人がいるからだ。
「現れたのは、甲州の西南……、ルカの邑にございます」
 ラッセルが口を開いた。
 甲州とはイヌルダの東北部、クシュリナの父である甲州公ハシェミのお膝元である。
 しかもルカの邑は、記憶が確かなら殆ど皇都と隣接している。クシュリナは、顔色が変わるのを感じたが、気丈を装って、ラッセルを見上げた。
「山間の集落でございましたが、百余名の邑人は全員殺されておりました。邑祭の最中と見えて、女子供などは晴れ着のまま……、惨たる有様で、ございました」
「子供まで?」
 胸を衝かれ、そのまま、言葉を失っている。
   ひどい」
「相手は、畜生でございますから」
 感情を抑制しているのか、ラッセルの口調は淡々としている。
 畜生   
 それが、正体不明の獣というほか、何も知らないことにクシュリナは気がついた。
 知らないのはクシュリナばかりではない、皇都の誰もが忌獣の姿を想像で語り、中には野犬の群れか狼だろうと言うものさえいる。
 皇都にとって、忌獣とは禁忌であり、同時に、決して縁のない存在なのだ。この百年、シュミラクールで唯一忌獣の害がないのが、イヌルダの皇都である。それは、シーニュ神の加護ゆえだとクシュリナはもちろん、イヌルダの誰もが信じている。
「忌獣とは、二目と見られないほど、醜い姿をしていると聞いたことがあるわ」
 思い切ってクシュリナは聞いた。もとより、答えを期待していたわけではなかった。「いったい忌獣とは……、どのような獣なの?」
 目をすがめ、一拍置いてから、ラッセルは続けた。
「身の丈は大人の二倍ほど、外観は巨大な黒猿にも似て、全身から腐汁を流し、二足で歩き、鋭い爪と牙で人を襲うと言われています。死ねば、その体は数秒で腐敗し、赤い泥と砂に分解してしまいます」
 耳を疑ったクシュリナは、険しく眉を寄せてラッセルを見上げている。
「それは、……本当に獣なの?」
 獣というより、怪物だ。
 想像していた獣の姿とは、あまりにかけ離れている。
「本当に、……そんな生物が、この世界に存在するの?」
 信じられない。伝説でも、作り話でもなく、本当に?
 ラッセルは、表情を変えずに頷いた。
「神の系統外の忌なる生物、ゆえに、奴らは忌獣と呼ばれているのです。何処から来て、何処へ消えるのか。闇夜に出現し、何処へと消えること以外に、その生息も実態も、まだ、なにひとつ判ってはおりません」
 神を冒涜する獣(ブラスファミ・ビースト)    『忌獣』。
 肌が粟立つような恐ろしさに、クシュリナは唇を強張らせていた。
「でも、生物なら……剣や槍で、倒すことが、できるのよね? そうやって、バートル隊は、忌獣を退治しているのでしょう?」
 せめてもの救いを求めて訊いたことだが、ラッセルはわずかに黙り、視線を伏せたままで、首を横に振った。
「いかなる武器を持って対峙しようと、忌獣を葬りさることは、難しいと存じます」
「どういうことなの」
 何故か、不安がより濃くなる。「だって実際に、バートル隊は忌獣を倒しているのでしょう?」
「……忌獣の姿を、しかと見た者も、倒した者もまた、このシュミラクールには存在しないのです」
「だって……」
「人が忌獣と闘って、勝ち残る術はないのです。忌獣に遭遇した者は、すべからく死に見舞われます。そう、お察しくださいませ」
 それは、ラッセルがもし……忌獣と遭遇するようなことがあれば……生き残ることはできないと、そういう意味なのだろうか。
「ラッセル、私は嫌よ、あなたが、そんな危険な仕事についているだなんて」
 思わず、彼の袖を掴んでいる。
「ではいったい、バートル隊は、何のために忌獣の討伐に向かっているの。勝つことができないなら、何のために」
「姫様……」
 陰鬱だったラッセルの瞳に、はじめてかすかな微笑が広がったような気がした。
「戦いにも、色々ございます。直接対峙することが、討伐の全てではございません」
「でも」
「姫様が、ご心配になさるようなことではないのです。……幸いなことに、私はまだ、忌獣を見たことがございません」
 海の匂いを乗せた風が、二人の間を吹き抜けた。
 穏やかなラッセルの眼差しを見ていると、これ以上何も言えなくなる。
「……話してくれるなんて、思わなかった」
 うつむいたクシュリナは、思わず呟いている。
「仰せのとおりだと思いました」
 視線を下げながら、ラッセルが答えた。「あなた様はもう子供ではない。いずれは、イヌルダを背負って立たれるお方です。避けては……お通りになれないこともある」
「じゃあ、これからは、なんでも私に話してくれるの?」
 見上げたラッセルの眼は、水のような微笑を浮かべていた。
「私などがお教えしなくとも、いずれ、しかるべき時に、しかるべき方からお話があろうかと存じます」
 彼らしい控え目な物言いは、同時に彼の、頑なな気質をも表している。
 一度こうと決めたら、何があっても引かず、揺るがない、それがクシュリナが思うラッセルの長所でもあり、短所でもある。
「クシュリナ様。これだけは胸に留め置きください」
 再び馬に向かって歩を進めながら、ラッセルは続けた。
「忌獣とは、しょせん、ひとつの現象にすぎません。原因不明の疫病、田畑や森林に蔓延する病、シュミラクール界全体が、今、大きな災厄に見舞われているのです」
「知っているわ、リュウビの時が、迫っているからでしょう」
 クシュリナは空を見上げた。空にはうっすらと月の残滓が見えている。
 真円を描く青の月、それが最もシュミラクールに接近する時、世界は災いで満たされると言い伝えられている。
 五百年に一度と言われるリュウビの時は、暦によれば、あと十五年後に迫っていた。
「忌獣も、その災いのひとつなら、私たちにはどうすることもできないのかしら」
「何もかも、青の月の干渉で片づけることは誤りです」
 足を止めたラッセルの声が、厳しくなった。
「原因の根本は、シュミラクールそのものにあるのやもしれません。その可能性から決して目を逸らしてはなりません」
     ラッセル……。
 ラッセル一人が、何かとてつもなく大きなものを背負おうとしているような気がして、クシュリナは、自然に胸が苦しくなるのを感じていた。
「ラッセル、私はあなたが心配だわ。バートル隊は、パシクの中でも、一番危険を伴う役職なのに」
 この二年間、どれだけ心を痛めたかしれない。忌獣の討伐が重要な任務だということは判っている。でも、どうして    よりにもよって、ラッセルがバートル隊に配属されなければならなかったのだろうか。
「お父様に言うわ、早く、あなたを城内のお仕事に戻してくださいって」
    困ります」
 実際に困ったように、ラッセルは笑った。その目が、ひどく自分を子供扱いしているような気がして、クシュリナは思わず両拳を握りしめている。
「駄目よ、だって、私との約束はどうなるの」
 風が、額にかかる前髪を払った。ラッセルは少しだけ視線を動かして、クシュリナを見た。優しい目だった。
「そうでしたね」
「……なんだか、馬鹿にしてるみたい」
「そのようなことはございません」
 穏やかな瞳。優しい口元。
「ダーラでは、不足がございますか」
「そんな、ことはないわ」
 そこでダーラの名前を出されたことに、泣きたいようなやるせなさを感じ、クシュリナは急いでウテナの手綱を取った。ラッセルが、手を差し出す。
「忌獣は、必ず討伐できるのよね?」
「必ず」
 馬上のクシュリナを見上げ、ラッセルは静かに頷いた。
「忌獣は必ず、シュミラクールから一掃せねばなりません。それが、イヌルダの皇都を司る者の義務なのでございます」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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