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「おはようございます、姫様」
 本殿の厩舎前では、馬番のジャムカが、すでに愛馬を待機させていてくれた。
 清々しい朝の日差しの中、美しい純白の馬は、主人を見つけて一声いななく。
「今朝のウテナは、格別元気がようございます。ずっと姫様をお待ちしておりましたようで」
 祖父の代から馬番頭を務めるジャムカは、自慢気に、白馬の尻を押した。
「ほら、行ってこい、お前の大好きな姫様だぞ」
 ウテナとは、クシュリナが名づけた七歳になる駿馬である。
 白銀と見まがうほど真っ白なたてがみを持つ雌馬は、二年前の誕生日、父から賜った贈り物だ。見栄えも見事だが、俊足はそれ以上で、金羽宮が抱えるどの名馬よりも早く疾走する。
「おはよう、ウテナ」
 クシュリナは愛馬の首筋を撫で、たてがみに頬を寄せた。
「十日もお前に乗っていないわ。ごめんね、外で思いっきり駆けたかったでしょう」
 主人の問いかけに、ウテナは嬉しそうに鼻を鳴らす。そのしなやかな馬首に腕を回し、クシュリナはウテナの鼻先に口づけた。
「ねぇ、聞いて、今日は私のお友達が青洲から来るの。私に乗馬を教えてくれた人よ、きっとお前も気にいると思うわ」
 前足を上げて、ウテナはますますクシュリナに身を寄せてくる。早く行こう、とせがんでいるようでもある。
「まぁ、ウテナも辛抱のなさでは、姫様とよく似ていらっしゃいますこと」
 ダーラが、笑いながら前に出た。すらりとした背が、クシュリナの前に立つ。
「ジャムカ、彼は?」
「へぇ、まだおいでではないようです」
 彼……?
 クシュリナは瞬きをした。
 そう言えば今朝は、拒否しても必ず四、五人はついてくる近衛青百合隊(パシク・フラウ)の姿が見えない。
 訝しくダーラを見上げたクシュリナは、彼女の肩越しに、こちらに歩み寄ってくる長身の人影に気がついた。
「………」
 肩までの長さの髪を持つ、背の高い男の人。
 漆黒の髪は陽射しにきらめき、濃紫の上衣(クローク)が風にひらめく。深く被った羽根帽子には、鷲翼(バートル)の紋章。
 はっと息を飲んだクシュリナは、咄嗟に彼の名を呼ぼうとして、それが……別の誰かの名前だということに気がついた。が、口にしかけたその名前は、何故か次の瞬間、跡形もなく霧散する。
「ラッセル」
 振り返ったダーラが、先に彼の名を呼んだ。
 そう、ラッセル。
 彼はラッセルだ。獅子堂ラッセル。わからない、私はいったい、彼をどんな名で呼ぶつもりだったのだろう。
 自分を覆う大きな影を感じながら、クシュリナは動悸の高まりを誤魔化すようにうつむいた。
 ここ数日、彼のことを考えないように   頭の中から追い出そうと努めていたことに、ようやく思い至っている。
「ラッセルでございますよ、クシュリナ様」
 ダーラの、明るい声がした。「昨夜遅くに、皇都に戻ってまいりました。今朝はこのラッセルに、姫様のお伴をさせましょう」
「お久しぶりでございます」
 前に立つ人が、胸に手を当て、丁寧な所作で片膝をついた。
「獅子堂ラッセル。しばらく隊務で城をあけておりましたが、本日より、再び城内預かりの身となりました」
 低音の柔らかな声、穏やかな喋り方。濃紫のクロークが風にひらめく。
「今朝は、ダーラに代わり私がお供をいたしたいと存じます。どうかお許し下さいませ」
 やはり一言も言葉を返せず、クシュリナは、おずおずと目の前の人を見下ろした。
 ゆるやかに額にかかる前髪の下から、漆黒の瞳がのぞいている。繊細な鼻筋と引き締まった薄い唇。濃紺のつば広帽子を目深に被り、前ボタン留めのコートには皇立近衛隊(パシク)を意味する黄金鳥の刺繍。
 が、帽子と剣に施された鷲翼(バートル)の紋章と、濃紫のクロークは、彼が、近衛隊(パシク)の中にあって、より特殊な地位にいることを示している。別名バートル隊、精鋭ばかりが集められた特殊戦闘部隊である。
「ダーラ様、では、今朝のお供は、ラッセル様お一人でよろしいので?」
 ジャムカが周囲を見回しつつ、不思議そうに口を挟んだ。
「ラッセル一人で十分よ」
 自信満々に、ダーラは頷く。
「パシク・フラウが十人束になってかかろうとも、バートル騎士一人の足もとにさえ及びません。ジャムカ、彼は私とは違うのよ」
 表情を変えずに、ラッセルが立ち上がる。クシュリナは、さっと引いていた。彼の無表情はいつものことだが、今朝はことさら、居心地が悪い。
 何故だろう。彼を見た刹那、やはり、今朝ダーラを見た時と同じ不思議さに囚われたからだろうか。
 私は……この人を……すごくよく知っている……知っているはずなのに……。
 委縮しているクシュリナに気付いたのか、不意に、ダーラがくすくすと笑いだした。
「おかしな姫様、今朝は本当にどうなされたのです。まさかラッセルまでも、懐かしいと言うのではないでしょうね」
 胸の裡を読まれるような言葉に、クシュリナは頬が赤くなるのを感じている。
「ラッセルは、姫様が十の年よりお傍に仕えていたのですよ。そう、まるで二人は一つの木から別れた枝のようでございました。成長あそばした姫様の傍に、替わって私がお仕えするようになったのが、申し訳ないと思うほどに」
「ダーラ」
 珍しく厳しい口調で、ダーラを遮ったのはラッセルだった。
「戯れでもふざけたことを言うな、恐れ多い」
「い、いいのよ、ラッセル」
 彼の眼が本気で怒っていることを知ったクシュリナは、急いで口を挟んでいる。
「私、今朝は本当になんだかおかしいの。ダーラは、私を元気づけようとしてくれたんだわ」
 そうだ、ダーラの言うとおり、自分が十歳、ラッセルが十七歳の時から、彼はずっと傍にいてくれたのだ。たった一月顔を見なかっただけで、恥ずかしがったり不思議な感慨に囚われたり……そのほうが、どうかしている。
「おかしいとは、お身体が、ですか」
 が、ラッセルはますます表情を厳しくした。
「ダーラ、姫様のお身体には注意しろと、あれほど言っておいただろう。御殿医には診せたのか。夕べはちゃんと睡眠をとられたのだろうな」
「……ラッセル……」
 腰に腕をあてる、ダーラの眼が呆れている。
「あなたの心配性には、全くついていけないわ。姫様はもう十七歳、あなたの小さな妹じゃないのよ」
「なんだと?」
「姫様はすっかり親離れしたのに、あなたはまだ子離れができていないようね」
「お前は   ……」
 唖然としたラッセルが、絶句した後に嘆息する。「もういい、一度修道院に戻って、礼儀作法から学びなおして来い」
 険しく眉を寄せるラッセルを、ダーラは涼しげな顔でやりすごした。
「ジャムカ、ラッセルの馬を用意して。彼の愛馬は遠征疲れで休息中なの。なるべくウテナに負けない馬を、ね」
「へぇ、ただいま」
 ジャムカが、慌てて厩舎に駆けていく。
 微笑を浮かべたまま、ダーラはラッセルを振り仰いだ。
「じゃ、ラッセル、姫様を頼みます」
 ラッセルは微かに頷き、何気ない風に   、けれど、確かに気遣わしそうな視線を、ダーラに向ける。
 ダーラは何も言わず、ただ彼の目を見返すと、控え目に微笑した。
 クシュリナは、そっと睫を伏せていた。
 ダーラとラッセル。顔をあわせれば、言い争いばかりする二人に、特別な匂いを感じたのはいつ頃だろう。
 判っているのは、彼が自分には決して見せない表情を、惜し気もなくダーラには見せるということだった。
「姫様」
 騎乗を手伝うために差し出されたラッセルの腕を、クシュリナは気づかないふりで通りすぎた。 
「それじゃ、ダーラ、……すぐに戻るから」
 ダーラの手を借りて、ウテナに騎乗すると、クシュリナはすぐに前を向いて鞭を使った。
「まぁ、姫様」
 驚いた声が、あっという間に彼方に遠ざかっていく。
 この場を、一刻も早く立ち去りたかった。これ以上二人の傍にいたら、不自然に強張った自分の表情を、ラッセルにもダーラにも勘付かれてしまう。
 ……馬鹿な私、もう、ラッセルへの想いは、胸に収めておこうと決めたのに。  

 
 
 
 共に騎士の称号を持つダーラとラッセルは、イヌルダの小領主の子供で、同じ頃に近衛隊(パシク)として城へあがった。年も同年で、二十四歳。幼少時は、カタリナ修道院で学んだと聞いている。
 ダーラの言ったとおり、かつて、クシュリナの護衛は、常にラッセルの役目だった。青百合の第一騎士(フラウ・ラ・プレミア・ナイト)、それが彼の称号だった。
 が、今から二年前、クシュリナが遊学先の青州から戻った年に、ラッセルは突然任を解かれ、パシクの中でも最も過酷な任で知られる、バートル隊に転属となった。
 クシュリナにその理由までは知らされなかったが、時代が、彼のような優秀な騎士を、いつまでも優雅な職につくことを許さなかったのかもしれない。
 天迎十七年、この世界を覆おうとしている闇の暗さは、華やかな宮殿に暮らすクシュリナの耳にも届いている。
 百年ほど前に、突然この世界に現れたという、謎の生物、忌獣。
 世界各国に出没しては、邑や街を襲う獣の害は、今や、皇都の足元にまで迫ろうとしている。
 ラッセルが所属するバートル隊は、その討伐の任務も負っているのである。
 
 
 
 
 
 
 
 


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