13
「ええ、ぜひ僕に書かせてください、コラムで結構です。九時までには初稿を持っていきますから」
毎朝新聞、長野支局。
「お前、そんなことやってる場合でもないだろ」
電話を切った中原伊織の背後で、苦い目になったデスクの声がした。
四月、春の衆議院選で与党が惨敗してから、政局は荒れに荒れている。
入社5年、すでに政治部では中堅である伊織の前にも、取材の予定と締め切り間際の原稿が山積みとなっていた。
「この程度の原稿なら、片手間にできますよ」
「東大出さんは、俺らとは違うからな」
伊織の声を遮るように、隣席の二期先輩が皮肉たっぷりに呟いた。
東京本社で失敗して、昨年、支局に飛ばされてきた男。伊織は苦笑して肩をすくめた。最初はむかついたが、その陰湿な態度にももう慣れた。今は、何を言われてもバックミュージックのようなものである。
「そういや中原、本社からまた照会がきたそうじゃないか」
いったんはあきらめ顔で自席戻ろうとしたデスクが、ふと足を止め、眉をひそめたまま囁いた。
「ええ、でももうお断りしました」
「中原」
はぁっと、デスクは大げさな滑息を吐く。
「親の面倒をみたいというのは判るがな、そう何度も、本社への異動要請を拒否していたら、お前の将来に差しさわるぞ」
「中原は、来月には結婚ですから」
再び、嫌味な先輩が口を開いた。
「嫁さんが、地元から出たくないっていってんじゃないっすか、そんな甘いこと言ってる奴は、本社いったって無駄っすよ」
皮肉気な声を聞き流しながら、伊織は気ぜわしくキーを叩き続ける。
先ほど電話を受けたばかりのスポーツ部、第一報を告げてくれた先輩記者の興奮しきった声が、まだ耳朶に強く残っている。
伊勢谷陸、三度目の悲願でエベレスト登頂に成功。
―――よかったな。
苦笑しつつ、伊織は自身で打ちこんだ陳腐な見出しをデリートする。
ふいに、足元からぞくりとした寒気がこみあげた。風邪かな、と伊織は鼻に手を当てる。昨日、空調の切れた室内で朝まで仕事をしていたせいかもしれない。
四月も半ばだというのに、長野では例年にない冷え込みが続いている。
「今さら、エベレスト程度で記事にもならんだろ」
隣席の先輩が、鼻を鳴らしてバカにしたような口調で言った。
「地元の英雄かなんだか知らんが、そういう呑気なニュースで騒ぐのが田舎もんの証拠だな」
「あなたも、直になれますよ」
そう返してから、伊織は唇に指をあてた。
最初の一行でいつも悩む。それが伊織の癖のようなものだ。
出だしさえ決まれば、あとは水が流れるように文章が出てくるのに――。
隣席の先輩が言うように、すでに日本人のエベレスト登頂は、珍しいニュースではない。東京本社では三行記事にさえならないだろう。
けれど、この支局にとっては、伊勢谷の名は特別な意味を持つ。かつてここに在籍していたカメラマン伊勢谷高士。エベレストで死んだ男の1
一人息子が、その悲願を成し遂げたのだ。当時の同僚にとっても、格別な思い入れがあるニュースに違いない。
美紅は……もう、聞いたかな。
キーの上で止まった指先が、言葉を探すようにMIKUと叩いた。
連絡しなくても、山岳協会から家族には一報が飛んでいるだろう。
ネパールに入ってから二ヶ月、頂上へのアタックを開始したというニュースが届いてから一週間あまり、エベレストでは、いつにない悪天候が続いていた。不穏な状況の中、ようやく届いた吉報に、美紅もその母も安堵しているに違いない。
―――それにしても、俺に電話くらいすればいいのに。
秘めた感情を決して表に出さない美紅の性格を思い、苦笑が漏れる。
が、エベレストの事故は、その殆どが下山中に起きている。三度、弟が危険な地に赴くのを見送った姉にしてみれば、まだ、安心できる圏内ではないかもしれない――。
目の前の電話が鳴る。それと、ポケットの携帯が振動したのが同時だった。
「…………」
ふと、暗い予感がした。
伊織は受話器をとって耳に当てる。
かすめた予感が、ゆっくりと、色濃く思考を埋めていく。
「まだ、確認したわけじゃないんですね」
伊織は携帯の着信を見ながら、それだけを返した。
美紅。
嬉しい時には絶対にかけてこない癖に、こういう時には一番にかけてくる。
「わかりました、記事はいったん中止します。詳しい状況がわかったらすぐに教えてください」
電話を切って、即座に携帯を親指で押して耳に当てた。
「伊織……」
震える声がした。
伊織は席を立ち、人気のない廊下に出る。
「しっかりしろ、まだはっきりそうとは決まってないんだろう」
下山開始から2時間後、ベースキャンプとの通信が途絶えた。
当時は、吹雪がひどく、誰もその瞬間を見てはいないが、状況からいって落氷に巻き込まれ、チベット側の斜面に落下した可能性が強いという。
二時間前の歓喜が、一転して悲劇に変わる。
もう十数年前、日本人女性が始めて登頂した時もそうだった。登頂成功の記事が一面をにぎわせた後、下山中に死亡のニュースが届いた。
エベレストの死亡事故の実に八割が、下山途中におきている。
標高八千メートルは、そもそも人間が生息できる空間ではないのだ。極限を超えた極寒と疲労。それは、登っている最中は気にもならない。クライマーズハイ、しかしそれは、頂点にたどり着いた途端、意識しないところで途切れてしまう。
電話の向こうから、堰をきったような泣き声が聞こえてきた。
「まだ、死んだって決まったわけじゃない」
伊織は叱咤するように言葉を強めた。
「しっかりしろ!陸は絶対大丈夫だ!」
それでも。
美紅も、無論伊織も知っている。
標高八千メートルでの遭難は、それがささいなものであっても、ほぼ確実な死を意味するということを。
酸素も満足にない世界。ボンベの空気にも限りがある。氷点下四十度、身体が温度を失うのも時間の問題だろう。
誰も救うものがない氷の世界で、今、陸は、一人で息絶えようとしている。
最後の景色を、眺めながら。
「……伊織」
電話の声が泣き崩れている。
「……私、ネパールに、行ってくる」
「行って来い、俺も休暇が取れたら、後からいく」
「ごめん」
「いいよ」
「……ごめん……」
伊織はポケットに手を滑らせる、中には、直しからもどったきり、まだ渡していない指輪のケースが入っていた。
「美紅、陸は、絶対に生きてる」
それが、万にひとつもない望みでも。
電話の向こうからは、声ひとつ返らない。
「絶対に生きてるよ」
伊織は自分に言い聞かせるように呟いた。
14
遺族のためにチャーターされた特別機には、事故に巻き込まれた三名の家族と友人、山岳協会のメンバーと取材クルー幾人かが同席していた。
ネパールのカトマンドゥ、空港で、乗り換えの機が到着するのを待つことになる。伊織は、ずっと気分の悪そうだった伊勢谷佐和子を支えるようにして、用意された控え室に入った。
「伊織君、美紅から連絡は……?」
「昨夜あったきりです、今、留守電に入れましたから、直にかかってくると思いますよ」
こくりと頷き、第一報を受けてから、めっきり老け込んだ女性は力なく席に腰掛けた。そのまま背もたれに頭を預けるようにして目を閉じる。
「少し休んでください、何かあったら起こしますから」
「ありがとう、伊織君」
埃っぽい部屋だった。外の騒音が扉越しに伝わってくる。
機内から一緒だった山岳協会のメンバーが、すぐ後から入ってきた。
二人の男と、一人の若い女の三人連れ。
目許の凛とした長身の女は、機内でもそうだったが、佐和子の前で、丁寧に一礼した。その時も紹介されたし、伊織も写真で知っていた。
岡崎暁美。
陸の恋人で、阪神テレビ局総務部に勤務しているOL。今は、マスコミ関係者というより、友人の一人、山岳協会のメンバーの一人としてここに同席しているのだろう。
「お姉さん、先に行かれてるんですか」
携帯を取り出そうとした伊織の隣に腰掛け、硬い声で、はじめて女は口を開いた。
美人だが、女にしては強面で、少し情がきつそうな気がした。陸の好みだな、と、どこかおかしな気分で思い、「ええ、彼女はもう現地です」とだけ伊織は答える。
「何か、連絡は」
「それがさっぱり、陸に似て、余計なことを言わない人なんで」
さばさばした伊織の口調を奇異に感じたのか、ふと、女の目許から警戒心のようなものが取れる。
「……お姉さんの婚約者だと、お聞きしました」
「予定では、来月に結婚することになってますけどね」
伊織は苦笑し、まだなんの連絡もない携帯から催促のメールを送る。
「君と陸も、婚約したと聞きましたよ」
「陸からですか」
「他の誰から聞くんです」
関西の訛りを多少滲ませているものの、女の言葉はほぼ標準語だった。幼少時と大学になってからしか大阪にいなかった陸が、見事な関西弁なのと対照的だ。
言葉づかいでは、いつもどこか浮いていた陸は、それでも、それだけは頑なに変えようとしなかった、周囲に合わせようとはしなかった。陸が標準語を使うのは、昔も今も、ここに座る母親の前だけだ……。
「……そう、陸が、そう言ったんですか」
岡崎暁美の横顔は、どこか寂しそうでもあり、場違いに冷めているようでもあった。
その表情から、伊織はある予感を感じたが、それは口にせず、火をつけない煙草を唇に挟む。
機内で一緒だった取材クルーのスタッフが入ってきたのはその時だった。
「すいません、こんな時になんですが、お母さんに少しお話をうかがってもよろしいですか」
「どのような」
立ち上がって伊織。
陸の母、佐和子は、半ば夢うつつな状態で、椅子にぼんやり腰掛けている。知らせが入ってからずっと、この女は、夢と現実の間を行き来することで、かろうじて正気を保っているようにも見えた。
が、医者でさえ懸念したネパール行きを、断固として行くと決めたのも、この女性である。
そこに、伊織は、ある可能性を感じているが、それゆえに、佐和子の扱いにはより慎重にならなければいけないと覚悟もしていた。
「精神的にまいっているんです、よろしければ、僕から伝えます」
「伊勢谷さんのヤッケから、林檎が出てきたそうなんです」
渉外担当のプロデューサーなのか、折り目正しい背広姿の男は、声をひそめて囁いた。
「林檎?」
「聞けば、ご実家で取れたもので、伊勢谷さんはいつも遠征の際、それをお持ちだとか」
「……ああ」
「その理由やいきさつなどを……もし、よろしければと」
「わかりました、話ができるようでしたら、僕の方から連絡しますよ」
伊織は丁寧に答え、背後の佐和子を振り返る。
会話が聞こえたのか、それとも聞いてはいなかったのか、目を開けた女は、ぼんやりと自身の指を見つめているようだった。
「林檎……」
男が退室した後、岡崎暁美が、ふいに冷めた口調で呟いた。
「やっと判ったわ、陸が、エベレストにこだわるわけ」
「どういう意味かな」
背後の佐和子を気にして、伊織は眉をひそめる。
「陸は、林檎を探しにいったのよ、ずっと冗談だと思ってたけど」
くだけた口調になった女の目は、どこか怒っているように見えた。
「陸、前に言ってたことがあるの。エベレストの頂上には、林檎がひとつ埋まってるんだって」
伊織の背後で、佐和子が、はっと、顔をあげる気配がした。
伊織は暁美を遮ろうとしたが、女は淡々とした口調で続ける。
「それは、宝石みたいに紅い、12月にしか実らない林檎で、死んだ陸のお父さんが、エベレストに登った時、頂上に埋めたものなんだって。バカみたいでしょ、陸のお父さんなら、登頂できずに死んじゃったはずなのに」
「おい」
「その林檎の表にはね、大切な人の名前が書いてあって」
「私が書いたのよ」
ふいに、か細い声が背後から聞こえた。
暁美の腕を掴もうとしていた伊織は、驚きを顔にとどめたまま、背後の佐和子を振り返る。
「初夏に私が、あの人と書いたの、熟れる前の林檎にテープを張ると、秋にはそこだけ色が変わらずに残るでしょう?」
視線を空のどこかに止めたまま、まるで今、長い夢から覚めたかのように、佐和子は淡々と呟いた。
「その林檎を、あの人が春、登頂する時に持って行ったの。書いてあったのは家族の名前よ、私、あの人、陸と美紅、それから」
それから。
そう呟いた女の表情がみるみる崩れた。
「夏に生まれたばかりの……」
「おばさん」
伊織は駆け寄り、その肩を抱いた。
「わからない、どうして忘れていたのかしら、どうしてそんな大切なことを、私は、思い出せなかったのかしら」
「みんなはちゃんと覚えてた、だから大丈夫なんですよ」
両手で顔を覆い、佐和子は苦しげに首を振った。
「ずっと、生きていたと思っていたの。あの子は生きていて、……それが陸だって思っていたのかしら、私」
伊織は無言でその肩を抱く。
「陸に……陸に言わなくちゃ、あなたの責任じゃないのよって、陸に、」
「陸ならもう、大丈夫なんですよ」
もう、全てを乗り越えている。
伊織はそう確信している。もう十年以上も前、おそらく陸にしてみれば、無意識に死を求めて登った大雪山で。
「信じられなかったの、信じたくなかったの……だって、初めての子供だったから、私とあの人の、あれが初めての子供だったから」
「…………」
すすり泣く女の肩を、伊織は無言で撫で続ける。
俺な、死んだらええ思うたんや。
親父なんかいらん、弟も、生まれんかったらええ思うとったんや。
携帯に、ようやく着信を告げる音が鳴る。
「陸に会ったら、言ってあげてください」
立ち上がりながら、伊織は言った。
「もう、美紅と、姉弟のふりなんかしなくていいと、そう言ってやってください」
「うん、そうか、判った、お母さんには、それは黙っておくから」
電話の向こう、婚約者だった女の声は、途切れ途切れにかすれている。
「ごめん……」
「ん?」
「私……伊織とは、……」
それでも、伝えられた言葉に、伊織は壁に背を預けたまま苦笑した。
遅いよ、バカ。
唇に笑いを滲ませたまま、伊織は自分の目元に指を当てる。
……あの時ね、もう林檎は、射抜かれていたの……。
涙と嗚咽で聞き取れない言葉が、何を意味しているのか、それは判らなかったけれど。
全く損な役回りだ。
どうせ行き着くだろうに、なんだってここまで待たされたんだろう。
伊織は顔をあげて、携帯を持ち直した。
「店員さんに言われたんだ、あんな太い関節に入る指輪はありませんって、丁度よかったよ」
上着のポケットに収められたケースに、伊織は指で触れてみる。
そして苦笑して、ポケットから手を引き抜いた。
最初の一言がどうしても出てこない悪い癖。
でも今は、言葉が迷わず溢れてくる。
「言い忘れてたけど、俺、もうじき東京に転勤になるんだ、最初から結婚は流すつもりだった。気にするな、式のキャンセル料なら、陸にきっちり請求するから」
15
携帯を切った伊織は、背後に立つ女を振り返った。
「最悪、両下肢切断、よくても、足の指何本かは、もうダメだってさ」
「エベレストの滑落事故で、その程度ですむなんて、奇跡より幸運よ」
岡崎暁美は冷めた声でそういうと、伊織の隣に背を預けた。
「そう、やっぱり本当の姉弟じゃなかったんだ、なんとなくそうだとは思ってたけど」
伊織は肩をすくめ、煙草にライターで火を点ける。
「お母さんの記憶が、おかしな具合にねじれてたからね」
「その話は初めて聞いたわ」
「陸の弟が死んだんだ、まだ生まれて半年もたってなかった、お父さんがエベレストで遭難するほんの数日前だったかな」
「…………」
「おばさんが、美紅をつれて病院に行ってて、家には陸とその弟の二人だけだった。今でいえば、乳幼児突然死……なのかな。当時は原因がわからなくてね、大変だったそうだよ」
「……陸、それに責任感じてたってこと?」
「泣いてたそうなんだ」
伊織は、遠い目で、かつて二人きりで取残された死の世界を思い出しながら呟いた。
伊織、俺な。
ほんまはな。
「その時、赤ん坊はずっと泣いてたそうなんだ。陸は一度も、部屋を見にいかなかった、うるさいうるさいって、泣き声が聞こえなくなるまで、ずっと放っておいた、……本当に聞こえなくなるまでね」
死んだらええ思うとったんや。
弟なんか、いらん。親父もいらん。
二人とも、死んだらええ思うとったんや。
この家から、自分の居場所がどんどんなくるようで、ほんまは怖くて仕方なかったんや……。
「陸のせいじゃないわ」
しばらく無言だった暁美が、眉を寄せながら呟いた。
「病気だもの、どうしようもないじゃない、六歳かそこらの陸に何ができたっていうの」
「そう、でも陸は自分が殺したと思い込んでる、もう何年もずっと」
「……陸のお母さんは、まさかと思うけど、死んだ子が陸だとでも思い込んでたの」
「そのあたりが、ねじれちゃってる。少なくとも彼女の頭の中では、陸は、自分と高士さんの間に出来た子供で、間違いなく美紅とは本当の姉弟だ」
重なるようにもたらされた夫の悲報が、もともと弱かった女の神経を駄目にしたのだろう。数年間入院した後、佐和子の記憶は完全に混同したままになってしまった。
愛する人との間に初めてできた子供を失ったことを、受け入れられないまま、記憶はそこで止まってしまった。
「ひどいわ」
暁美は、眉をしかめたまま、呟いた。
「陸はじゃあ、そんな家にずっと縛られていたって、そういうこと?」
「縛られる?」
「お母さんとお姉さんよ。陸はずっと、いずれ長野に帰るんだって言ってたの。大阪で、父がテレビ局の正社員に推薦したのも全部断って……自分は登頂に成功したら、向こうで林檎農家をするからって。ばかみたい、潰れると判ってる林檎園をつぐなんて、しかも、本当のお母さんでもお姉さんでもない人たちのために」
「それで、妊娠したって嘘を言ったんだ」
「………陸は知ってたと思うわ、それでも、結婚しようって言ってくれたのよ」
くっきりと影を滲ませたまま、女は憤った目で床を見つめた。
「陸は自由になるべきだわ。お父さんの遺志も達成したし、お母さんの記憶ももどられたんなら、これからは自由に、義理の縁を切って生きたっていいと思うわ」
「君は何もわかってないね」
伊織は吸いかけの煙草を、傍らの灰皿にねじこんだ。
「美紅の本当のお父さんが高士さんで、陸のお母さんが佐和子さんだよ。自由になっていいのは、むしろ美紅の方なんだ」
父親そっくりの関節がいかつい指を思い出し、伊織は不思議な苦笑を浮かべた。
「陸は最初、大阪の父親の実家に引き取られていたんだ。その父親が急死して、高士さんと再婚したばかりの佐和子さんが手元に引き取った。聞いたことなかったかな」
「………………」
「それでも、美紅はあの林檎園から離れない。毎年、陸のためだけに売れもしない林檎を育てて、陸はそれを、毎年十二月に取りに帰る」
「…………」
「そこにどういう想いがあるのか、それは想像するしかないけどね」
青空に滲む機影を見ながら、伊織はまぶしさに目をすがめる。
林檎を毎年持っていく陸と、林檎を毎年育てる美紅。
陸はもう、二度と山には登らないだろう。
「さて、おふくろにどう言うか、それが問題だ」
伊織は呟き、怒った目に涙を滲ませている女を振り返って、肩をすくめた。
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