11
互いにウールの上下だけになり、抱き合って一つのシェラフにもぐりこんだ。
保湿力はあっても薄いアンダー、筋肉の隆起が指先に伝わってくる。
「拷問や」
狭さなら、陸が呟いた通りだった。
というより、ここまで濃密に、他人と身体を密着させたことなどない。
美紅が陸の身体を隅々まで感じているように、陸もまた、胸に抱く女の体を隅々まで感じているはずだった。逃げようもないほど、呼吸も鼓動もひとつになるほど近い距離で。
「あったかい」
「しゃべるな」
「なんで」
「首んとこがこそばい」
「ふぅーっ」
「あははっ、よせっちゅうに」
乾いた草の匂いがする。陸の匂い。陸の温度と鼓動――確かにここに、生きているという証。
「……すごく怖い話、思い出しちゃった」
「寝ろよ」
「……もう少し」
陸の腕が、腰に回されて引き寄せられる。美紅はあらがわず、肩に頬を寄せて、目を閉じた。
「エベレストに夫婦で登ってて、あと少しで頂上だって時に、妻だけが凍傷で動けなくなった話」
「……なんの話や」
「陸が前してくれた話……野口健さんの本で」
「ああ」
陸が尊敬し、おそらく目標としているアルピニスト野口健。
すでに破られたが、かつて世界最年少で六大陸制覇をなしとげた冒険家である。
「奥さんだけ、足を凍傷でやられちゃって……で、ご主人を先に頂上に行かせて」
いつ、その話を聞いたのだろう。思い出しながら、美紅は言葉を繋いで行く。そう、あれは電話だった。昨年の夏、国際電話で、不思議なほど長く陸が話してくれた。
あなた、私は動けないから、あなただけでも頂上に行って。
私はここで待ってるから。
「だんなさんだけ、先に登頂したの、で、降りてきたら、もう奥さんは動くことができなくなってた」
「……そやな」
「だんなさんは、奥さんを励まして、暖めて、いったんキャンプまで降りて、また登ってきて、それでも、どうしても助けられなくて」
標高八千メートルの世界。
動けなくなった妻を、助けられる者は、誰もいない。
「二人の声も、救助を求める声も、キャンプには届いていたのに」
そこで動けなくなることは、間違いなく死を意味する。
誰も――自分が生きるだけで精一杯の世界、他人を助けることなどできないからだ。
「陸だったら、どうする」
陸の耳を見ながら、美紅は訊いた。
「陸だったら、どうしてた?」
やがて夜になり、どうしても妻を助けられないと悟った夫は、斜面に身を投げ、自らの命を絶った。その夜、妻は凍死した。
「そうなる前に降りるやろ」
「だから、もしそうなったら」
「…………」
電話を切った後、怖くて、そして心細くなった。
愛する人の死を前に、どうすることもできない絶対の絶望。
一人取り残され、凍えて死んだ妻は、最後に何を見て、何を思ったのだろうか――。
やっと判った気がした、その時から、美紅は不思議な衝動に取り付かれたのだ。
陸と。
陸と一緒に、冬の山に登ってみたい――。
「俺なら、降りるな」
陸は言った。乾いた声だった。
「奥さん、おいて?」
「せやな」
「本当にできる?」
「できるな」
「本当に?」
その答えがにわかには信じられない、美紅は寄せ合った顔を上向けて、陸の表情を探ろうとする。
その頭を抱かれるようにして、少し強く、喉元に押し付けられた。
「実際、そうしたやないか、俺」
「…………」
「高校の時、動けなくなった伊織を置いて山を降りたやろ」
「…………」
伊織と陸――。
高校生だった二人を襲った冬山の奇禍。
「ホワイトアウトでワイデリング……最悪の状況やった。俺はまだ体力に余力があったけど、伊織はもうぎりぎりで、日帰りのつもりやったから、満足な装備もしてなかった。それでも、雪がやんだらなんとかなる、そう思って、二人で二晩、なんとか励ましあって乗り切ってきたけどな」
当時のことを、美紅は胸が痛くなるような思いで思い出す。
高校生二人、冬の大雪山で遭難か。
地元の新聞社が押し寄せ、静かな村は大騒ぎになった。
「伊織に先に限界がきた、体力の差や、俺はずっと冬山に備えて訓練してたけど、伊織にその準備はない。俺が迂闊やったんや、それまで、簡単に大きな山を制覇してたから、どっかで舐めとったんやな、冬山を甘くみとった」
囁くような声だった。
「そん時はじめて、これが現実やと思い知らされた。伊織は死んで、俺はそれを助けられない」
「陸……」
呟いた身体を、緩やかに抱きしめられる。
その時二人は。
どんな気持ちだったのだろう。
山を降りれば、いつもと変わらない日常がある。
けれど、山の上、二人の前には殆ど確実な死が待っている。
なのに、そこから逃げられない。
「それでも俺は降りたし、伊織も、それが判ってて、俺に行け、ゆうたんや」
「…………」
美紅は無言で目をすがめる。
伊織の、どこか皮肉で、それでも優しい笑顔が脳裏によぎる。
「伊織はおもろいやっちゃ、最後の最後に、笑いながらゆうたセリフがあってなぁ、でもそれ、絶対誰にもいうたらあかんのや」
「なんで?」
「ゆうた自分が恥ずかしいからやと、伊織はすごいやっちゃ、自分が死ぬと判っててあそこまで冷静でいられる奴を、俺は知らんよ」
「…………」
「姉ちゃんが伊織と結婚することになって、ほんまによかった思うとる」
「……うん」
「伊織の指のこと、俺はちぃとも気にしとらんよ。あの時のことはなぁ、誰にどう説明しようと、しょせん、俺と伊織だけしかわからへんのや。二人だけしか理解できへん、それでええんや」
二人だけしか、理解できない世界。
「姉ちゃんは、極端な同情しぃやな」
陸の声が笑いを帯びる。
「なんで」
「俺の話聞いて、悲しくなったんやろ。でも死んだ夫婦にはな、俺と伊織と同じで、多分そん時、二人にしかわからへん感情があったはずなんや」
「…………」
「それ、想像して、可哀相とか残酷とか思うのは勝手やけど、それだけやないと思うけどな、俺は」
じゃあ、陸は――。
どうして、その話を私にしたの。
陸だって、寂しくて悲しい気持ちになったから、それを誰かに話したかったんじゃないの……?
山に挑むものの自由と孤独。
それに、たまらない寂しさを感じたからじゃないの……?
「なんで、喧嘩したの」
「伊織とか」
「うん」
「してへんよ、あれは伊織の勘違いや」
「そっか」
陸が、腕を動かして方耳からイヤフォンを引き抜いた。
「雪はもう直やむし、もう寝ても大丈夫や」
「本当?」
「ああ、俺も少し寝る」
美紅はふと笑っていた。
「なんや」
「だって、このまま死んじゃったら、面白いな、と思って」
「はぁ?」
「姉弟で何やってたんだってことになるじゃない」
「いじましい姉弟愛やないか」
「……そだね」
厚みのある肩に顔をあずけ、美紅は目を閉じた。暖かい。
今度こそ眠れそうな気がした。轟音も、テントのゆれも、照明の陰りも気にならずに。
陸の手が、まるで子供をあやすように、何度も背を撫でてくれる。
うつらうつらした頃、陸の身体が動くのが判った。ああ、またテントの雪をおろしにいくんだ――陸……私も、手伝うのに。
夢現のまま、美紅は両腕を胴に回して、その逞しい身体を抱きとめて、抱き寄せる。少し顔をかたむけた陸の唇が、髪に触れたような気がした。
強く優しく抱き寄せられたまま、髪に、何度も触れたような気がした。
12
午後五時にテントをたたんで出発した。
雪は、嘘のように止んでいた。
青白い視界、丘稜の上に、昨日見た建物の影が見える。そこまであがれば元のルートだ。視界がクリアになれば、確かに陸の言うとおり、それはなんでもない距離だった。
黙々と歩く陸の背中を見ながら、美紅もまた、無言で歩く。
アイゼンにも随分慣れた。昨日の悪天候を体験したせいか、焦燥のような恐怖心も褪せていた。景色が綺麗だ。朝もやの中、空と陸が溶け合っている。そんなことに思いを馳せる余裕すら昨日はなかった。
気がつくと、もう先には何もなかった。
「結局、てっぺんきてもうた」
振り返った陸が、目出し帽を脱いで笑った。
「うん」
朝の日差しが、まぶしく稜線を照らし出す。
白い世界に、今、二人だけしかいない。
「結婚する、俺」
「そっか」
「多分、伊織より先に、親父になるよ」
「おめでとう」
陸の目に迷いがない。
美紅は微笑して、その隣に立った。
もういい、そう思った。
陸はなんのために山に登るんだと思う?
何年も前に伊織に訊かれたことの答えを、今度は美紅自身が確かめることができたから。
「怖かった」
「あれくらいで」
陸の横顔が笑っている。
「死ぬかと思った、本気で思った」
だから本気で、生きたいと思った。
陸は、死ぬために登るんじゃない、生きるために登るんだ。確かな生の証を自分の身体に刻むために。
「伊織、なんて言ったの」
陸の手を取りながら、美紅は言った。
多分、来年の冬、陸が林檎を取りに戻ることはないだろう。
それでいい。もうそれでいいのだ。
「大雪山で、最後に伊織、なんて言ったの」
「言うたらあかんのやけど」
「大丈夫、絶対、伊織には言わないから」
「女の絶対ほど信用できんものはないからなぁ」
朝日が青白い世界を白く輝かせる。
陸は苦笑して天を仰いだ。
「めんどくさいかもしれんけど、俺の分までしっかり生きろ」
「…………」
「笑いながらそう言われた、伊織にはかなわんわ、俺」
「……そっか」
地上で見た影が、陸の横顔から消えている。
多分陸は、背負ったものを下ろすために、標高8,000メートルの高みを目指しているのだ。その重みが、時々陸をつぶしそうになる。でも陸は、こうして今日まで乗り越えてきた。
もう、心配することは何もない。
「来年は、絶対成功するよ、陸」
「なんでや」
「姉ちゃんのカンや」
「あてにならへんなぁ」
雪上に影を刻んだまま、二人はその場に立っていた。
地上にもどれば、それぞれの人生が待っている。
なのに、今は、この世界にたった二人。誰にも束縛されることない、絶対の自由がある。
「林檎……」
美紅は呟いた。
「え?」
「なんでもない」
外したのは陸だ。
そしてもう、二度と陸は射ることはない。
過ぎて行く、もどらない時間を、美紅は不思議なほど暖かな気持ちで見つめていた。
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