16




「どう?」
「うん、ええよ」
 ヒーターが効きすぎもなのかもしれない。
 美紅は、額の汗を拭った。
「姉ちゃんはええよ、俺一人でもできるんやし」
「ううん、暑いだけ」
 美紅は、首を振り、少し痩せた陸の腿に両手を当てた。
 滑落からの奇跡的な生還。
 エベレスト最大の難所、ヒラリーステップで落氷に巻き込まれ、ザイルで繋がれていた三人が滑落。誰もが絶望視する中で、陸1人が、自力でルートまでたどり着いた。それ自体が、奇跡のような生還だった。
 ありえない、山岳関係者の誰もが口をそろえて言ったし、それは世界的なニュースにもなった。日本の侍、驚異的な体力と精神力。神風吹く、など。
 英雄になった代償に失ったのは、壊死した両足指計五本、かろうじて残った下肢は、事故から一年近くたった今でも満足に動かず、リハビリとマッサージを欠かさずに続ける必要がある。
 それでも陸は、車椅子と補助杖を使い、林檎園の作業を一通りこなせるまでに回復した。室内では、補助杖なしでも、なんとか生活できるまでになっている。
 季節はまた、12月になった。
 悪夢と歓喜、そして現実。あれから一年過ぎたことが、まだ美紅には信じられない。
「そういえば、来月からは講演が始まるんだよね」
 美紅は、膝をついたまま、両腕に力をこめた。
 ベッドに横たわる陸の身体は、筋肉が落ちても、まだ手にあまるほど逞しい。わずかな作業で、美紅はいつも汗だらけになる。
「東京、大阪、九州……ついていきたいけど、本当に一人で大丈夫?」
「平気や、せいぜい稼げるうちに稼がんとな」
 陸は苦笑して、半身を起こした。
 精悍な顔に残る日焼けの後が、過酷な世界の残滓のように残っている。
 仲間を二名失ったことの陰りも、ようやく薄らいできたようだった。ただしそれは、陸の中に、悲しみという感情から形を変えて一生残っていくに違いない。伊織が指を失った時のように。
「そんなに無理しなくていいのに」
「何を」
「まだ足だって本調子じゃないんだし、ゆっくり休んでていいんだよ」
 陸が有名になったおかげで、著作の依頼、取材や講演会の依頼がひっきりなしに舞い込んで来る。元々フリーカメラマンだった陸の写真も、写真集として売り出されることになった。
 今の陸は、むしろ登山家だった頃より多忙になっている。美紅が心配になるほどに。
「ええ、そうせんと、借金のかたに取られそうや」
「農園のことなら」
 それは、中原さんと話合いで。
 言いかけた手を、上からそっと押さえられた。見上げた陸の目が笑っている。
「姉ちゃんを伊織に取られる」
「……ばか」
 曖昧に視線を逸らし、少しためらってから、身体を伸ばして、唇を重ねた。
「……陸……」
「ん……?」
 優しいキス。
 唇を離してから、額をあわせる。
 まだ、どこかぎこちなくて、互いの距離を探り合う口づけ。まだ美紅には、腕の中に陸がいることが信じられない。多分陸も、同じ戸惑いを感じている。ずっと姉弟だったのだ。そして表向きでは、今でも姉弟として振舞っている。
 陸の気持ちも、判るようで、時々ふと判らなくなる。
 いつも、柔らかなキスでとめる陸は、今日も、同じように、胸によりそう美紅の髪を優しく撫でた。
「足……早くよくなるといいね」
「ま、あせらんことや」
「うん」
 医者には、三年はリハビリが必要だといわれた。それでも、完全に元には戻らないだろうとも言われた。
 失うのは一瞬でも、戻すには長い時間がかかる。
 自分と陸の仲も、そうなのかもしれないと美紅は思う。足と同じで、長い時間をかけてつきあっていけばいい。
「姉ちゃん」
「ん?」
「結婚しよか」
「……?」
 顔をあげてみた陸の目は、やはり冗談でも言うように笑っていた。
「いつ」
「今」
「今?」
 さすがに言葉をなくしたきり、美紅は陸を見上げたまま、瞬きを繰り返した。
 なんで。
 どうしていきなり。
「今日、親父の墓参りにいってきた、病院の帰り」
「……お父さんの」
「もう許したろ、言われた。美紅くれゆうたら」
「…………」
 少し黙ってから、美紅は陸の胸に顔を預けた。
 伊織と同じで、陸もこういう時の順番が違ってる気がする。この夏、伊織は東京に転勤になった。伊織は……許してくれるだろうか。
 そんなことを思いながら、美紅は自然に微笑していた。
「お父さん、大阪弁なんかで返事しないよ」
「スピチュアルメッセージゆうやつや、俺の頭の中ではそう聞こえるんや」
「嘘っぽいなぁ」
「ほんまや」
「そんな嘘、口実にされても」
「ほんまや、毎年訊いとるけど、返事が聞こえたのは今年が初めてや」
「…………」
 陸の顔が近づいてきたので、ぼんやりしていた美紅は、少し慌てて目を閉じた。
 それでもまだ。今聞いた言葉が信じられないままでいた。
 それでも、まだ。
 腰に回された陸の手に力がこもる。
 唇を開いたキスは初めてだった。
「姉ちゃんのおかげで、俺、忍耐強さだけは鍛えられたな」
 陸の声は笑っているのに、美紅にはもうそんな余裕がない。熱に浮かされたように、ぼうっとしながら、唇が顎を這うのに身を任せる。
 陸が仰臥する。その身体の上に、支えられるように抱き上げられる。
「汗……かいてるし」
「ええよ」
 陸の手が、下から美紅の着ていたセーターをたくしあげる。
 美紅はとっさにお腹を押さえる。
「何」
「たるんでそうで、恥ずかしい」
「隠すとこ違うで、普通」
 さすがにあきれたように眉をあげた陸の両手が、胸を包み込んだ。
「夏の林檎みたいやな」
「…………」
 ひどい。
 そ、そりゃあ、人より少し小さいのは認めるけど。
「陸が、そんなにひどい奴だとは知らなかった」
「ひどいのは姉ちゃんや、男心を知らんにもほどがある」
「な、なんの話……」
 大きくて暖かい、乾いた手のひらが、無遠慮に力をこめる。
「やっと、俺のもんや」
 苦しさに息が途切れそうになりながら、美紅はこの時間が、永遠になればいいと思った。ずっと、このままでいたいと思った。


               17


 雪の音が聞こえる……。
 ふと、まどろみの中から美紅は引き戻されている。ストーブがしゅんしゅんと鳴いている。雪の音だと思ったのは、陸の胸の鼓動だった。
「起きた?」
「ん……」
 身体の向きを変えて、抱き寄せてくれる。見下ろされた目は、気恥かしくなるほど優しかった。
「そろそろ、お袋、帰ってくるんちゃうか」
「あっ、そうだね」
 美紅は時計を見上げ、さすがにどぎまぎして手早く衣服を掻き集める。
 それでも、未練のようなキスを何度も交わしてから、まだ熱を帯びた身体で寄り添いあった。
 もう、私だけのもの。私だけの陸――。
「美紅……」
 陸の唇が呟いた。
「え?」
「姉ちゃんやないで、林檎の名前や」
 美紅は瞬きをして、陸を見上げる。
 12月の紅い林檎。
「決めた、美紅や、来年には売れるように、絶対品種改良しよう、俺」
 それは、まぁ、いいんだけど。
「なんで、今、そういう話になるかな」
 美紅は少しふくれてみる。
 こういうロマンチックな約束を交わした後に、あまりに現実的すぎるような気がしないでもない。
「あほう、練習や」
「練習?」
「そうでもせんと、今さら名前でなんか呼べへんやんか」
「…………」
 怒ったように、少し頬を赤くする陸に、美紅は笑って唇を寄せた。
 ――大好き……。
「判った、姉ちゃんも協力する」
「だから、姉ちゃんゆうな」
 外は、静かに雪が降り続いている。













12月の紅い林檎(完)


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