9



 小雪がちらついている。
 山梨県、富士吉田口登山道。
 五合目までは車で入る予定だったが、雪のため四合目で足止めになり、結局そこから歩くことになった。
「本当に今日、二人で登るんですか」
 丁度降りてきたばかりなのだろう、黄色いヤッケを着た救助隊とおぼしき一団とすれ違う。二人をみとがめた一隊から、そんな非難めいた声があがったが、誰かが「伊勢谷陸さんですか」と気づき、それは、安堵のため息に変わった。
 聞けば、先夜登ったパーティの一人が怪我をして動けなくなり、早朝、救助隊が徒歩で救助に向かい、戻ってきたばかりだという。
「予報では昼ごろまでには雪はやむと思いますが、山頂あたりは風もきつい、これ以上吹雪くと、ヘリも飛べませんので、覚悟しておいてくださいよ」
 笑いながらそれだけ言われ、陸と美紅は、その一隊と別れた。
「どう?」
 美紅は聞いた。
 四合目の駐車場、車の中で、持参したスープと菓子パンで軽い朝食をとっている時から、陸はずっと無口だった。今はその目もサングラスで覆われ、目出し帽と、頭にはヘッドライト。表情はおろか、言葉も上手く聞き取れない。
「どう?登れそう?」
 いぶかしげに振り返っただけの陸に、美紅は声を大きくして聞いた。
 美紅も、陸と変わらない装備を身につけている。ウールのシャツにセーター、その上にオレンジのオーヴァーヤッケと、揃いのズボン。
 そして背にはアタックザック。陸のものがかなり大きく重量もありそうで、美紅のものは、その半分ほどしかない。
 足にはプラスティックブーツにロングスパッツ、手には手袋、その上にオーヴァーミトン。手足は一番凍傷になりやすい部位だ。だから防備は、陸が念入りにチェックしてくれた。中に雪でも入り込めば、それは簡単に凍傷になる。
「まぁ、いけるやろ」
 怒鳴るように、陸が言葉を返してくれる。
 美紅は、顔を上向けて山頂あたりに視線を馳せる。白い雲が舞い上がるように動き、頂付近がかすんで見える。
 吹雪いているのだ。風も強そうだった。夏に何度も登ったのに、今目の前にある富士は、それとは全く別の山に見えた。
―――本当にあの頂まで登るんだろうか……。
 雪山が垣間見せる獰猛さに、美紅は足がすくんでいる。
 それでも、陸は歩き出す。美紅は後を追うしかない。
 細かな雪がサングラスに切れ間無く当たる。それをミトンの指で拭いながらの、二人きりの行進。
 雪はすぐに深くなる。登山靴に装着したアイゼンで、山道をざくざくと、雪を踏みしめながら進んで行く。アイゼンとピッケル。これがなければ雪山は歩けない。
 深い雪はひざまで簡単に包みこみ、慣れないアイゼンのせいもあって、足はなかなか前に進んではくれなかった。
 雪は山道も岩も、全てを白く包み込んでいる。他に登りの人はいない。眩暈がするほど、一面の白。日はやがて昇り、藍色の視界をぎらぎらと白く輝かせる。その世界に、今、陸と美紅の二人しかいない。
 久須志神社付近にさしかかる。夏に登った時、このあたりには大勢の観光客がいて、むしろ煩いほどだった。今は店も全て閉ざされ、客の姿は一人もいない。
―――そっか、富士のシーズンは、せいぜい9月で終わるんだ。
雪道を踏みしめながら、美紅は一人で考える。
 二人の登山も、雪の壁に阻まれては、一人きりと変わらなかった。陸の背中は、ずっと同じ距離を保った先を歩いている。オレンジのヤッケだけが、美紅の目印であり、生命線だ。
―――途中で休む場所も……ないよね。
 シーズンオフ。夏にはいたる所にあった山小屋と呼ばれる休憩所は、今は全て扉が閉ざされている。
 五合目に、唯一開いている小屋があると聞いていたが、今日はそこも、閉店しているようだった。
 ほんと……孤独だな、冬の山って。
 ただ、黙々と歩くだけ、歩くことだけに集中する。
 今の美紅には、それだけで精一杯で、景色を見る余裕さえない。
 普通に歩くとアイゼンの爪が衣服にひっかかるので、がに股で歩かなければならない。ひっかかって足でももつらせたら、転倒する危険があるからだ。
 雪山の――しかも、傾斜での転倒は、死を意味するという。
 一昨年もこの富士で、一人のプロの登山家が滑落死している。千メートル以上滑り落ち、岩に激突して亡くなった。いくたの冬山を制覇した猛者でも、わずかな気の緩みで命を落とすことがある。それが、冬山なのだろう。
 それでも、この山はまだましだ、仮に死んでも、遺体は必ず回収してもらえる。これがエベレストだったら、世界最高峰の山だったら。
 ヘリさえ飛ばない死の世界、死体は決して回収されることはない、誰にも知られることなく、銀世界のなかに消えていくのだ――。
「姉ちゃん!」
 はっと気づくと、大声で名前を呼ばれている。
 慌てて顔をあげると、怒ったように肩を叩かれる。
「ぼんやりするな、十分休むぞ!」
「うん」
 陸がミトンで帽子の口元をさげるから、美紅も同じようにそうしていた。
 一時間進んで十分の休み。それが冬山の常識だが、もしかすると、陸はまだピッチをあげたいのかもしれない。
 ピッチをあげれば体力は消耗されるが、のろのろ行進もまた、氷点下に長時間さらされることで体力を消耗する。その見極めが肝心なのだ。
「まだ、七合目にも来てへんで」
 ゆるやかな岩場に背を預けて、陸が言った。
「わかってる」
「しんどいなら、もどろか」
「大丈夫」
「口、ふさいどき」
 陸が帽子で口元を塞ぐ。
「自分の息がこもって気分悪い」
「あかん、それせんと鼻毛まで凍るんや」
「本当に?」
「一度なったら判るけど、痛いで、マジで」
「よしとく」
 美紅も慌てて口元を覆う。
「なんで、冬山のぼろ思うたんや」
「陸がいつも登ってるから」
「あほう、俺は訓練じゃ、好きでのぼっとるんちゃう」
「目標はエベレスト?」
「随分遠回りしたけどな」
「それって、お父さんのせい?」
 それは聞こえなかったのか、答える気がなかったのか、陸はピッケルをついて体勢を戻した。
「いこか」
「うん」
 ごうっと強風が吹きぬけたのはその時だった。美紅はとっさに陸の腕を掴んでいる。陸もまた美紅を抱き寄せ、二人して傾斜姿勢をとり、風が頭上をすぎるのを待つ。
 わずかな時間だったが、美紅には、身も凍るほどの恐怖だった。この位置でこの風の強さなら、頂上付近はどうなのだろう。
 雪煙が舞っている。頂上はまだ吹雪いている。
 それでも陸は、風がやんだら歩き出す。美紅もまた、その後を追うしかない。
「楽に見えるけど、端の方は歩くなよ、クレバスが雪で隠れとったら一環の終わりや。トラバースで、中央を歩くんや」
「うん、わかってる」
 というより、美紅は陸の足跡を追っている。だから、危ない箇所は絶対に歩かない。
 逆に言えば――。
 陸の背を見ながら、美紅は思う。
 陸がもし、死ぬ気なら、美紅もここで死ぬしかない。
 命をまるごと、美紅は先を行く弟に預けているのだ――。
 それは、大雪山で遭難した、陸と伊織にも、おそらく言えた関係だ。
 伊織は登山には素人だった。陸だけが頼りだったし、実際全ての計画と準備は、陸一人がこなしていた。
 伊織は――なんて言っていたんだろう。陸はなんで危険な冬山に登るのか。そう聞かれたことがあった。私は答えられなくて、そしたら伊織はこう言ったんだ。「陸は、もしかして、死にたいんじゃないのか」。
 ああ、そうか。だから伊織は、陸についていったんだ。
 陸の明るさの陰にひそむ死の匂い、それに気づいていたのは、むしろ伊織の方だったんだ。
 雪をふみしめる音と、自分の息遣いしか聞こえない。
 一面の白。横殴りの粉雪。
 あれから二度休憩したから、もう四時間近く歩き続けている。重くけぶる灰色の空、雪はいまだやむ気配がない。
 疲れはピークを超え、美紅はひたすら、自己の内面との対話を続ける。
 不思議だった。どうしても解けなかったものが、この世界では見えてくる。
 陸はいつから、死ぬことを考えていたんだろう。
 あれはいつだったろう。お父さんが死んで、ばあちゃんの家に預けられて……陸がまだ中学になったばかりの頃。
 陸は、泣いていたんだ、わんわんと、子供みたいな大声をあげて。
 その前に、怖い顔をしたばあちゃんが立っていた。
「男ならぐずぐず言うな!」
「自分でしでかしたことの責任は、自分で取るんだよ、陸!」
 陸はただ泣くだけだった。えづいてしゃくりあげながら、背中を丸めて泣いていた。
 私は――ショックだった。
 陸が泣くのを見たのは、あれが本当に初めてだったから。
 どんな時でも、なにがあっても、陸はにこにこと笑っていて、この子はちょっと鈍いんじゃないかな、そんな風に思ったことあったから。
 それでも翌日、陸は林檎みたいな目で笑いながら「姉ちゃん」と言った。昨日のことなんて何もなかった風に「姉ちゃん、雪合戦しようや」と言って笑ったのだ……。
 傾斜が急になっていく。吐く息だけがごうごうと響く。本当にこんな吹雪の中、上まで登れるものだろうか。美紅はよろけそうな体勢をピッケルを頼りに立て直す。
 これでようやく七合目だ。正直、ここまで苦しいものだとは思っても見なかった。
 きつい、辛い、しゃがみこんで、もう歩けないと音を上げたい。
 けれど、陸は、決して助けてはくれないだろう。この標高で、この悪天候で、ずっしりと重い荷を背負ったまま、動けなくなった成人女性を1人で運ぶことなどできるはずもないからだ。
 足を止めた陸が、雪の中から重たげな鎖をひきずりだす。鎖は頭上、急傾斜になった岩場の上、雪に埋もれた建物辺りから延びている。
 ここからは、この鎖を頼りに、岩壁を登っていかなければならないのだ。
「こっからが、難所やで」
 振り返った陸が、怒鳴るように言った。
「傾斜が急やから、滑ったらアウトや、この雪やし、よう見つけられんかもしれん」
「わかってる!」
 陸はどうして、私を連れてきてくれたのだろう。
 美紅は、そう思いながら、鎖を両手でしっかりと掴む。
 美紅が先に行き、今度は背後を陸が追う形になる。
 晴天ならまだしも、こんな悪天候に、何故。天気図を読みなれた陸が、今日の天候を予測できなかったはずがない。
 多分、随分予定より遅れている。美紅の足は、雪の厚みと疲労に阻まれ、普段の半分も動かない。このままだと、頂上にたどり着く前に、タイムリミットの二時がくる。
 足手まといどころか、危険な状況に陥ると判っているのに、何故――。
 陸には、まだ死の影がつきまとっている。やめたほうがいいね、週末の富士も、来年のエベレストも、
 千代の声が、まるで呪文のように耳元で繰り返される。
 もし、陸が死ぬ気だったら。
 最初からそのつもりだったとしたら。
 背後に迫る陸の息を感じながら、美紅は全身が凍りつくような気持ちになった。
 残酷なようだけど、美紅にだけは言っておくよ。
 陸1人の責任でもないし、どうにかできるもんでもないからね。
 あの日、陸はね――
 強い風。
 鎖を掴み損ねた手が、空に浮いた。
 あっという間もなく、バランスが崩れ、身体ごと空に浮く。
 眩暈と恐怖を感じた瞬間、衝撃が背中で弾ける。
 後を行く陸と激突したのだと判った時には、二人してもつれあうように雪の斜面に落下していた。
「姉ちゃん!」
 背後から腕が首に回される。ものすごいスピードで周囲の景色が流れて行く。抱きかえようとあがく陸と、その腕にしがみつく美紅。悲鳴さえも凍りつく世界。
 何度か雪上で身体の向きが変わるのが判った。獰猛なスピード、めまぐるしく変わる視界、自分の力ではどうにもならない。怖い、死――確実な死の予感。
 いや、美紅は必死で陸の身体にしがみつく。いや、死にたくない。こんなところで死にたくない。
 気がつくと、荒い息を吐く陸の顔が目の前にあった。
 どうやって止まったのだろう。折り重なった身体、片手で美紅を抱えたまま、陸のもう片方の手にはピッケル、それが、雪面深く差し込まれている。
「大丈夫か!」
―――陸……
 サングラスがなくなった目が、焦燥をたたえて見下ろしている。
 美紅は震えながら、再度その身体にしがみつき、陸もまた両腕を回して抱きしめてくれた。
 怖い。
 本当に――死ぬかと思った。
 大きな身体に包まれて、ようやく生の安堵を取り戻す。陸の手が、美紅の頭を抱き寄せて、撫でる。
「怪我は」
「大丈夫」
 どこも痛くない、大丈夫。美紅は、そう自分に言い聞かせる。実際は、感覚自体、何も判らないほど麻痺している。
「怪我してたら、救助呼ぶで」
「本当に大丈夫」
 体勢をたてなおした陸が、美紅の手足を掴んで怪我の有無を確かめる。本当に、不思議なほど、痛みはどこにも感じられなかった。
「この程度の山で救助読んだら、伊勢谷陸の恥になるわよ」
「ええよ、そんなの」
 陸の目元が笑ったので、美紅もようやく笑みを漏らす。
 しかし、立ち上がった陸は、少し難しい目で周辺を見回した。
 時計を見て、コンパスを見ている。降りしきる粉雪でみづらいのか、ミトンで何度も表面をぬぐっては確認している。
 もしかして、位置がわからなくなったんだろうか。
 美紅も不安になって、周りを見回す。はるか地上は濃い霧でにじみ、空と陸の境界線がなくなっている。
「そんなには、落ちてないんやけど」
 陸は首をかしげ、コンパスをヤッケのポケットに収めた。
 その声に、思いのほか余裕があるので、美紅は少しほっとする。
「もしかして、遭難?」
「ちゃうけど、少し様子みた方が無難かもしれん」
「様子?」
「視界がよくなるまで待った方がええっちゅうことや」
「雪がやむまでってこと?」
 もしかして、ここでビバークすることになるのだろうか。
 それには、美紅はさすがに怖さを感じて陸を見上げた。
 凍死、遭難死、様々な不吉な言葉がよぎっては消える。
 が、陸は、不思議なほどあっけらかんと頷いた。
「視界さえよければ、元のルートに戻るのは簡単や。でも今、下手に動いてワイデリングにでもなったら、俺はよくても姉ちゃんがやばい」
「……どういう意味?」
「俺の半分も体力ないやん」
 笑いを含んだ声で言い、陸が斜面を登りだす。
 ワイデリングとは、リングワイデリングのことだろう。視界がきかない状況で、同じ場所をぐるぐると回る状態に陥ったことを指す。
「ま、たいしたことやあらへんよ、帰るのが明日の朝になるっちゅうだけや」
「…………」
 不安で黙る美紅の背を、陸は笑いながら軽く叩いた。
「心配せんでも、この程度の山で遭難なんかせぇへんよ」
「……うん」
「したら大笑いや、登山家返上してもまだ足りんで」
 美紅は思わず陸の横顔を見上げている。
 地上で見えた陰りが、今はきれいに消えている。
 それは、不思議なほど、屈託のない笑い方に見えた。



                    10



 突風と雪崩の危険を避けた、岩陰を選んでのビバークとなった。
 小さな簡易テント。重たげなピニルが風でひっきりなしに震えている。時折轟音と共に風が突き上げ、テントの根底ごと激しく揺らす。その度に美紅はびくっとするが、陸は鼻歌まじりで、雪を溶かして湯を沸かしていた。
「怖くないの?」
「何が?」
 手渡された銀製のカップ。
 そっと唇をつけると、それは紅茶だった。
「甘……」
 そして、暖かい。
 陸はコッフェルについた水蒸気を丹念にスポンジで拭っている。テントにわずかでも水分を入れないためだ。氷点下十七度。微量な水も、残ってしまえばやがて確実に氷になる。
 今何時だろう、外はもう真っ暗だ。ランプだけが頼りのテントの中、スニッカーズと板チョコレート、それから即席スープで食事を取った。
「寒い……」
「人肌で温めあおか」
「ばか」
 陸はほぼ一時間おきに外に出ては、テントに積もった雪を払う。そうしないとテントが雪の重みでつぶれてしまうからだ。それはひどく重労働に思えたが、陸は平然と出て行き、そしてなんでもない顔で戻ってきた。
「姉ちゃんは早よ寝ぇ」
「寝たら死にそう」
「あほか」
 美紅は、陸の用意してくれたシェラフに包まっている。防寒は十分なはずなのに、それでも身体の芯が冷えたまま、どうしてもおさまらないような気がした。
「寒い……」
「そら、氷点下やからな」
 なんでもないように陸は言って、自身も同じようにシェラフにくるまる。
 耳にイヤフォン。多分、ラジオをずっと聴いている。
「なんか喋って」
「ええ?」
「喋ってないと、寝そう」
「だから、寝ぇよ」
「だって」
「あのなぁ」
 面倒そうに言って、陸はシェラフごと身体の向きを変えた。テント内は、二人が横たわるのがやっとの広さ。向かい合うと顔と顔の距離が、息が触れ合うほど近くなる。
 ポールにさげた照明だけが、オレンジ色の淡い光を投げかけている。
 テントの中でも吐く息は白い。帽子を頭からすっぽりかぶり、互いの唇と目しか見えない。陸の唇が乾いている。痛そうだな、そんなことを、美紅は意味もなく考えている。
「雪山で寝たら死ぬゆうのは俗説や、身体あっためて甘いもん食って、しっかり寝る。それが体力回復の基本やろが」
「でもさ、寝るなーーっ、寝たら死ぬぞーってよく言ってるじゃない、ドラマでもドキュメンタリーでも」
「…………」
 少し考えて、陸の目が天井を見上げた。
 また雪が降り出したのか、テントの屋根がたわんでいる。
「ま、死ぬ時は、死ぬけどな」
「ど、どっちよ、それ」
「あほう、それは極限や、今のんきにくっちゃべってる姉ちゃんが、寝たくらいで死ぬかいな」
「そんなの、寝てみなきゃわかんないじゃない」
「死ぬ前ゆうのは、そんなもんやないで」
 かすかに笑った陸の目に、ふと暗い陰りが滲んだ。
「とにかく寒くてな、震えがとまらんようになる。脈拍も呼吸もあがって、それから下がる。肌が紫色になって、筋肉が痙攣する、そん頃からやな、とにかく、猛烈に眠くなる」
「…………」
「幻覚とか、幻聴とか、ありえへんものを見るようになる。さっぶいのに服脱ぎだしたり、まぁ、もう頭のどっかがいかれとるんやな。そのあたりから本格的にやばくなる。寝たら死ぬゆうレベルは、そのへんや」
 淡々と語る陸には、その非日常が日常なのだろうか。
「陸は、そうなったこと、あるの」
「何度もな」
「…………」
「そん時はわからへんけどな、後になって、ああ、あれはやばかったと思うことは何度もある。気がついたら雪の上で立ったまま寝てて、ぶんなぐられたこともある」
 どうして。
 なのにどうして、陸はそれでも、その非日常の世界を目指すのだろうか。
 それきり、陸は無言になる。横顔が目を閉じている。美紅は再び不安になる。
「本当に寝ても、大丈夫なの」
「…………」
「なんか、……なかなか身体が温まらないんだけど」
 震えるほどではないけれど、それでも、寒い。この雪に閉ざされた異世界で、もしこのまま、目が覚めなかったら――。
「ええこと教えたろか」
 目を閉じたまま、陸が呟いた。
「人間ゆうのはな、寝てても、いっぺんは起きるもんなんや、凍死する前に」
「…………」
「死ぬ前に寒くて目が覚めるんや、だから大丈夫や」
「…………」
 美紅は無言で、ライトで揺れる陸の横顔を見つめる。
 陸は多分、何人も。
 そうして逝った仲間を見送ってきたのだろう、きっと。
 陸がものも言わずに起き上がる。ジッパーを下げてシェラフを出る。また雪を下ろしに行くのだ。雪がやまなければどうなるんだろう。もともと日帰りの予定だった。テントもシェラフも簡易なものだし、食料もそんなにはないはずだ。明日も、明後日も、このまま雪に閉ざされて、下山することができなくなったら。
 いってみれば、今、天然の冷凍庫の中に、陸と美紅は閉じ込められている。命を奪おうと襲い掛かってくる冷気に、体力とささやかな防寒具で対抗しているだけだ。
「うー、寒」
 呟いた陸が、上着を脱いで再びシェラフにもぐりこむ。狭いテント内が大きな陸の影で覆われる、淡い照明に、帽子があたって一時翳る。
「寒い……?」
「当たり前や」
 陸はぶるっと肩を震わせて、口元までシェラフのジッパーを引き上げる。
 もし、ここで陸が死んだら。
 美紅は急に、1人きりのような心細さを感じた。
 もし、この雪に閉ざされた世界で、私1人が取り残されてしまったら。
 死にたいと思う気持ちがわずかでもあれば、死は簡単に、その隙間から滑り込んでくる。神様に一番近い場所だからね、すきあれば人の魂を、もっていこうとするのが山なんだよ。
「……陸」
「なんや」
「そっち、入っていい?」
「はぁ?」
 暗闇の中、目と目があう。
 すがめられた綺麗な目に、天井の照明の灯りが揺らいでいた。








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