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「陸なら、ついさっき帰ったよ」
 気落ちしながら、けれどそれを表情には出さず、「そうなんだ」と美紅は答え、抱えていたダンボールを縁側に下ろした。
 裏の墓標に花が添えてあったから、陸は絶対に来ていると思ったのに。
 実家の農園から数キロ派離れた郊外、ここに父方の祖母の家がある。
「ごめんね、ばぁちゃん、今年は遅くなって」
「いいよ、いつもありがとう」
 強い地元なまりのイントネーション。祖母である船場千代は、さっぱりとしたこだわりのない気質の女で、この地方で生まれ、このまま死んでいくことを、当たり前のように考えている根っからの地元民である。
 草引きの最中だったのか、タオルを肩にぶらさげた小柄な老女は、えいさ、と掛け声をかけ、縁側に腰を下ろし日よけ用の帽子を取った。
「おうおう、今年もいいできだねぇ」
 老いた肌から、泥と草の匂いがする。千代は林檎をひとつ取ると、それを日にかざし、子供のように破顔した。
「陸、いつきたの」
 その隣に腰掛けて、やはり林檎をひとつ取り上げながら、美紅は訊いた。
「夕べ急にさ、いつものように、何も言わずに泊まっていきやがった」
「今日、どこへ行くって言ってた?」
「知るもんか、陸は気ままな野良犬だから」
「……そう」
 陸のバカ。
 美紅は心細さと怒りを同時に覚え、唇を軽くかむ。
 大阪で仕事をしている陸は、いつも、この時期、たった数日しか地元にいないのに、どうして家に戻ってこないんだろう。
「富士に行くんだって?」
 が、千代は、思いがけないことを口にした。
「陸が言った?」
「ああ、お前と二人で行くんだって言ってたよ」
「そのつもりだったけど、陸がいないから準備もできない」
「その指輪は、伊織からもらったのかい」
 林檎を再びダンボールに収めながら、いきなり千代。
「え、ああ…」
 少し慌てて、美紅は、左手を背後に隠した。 
 この質問は、三日前から色んな所でされている。
「高価なものだし、恥ずかしいんだけど、どうにも外せなくって」
「ふぅん」
 さほど興味がなさげに頷くと、千代はタオルで、首のあたりを何度かこすった。
「美紅は、陸の女房になるんだと思ってたけどねぇ、あたしゃ」
「な、なにいってんの、姉弟だよ、あたしたち」
「そうだったかね」
「そうです、ばあちゃん、ついに頭にきたんじゃないでしょうね」
「………週末の富士は、少しばかり荒れるかもしれないねぇ」
 美紅の言葉を聞き流すように、しわがれた声で千代は続けた。
「天気予報じゃないよ、あたしの第六感は、そんなものより確かだからね。高士が死んだ時もそうだったさ、陸と伊織が北海道で雪山に上るって聞いた時もそうだった」
「縁起でもないこと、言わないでよ」
 冗談めかして美紅はたしなめる。この千代のもとで、陸と美紅は小学校から高校の途中までを過ごしている。二人にとっては、祖母ではあるが、第二の母親のような存在。
 が、千代はいつになく沈んだ目で、首を横に振るだけだった。
「陸は、なんのために、登るんだと思う」
「なんのため……?」
「あの子はずっと、自分の死に場所を探してるのさ、大雪山では、それに失敗して、あろうことか親友の伊織を殺しかけた。あたしゃ、その時、陸についた憑き物を、伊織が落としてくれたんだとばかり思っていたけど」
「…………」
「よく判った、陸には、まだ死の影がつきまとっている。やめたほうがいいね、週末の富士も、来年のエベレストも」
「ばあちゃん」
 美紅は、陸の、楽しそうに笑う顔を思い出す。陽気で能天気、それがいつも表に出る陸の顔だ。どんな時にも、陸は笑顔を絶やさない。逆にそれに、痛々しささえ覚えるほど。
「山はそんなに甘くないよ。死にたいと思う気持ちがわずかでもあれば、死は簡単に、その隙間から滑り込んでくる。神様に一番近い場所だからね、すきあれば人の魂を、もっていこうとするのが山なんだよ」



                 8



「あれ、そういや、さっきまでいたんだがな」
 不思議そうに首をめぐらす顧問教師の声に、美紅は、またか……と思って肩を下げた。
 捕まえたと思ったら、また行き違い。
 もしかすると、ここに立ち寄ったかもしれないと思って来てみたのに。
 小さな道場。弓道専用の練習場だ。数メートル離れた的をめがけ、稽古着姿の生徒が数人、真剣な面持ちで弓つるを引き絞っている。
 千代の家から百メートルも離れていない場所にある、公立高校。
 ここで、美紅も、伊織も、そして陸も、今の生徒たちと同じように、必死で矢を射ていたのである。今からもう、十年以上も前のこと。なのに不思議なほど、ここの光景は昔と変わらない。
「陸はふらっときては、何も言わずに帰るからな」
 若い頃、国体で優勝したという、弓道部顧問の韮崎誠。定年も近いはずで、もうかなりの老域に入っているが、その厳しい眼差しは美紅が現役だった頃とまるで変わっていなかった。
「すいません、礼儀のなってない奴で」
「陸は昔から変わっていた、元々弓など性にあってなかったんだろう」
 そこで、的を外した生徒に渇を入れ、韮崎は、灰色になった眉をひそめて腕を組んだ。
「一番下手なくせに、土壇場になると一度も外さないのが陸だった。おかしな奴だ、上手いのか下手なのか、最後まで見極めがつかなかった」
「…………」
 頭の上に、
 林檎の実が乗っている。
「今年の出来はどうですか」
「上々だ、今年も全国を狙えるだろう」
「外したのは、陸の年だけですか」
「仕方ない、不慮の事故だ」
 主将でエースだった伊織と、下手だと酷評されつつも副主将をしていた陸。二人が三年に進級する前の春休み、無謀にも二人きりで挑んだ大雪山で遭難した。
 一人下山した陸と、山に取り残され、翌朝ヘリで救出された伊織。
 陸は無傷だったが弓道部を自主退部し、伊織は永久に弓を引くことができなくなった。
「あの時は、先生だけが陸を庇ってくださいましたね」
「陸が伊織を妬んでいたというなら、それはあり得ないという話をしただけだ、才能は陸が上で、伊織はむしろ、努力でそれを補ったにすぎない」
「…………」
 陸の心が弓道から離れ、雪山に惹きつけられていたのは、美紅だけでなく、当時親しかった者なら誰もが知っていた。あの頃、陸は一人で、プロでも難しいとされる冬の北穂高、日高などを制覇している。
 陸が計画し、おそらく一人で挑むはずだった冬の大雪山。どうして伊織が同行することになったのか、今でも美紅には判らないし、陸も伊織も絶対に語らない。
 陸についていったばかりに、国体出場どころか、高校三年をまるまる休学せざるを得なくなった伊織。
 あたしゃ、その時、陸についた憑き物を、伊織が落としてくれたんだとばかり思っていたけど―― 
「よし、集合、今からミーティングだ」
 韮崎の声が、美紅を現実へと引き戻す。
「陸のバカに伝えておけ」
 最後に、韮崎が振り返る。
「弓の真剣勝負に、二矢などない。お前はもう三度挑戦している。四度目など絶対にないと思え」
「……わかりました」
 陸はなんで登るんだと思う。
 考えたこともないし、考えたくもなかった。
 陸が背負っているものの重さは、美紅が一番よく知っている。
 それでも陸は帰ってくる。毎年必ず、林檎を取りに帰ってくる。美紅には、そう信じるしかない。
 きびすを返そうとして気がついた。黒い的の下に拾い忘れた矢が一本残っている。
 韮崎の厳しさを知っている美紅は、苦笑しつつ、芝に足を踏み入れた。
 背後で弓を引き絞る音がした。
 美紅は振り返る。そして、動きを止めていた。
 暗い、炎を宿した野生の眼差し。
 あの時と同じ、捉えられ、射すくめられる。
 放たれた矢が空を裂く。
 それは――
「すごい」
「わお、まぐれでも当たるもんやな」
 一転して破顔した陸が、弓を置いて歩み寄ってきた。
 フリースのシャツにジーンズ姿。太陽の下だと明るい髪色。こんないかつい男が高校生の中に紛れ込んでいたのに、どうしてすぐに見つけられなかったのだろう。
「韮崎先生に見つかったら、やばいなんてもんじゃないわよ」
 美紅は安堵の笑みを浮かべたまま、先に立って的の方に向かった。
 やっと見つけた――。
 矢は、的板を見事に貫いている。一ミリのずれもない、満点の技。
 どうして、何年も実技から離れていて、こんな技ができるのか、美紅には不思議でならない。が、陸とは昔からそんなところがあって、初めて弓を持った時でも、フォームはめちゃくちゃなのに、矢は殆ど的の中心を貫いていた。
 上手いのか下手なのかわからない。確かに韮崎の言うとおりだ、ひどく簡単なところではあっさりと外すくせに、強烈なプレッシャー下では、陸は絶対に外さない。
 あの時は、外した。
「……陸」
 美紅は、引き抜いた矢を持って、まだ芝の半ばにいる陸を振り返った。
「もう一度、できる?」
「え?」
 上着のポケットから、千代の家からひとつだけ持ってきた林檎の実を取り出した。
 手のひらのそれを、美紅は無言で日差しにかざす。
 あの時と同じ、シチュエーション。
 笑っていた陸の目が、暗く翳る。
「冗談だよ」
 美紅は笑って、それを弟に向かって放り投げた。
 元の笑顔に戻った陸は、それを空中で受け止め、服でこすってから一口齧る。
「今までどこにいたの」
「週末の買い物してから、ばあちゃんとこに寄って来た」
「今夜はどうするの」
「ちょい、スポンサーともめててな、今夜には一度東京に戻るねん、俺」
「大阪の用は済んだの」
「……うん、済んだ」
 その口調から、いまだ陸が、何かの問題を引きずっているのだと、美紅は察した。
「……探した、急にいなくなるから」
「ごめん」
「富士はどうするの」
「行く、姉ちゃんはどうする」
「陸が行くなら、行く」
「さよか」
 その会話だけで、美紅は不思議と落ち着いていた。
 いつの間にか、はるか頭上になった横顔。
 中学の頃は、まだここまで差はなかった。陸はまるで、犬ころみたいに可愛くて、どこに行くにも美紅の後をついてくるような幼さがあった。
 よく笑って、感情の表現全てが笑顔みたいで、転んで怪我しても笑っているような子供だった。
 その陸の、別の顔を見た
 あれは――高校に入って二度目の夏休み。
 夏合宿のその日、昼食をすませた美紅は、デザートの林檎ひとつを手にして、弓道場に出た。一人だけ、陸が一心に矢を射ていた。もろ肌脱ぎの半裸で、下に袴だけをつけている。美紅は照りつける日ざしの暑さも、鼻筋を伝う汗も忘れ、ただ見惚れた。
 男の姿がこうも美しいものだとは思ってもみなかった。汗と熱気で薄く色づいた肌、たくましい肩の隆起と、厚くなった胸板。黒く濡れた前髪からのぞく、研ぎ澄まされた眼差しと、硬く引き結ばれた唇。陸はもう男だった。いつの間にか、手をつないで可愛がっていた弟ではなくなっていた。
 あの日の陸には、一体何が憑いていたのだろう、射る矢は全てあやまたず的をうがち、見ていて恐ろしくなるほどだった。
 全て射た後、動かない陸に代わって、美紅は的に刺さった矢を回収しに降りた。
 練習時間外の射的は禁止されている。見つかれば、強烈な懲罰が待っている。
 背後で弓のつるを引き絞る音がした。美紅は振り返る。
 標的はなんだろう。
 暗い目が見つめている。暗くて怖い、初めてみるような陸の眼差し――。
「指輪、もろうたんか」
 陸の声が、美紅を現実に引き戻した。
 校内の駐車場に、美紅は店のバンをとめている、
「あ、うん、すごいでしょ、別にみせびらかすつもりはないんだけど」
「ええけど、山には持ってくなよ」
「わかってるんだけど、これ、マジで抜けないの、家でも色々やってみたんだけど」
 きつい指輪は、血流をとめ、凍傷への引き金になる。そこは美紅もわかっていて、思案していた所だった。
「ふうん」
 美紅が運転席に乗り込むと、陸が助手席に乗り込んできた。
「かしてみ」
「指?」
「うん」
 少し寒さで冷えた指を、陸の大きな手に預ける。
 乾いた指先は、先端がささくれていて暖かかった。
「関節やな」
「言わないで、みんなに男指って言われてへこんでるんだから」
「ちょっと我慢してみ」
「やだ」
 即座に指を引いている。が、それはすぐに陸に捕らえられた。
「なんでや」
「何度もやられたけど、痛いだけで全然抜けないし」
「大丈夫や」
「やだ、痛い」
「大丈夫や」
 嫌がる美紅の指を掴んだまま、陸は空いた手をポケットにつっこむ。でてきたのは、小さくて薄い、円形の缶ケース。
「グロス……?」
「唇がどうしても渇くさかい、いつも持ち歩いとんねん」
 太い指がクリーム状のグロスをすくい上げ、美紅の薬指の関節周りに丁寧に塗りつけられる。
「くすぐったい……」
「力抜いて」
「……怖い」
「なんや、こんなことで、あほらし」
 陸の声があきれている。
 それでも掴まれた指に力がこめられた時、美紅は本当に怖さを感じた。
 眉に力を入れ、しばし、痛みにじっと耐える。
「……こら、マジやな」
「だから言ったじゃない、もういい、もうやめて」
「あと少しやから」
「いたいーーーーっ」
「あほう、女がぐずぐず言うな!」
 何度も外そうとトライした関節は、もう隆起部が赤く腫れていて、ますますそれが痛み、泣きたくなる。
 しかし、さすがの陸も、最後の一押しだけは躊躇しているようだった。多分、確実に隆起部分の皮が破れる。
「伊織のやつ、これ、どうやって入れたんや」
「伊織もひどいけど、あんたはもっとひどい」
「あいつ、わかっててやりおったな」
「え?」
「もうええ、こうなったら、一気にいくで」
「ええ??」
 あっと、悲鳴をあげるまでもなかった。激痛が指の中ほどを裂く、あまりの痛さに、逃げようと美紅はもがいた。
 渾身の力をこめた、陸の身体がのしかかってくる。美紅は身体を半分シートに倒すようにして、上になった弟の顔を見上げた。
「いたい……」
「抜けたで」
「…………」
 涙が、少しだけまなじりを濡らした。
 息遣いまで判る距離、陸の指が、目元を不器用に払ってくれた。
「ごめん」
「許さん」
「……ごめん」
「もういい、結婚式までに、伊織に直してもらうから」
「…………」
「…………」
 沈黙も、陸の目も怖かった。
 なのに、陸もまた、何かを怖がってるように見えた。
「……買い物リスト、これ」
 美紅の手に、指輪と一緒に紙切れが手渡される。
 元通り助手席に座りなおした陸は、伸びた前髪を指で払った。
「あとのもんは俺が用意しとくから、姉ちゃんはこれだけもって、土曜の朝、五時までに、富士の河口湖登山道の下まで、来られるか」
「大丈夫、車で行くから」
「そこで、まっとるから」
「うん」
「頂上まで、行けるかどうかは姉ちゃんしだいやで、二時には下山するからな、冬山の天候は変わるときは一気に変わるさかいに」
「わかってる」
「ほな」
「うん」
 それでもしばらく陸は黙っていて、美紅もそのまま座っていた。
「伊織に、悪かったゆうて、伝えとって」
 それが、指輪を無理に引き抜いたことを言っているのか、先日の飲みの席で喧嘩したことを言っているのか判らない。
 扉が閉まる。1人になった美紅は、寂しくなった指に滲む血に、そっと唇をあてた。








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