4



「よう」
 笑い声が聞こえたので、まさかとは思った。
「伊織?どうしたの、こんな時間に」
 着替えの入ったバックを下ろしながら、美紅は眉をあげていた。
 市内にある公立総合病院、その一般病棟。
 六人部屋だが、母の病床は出入り口のすぐそばだ。
 丁度、夕飯時なのか、各床を覆うカーテンは閉まり、それが開いているのは母、佐和子のベッドだけだった。
「さっきまで、陸が来てたよ」
 伊織は笑いの余韻を目に滲ませたまま、美紅をみあげた。
「行き違いだな、もう少しまってりゃよかったのに」
「伊織は、どうしたのよ」
「仕事のついでに寄ったんだ、この時間なら、そろそろ美紅が来ると思ってた」
 中原伊織。
 上品なグレーのスーツにシルバーのネクタイ。大手新聞社の地元支局、その政治部の記者である伊織は、衆議院選挙を控え、今は寝る間もないほど忙しいはずだ。
 なのに、伊織は普段と同じ、落ち着き払った涼しげな眼で椅子に座り、父親そっくりの柔和な笑みを浮かべていた。
 どんなに日焼けしてもワンシーズンで元に戻る白皙の肌は、理知的で、うらやましくなるほどきめ細かい。手首に巻かれた腕時計は、去年のクリスマスに美紅がプレゼントしたものだ。
「用があるなら、家に来てくれたらいいのに」
「取材ついでにドールハウスまでいったから、おばさんの好きなケーキを買ってきた」
 ひょい、と伊織が上げる手には、白いケーキの箱。
「本当にいつもありがとう、伊織君」
 ベッドに半身を起こした母、佐和子が、控えめに口を挟んだ。
 半年前に入院してから、めっきり頬の肉が落ちた母は、化粧をする機会もないせいか、何歳もふけてみえる。いつものことだが、母親の老いを目の前にすると、美紅は心細く寂しくなる。
 実際、この半年の入院は、見た目だけでなく精神的にも、母から若さの残滓全て奪ってしまったようだった。
 もう、力仕事は無理でしょう。
 それは医師に宣告されるまでもなく、美紅自身が心に決めていることだ。
 もう二度と、母に無理をさせてはいけない。
「いえいえ、ケーキ食って、元のふっくら美人の佐和子さんに戻ってください」
 笑いながら、伊織。
 それには、母も、わずかだが華やいだ笑みをもらした。
 若い頃は、地元の催しで、ミス林檎娘という栄冠を受けたこともある母である。
 笑うと美貌の片鱗が目元によぎり、美紅は意味もなく誇らしくなった。
 母は、控えめな笑みを浮かべたまま、並ぶ二人を交互に見上げた。
「美紅は、年増の行き遅れだけど、伊織君がもらってくれることになって本当によかったわ」
「そんな、僕の方こそ、無理をいってしまって」
「伊織君、娘をよろしくお願いしますね」
 頭を下げられ、それには、さすがの伊織も、少しばかり慌てている。
 美紅は嘆息して、母の膝を軽く叩いた。
「もう、来週には退院するって人が、そんな陰気なこと言わないで」
「だって、お前、こうなるともう、先のことが心配でならないのよ」
 佐和子はやせた手で胸のあたりを押さえ、わずかな吐息を唇から漏らした。
「陸は、また山に行ってしまうし、……美紅たちの結婚式には戻ると言っていたけど、日程は本当にぎりぎりだし、どうなることやら」
「陸が戻るというなら、戻りますよ」
 優しい声で、伊織。
 佐和子はあきらめたように首を左右に振る。
「とめても、陸は聞かないのよ。あれは父親に似て、思い込んだら手におえないの、何を言っても聞く耳を持たないんだから」
「陸は、僕らの……いや、地元の英雄ですよ、実際すごいし、誰にでも出来ることじゃないですよ」
 椅子から身を乗り出した、伊織の口調に熱がこもった。
「モンブラン、キリマンジャロ、コジアスコ、アコンカグリア、マッキンリー、マッシーフ、エルブルース、世界六大陸の最高峰の殆どを、二十代前半で登りきった。本当にね、誰にでも出来ることじゃないんです」
「それで何が残ったのかしらね、今、あの子にあるのは借金だけよ」
 淡々と母は、わが子の偉業を否定する。
 遠征に出るための莫大な費用と準備、そしてトレーニング。陸は高校を出てからの六年、仕事で得た金の全てを山につぎこみ、かけずりまわってスポンサーを探し、借金までしてその栄光を掴んだのだった。
 それが、あとひとつ、エベレストを残すだけになって頓挫している。
 一時は山岳界のヒーローとして持ち上げられた陸も、今は若手にその座を奪われ、すっかり過去の人である。1999年に野口健が成し遂げた六大陸制覇の最年少記録は次々と塗り替えられ、毎年、何人もの日本人が、陸がいまだ頂点を見ない世界最高峰の頂を踏んでいる。
 今や伊勢谷陸は、山岳好きな人なら、多少は名を知っているだけの一登山家にすぎない。
 実際、母の言うとおり、ある意味それは、何ものこらない記録なのかもしれなかった。
 母は疲れたようにベッドに仰臥しながら、目を伏せた。
「陸は父親のあだ討ちでもしようというのかしら、やっぱり血のつながった親子なのね、あの子が山登りを始めるなんて、思ってもみなかったのに」
 美紅と伊織は、無言で目を見合わせる。
 美紅の父であり、佐和子の夫でもあった伊勢谷高士は、伊織が所属している新聞社の元報道カメラマン。山岳写真家としても、名を馳せた男だった。
 それが、今から十五年前、エベレストをネパール側から登頂する途中、標高8350付近、サウスコルから山頂に向かう途中で消息を絶った。遺体はいまだ見つかっていない。
 家業の林檎園と仕事の合間、日本各地の冬山を登り続けた名もなき登山家が、ようやくたどり着いた頂点への挑戦だった。死因も原因も、標高8000メートル上空の世界に閉ざされたまま、おそらく永遠に地上には伝わってこないだろう。
「何も、高士さんの血が、陸をかりたてているんじゃありませんよ」
「そうよ、同じ血を引いていても、私は山になんか登ろうとは思わないもの」
 伊織の言葉を遮るように、美紅は口を挟んだ。
「陸には、冒険家のお父さんの血と、心配症のお母さんの血がまじってるの、だから大丈夫。お父さんみたいな無茶は絶対にしないから」
 少し不思議そうな目になった母は、ようやく得心したように頷いた。
「そうね……陸は、私とあの人の息子だものね」
 頷く美紅の隣で、伊織がかすかに嘆息する。
「それでも、来年だけはやめてと陸に言ったのよ」
 どこか現実感のない目になった母は、独り言でも言うような口調で続けた。
「不思議ね、うれしいことがある前には、必ず悲しいことが待っているような気がするの、あの人が亡くなった時も、確かそんな感じだったような気がするのよ……」



                  5



「おふくろさん、まだまだみたいだね」
 帰りの車中。
 伊織が運転しているのは、地元支局の新聞社の車である。それには多少気がひけたが、美紅は助手席の人になっていた。
 いつの間にかちらついてきた雪が、フロントガラスに淡く当たって消えていく。
「もういいの、お母さんなら、あのままで」
 伊織が言う、まだまだというのは、来週退院が決まっている病気のことではない。
 美紅は微笑して肩をすくめ、真っ暗な闇に散る白い粉に視線をはせた。富士の天候はどうだろう、週末、吹雪かないといいけれど。
 音の無い車内に、シャーベット状の雪を散らすタイヤの音だけが聞こえてくる。病院を出る時は冷凍庫のようだった内部に、ようやく暖房の温みが効きはじめた。
「そうかな、僕には、あのままでいいとは思えないけど」
「何もかも覚えているのが、幸せだとは限らないじゃない」
「忘れられた者は、じゃ、どうなる」
「覚えてるわ、私も、陸も」
「…………」
 美紅がそう言うと、伊織は無言でラジオをつけた。
 ニュースから天気概況、自然に美紅は耳を傾けている。
「伊織は反対しないの」
「何を」
「陸と冬山に登ること」
「どうして?多少腹がたったといえば、何故僕を誘わないかということくらいだ」
 その冗談めかした口調に、つい美紅は笑っている。
 けれど、伊織は決して冬山には登らないだろう。もう、決して。
「でも、どうしてそれが富士山かな」
 伊織の端整な横顔が笑っていた。
「日本一高い山、夏は登山初心者が観光行列組んで登って、冬はプロ登山家の訓練場、女の子が好んで登る山とは思えないけどね」
「伊織には、二十七でも女の子なんだ」
「穂高とか、槍ヶ岳とか、ちょっとおしゃれで自慢できそうな山って、いくらでもあるじゃない。冬に山に言ってきたの、どこに?富士山って、なんだかベタな感じがしないか」
 昔からそうだが、口では一つ年下の伊織にかなわない。
「いいの、とにかく富士がいいって前から思ってたんだから」
「とにかく高いところに行きたがる、高士さんも陸も美紅も、やっぱり似たもの親子だね」
 いつの間にか、雪がやんでいる。
 木々に囲まれた国道。暗い道の向こうにほのかな明かりがついていた。
―――陸、帰ってるんだ。
 美紅は、運転席を振り返った。
「ねぇ、よかったら」
 家に寄っていかない、そう言いかけた時だった。
「ちょっと、寄り道しても、いいかな」
 伊織の、暗い横顔が言った。
 車はそのまま、家に向かう小道をそれて、果樹園がある方に向かっていく。
「昨日、陸と飲んだんだ」
「そうだってね、それこそ私誘ってくれてもいいんじゃない」
「喧嘩した」
「本気で?」
「少なくとも、俺はね」
 闇の中で車が止まる。
 エンジンをつけたまま、伊織が先に車を降りる。スーツの上に羽織ったフード付きの黒いダウン。美紅はその羽毛を追って、積もった雪を踏みしめ、歩きなれた斜面を上がる。
 吐く息が凍えている。
「どこいくの?」
「もう少し」
「夜は、足元がすべるから気をつけて」
 脇道にある小屋に寄り、美紅は心ばかりの照明をつける。白熱灯が闇を照らし、伊織が目指すものを浮き上がらせた。
「この場所、残すようにって親父に頼んだみたいだね」
 ようやく立ち止まった伊織が言った。
「……お父さんが、大切に育てた林檎だから」
 一本の林檎の木が、白い光に照らし出されている。
 寒気に耐えるように凛と伸びた幹、まだ水気を残した葉影で輝く、数個の紅く熟れた果実。
「すごいね、こんな時期まで、実が枯れずに残ってるなんて」
 伊織は感嘆したように言い、ようやく美紅を振り返った。
「これだけは、12月が収穫期なのよ」
 実は、普通の林檎のおよそ半分の大きさしかない。燃えるような鮮やかな真紅。紅玉とは、翻訳すればルビーだが、その紅玉よりさらにあでやかな宝石の輝き。
 紅玉を軸に、いくたの品種と掛け合わせて作った亜種。ただし、食用には至らなかった。林檎とは赤みを増そうと思えば味が落ち、味を重視すれば色が落ちる。15年前、改良は頓挫したまま、父は帰らぬ人となったのだ。
「中原のおじさんには悪いと思ったけど、この場所でしか、この林檎は実をつけないの」
 美紅は呟き、雪に覆われた地面を見た。
 この場所――父が改良を繰り返したこの土壌に、おそらく、奇跡の林檎の秘密がある。
 ここに、加工工場を建てたいという中原夫妻の計画を、美紅は、食用はおろか出荷さえできない林檎を残したいという理由だけで、中止してもらったのだった。
「この林檎の木は、お母さんがとても大切にしているの、わがままだとは思ったけれど」
「いいさ、でも結婚前だけだぜ、美紅のわがままが通るのも」
 歩み寄ってきた伊織が、手にはめていた手袋を取る。
 ポケットから出された小箱を見て、美紅はさすがに驚いていた。
「伊織が、そんなロマンチックな男だとは知らなかった」
 プロポーズも、確か電話ですまされたような気がするのに。
「給料三ヶ月分より、サービスしたよ」
「……ありがとう」
 互いの冷えた指。
 ただし、伊織のそれは、左手の薬指だけが、第二関節のあたりから欠けている。小指も満足に曲がらない。
 壊死――高校二年の冬、伊織は冬の大雪山で、自身の肉体の一部を永遠に失くしたのだ。
「……はいんねーな」
 が、そのロマンティックなはずの儀式は、美紅の関節で頓挫した。
「ごめん、ちょっと痛いんだけど」
「我慢しろ、もう少しで入る」
「痛い、無理っ、言ったじゃない、私関節太いから、ワンサイズ上にしてって」
「だってみっともないだろ、指でぐるぐる回る指輪なんて」
「いたいーっっ」
「我慢しろ!」
 こんな痛いエンゲージリングもないような気がする。寒さで指がかじかんでいるから、余計に痛みが身に染みる。
「嬉しいんだか、痛いんだか」
「嬉しいんだよ」
 ようやく指におさまったプラチナのリング。小さなダイヤモンドが、照明を受けてきらめいている。
「抜けないよ、これ」
「取らなきゃいい」
「それこそ、無理!こんな高価なものつけて、水仕事なんてできないよ」
 と、言ったところで、笑う伊織は取り合わない。
 伊織の給料の三ヶ月分といったら……三桁はいくような気もする。どうしたらいいんだろう、今夜のお風呂さえ躊躇してしまいそうだ。
「とにかく、帰ろうよ、家に陸もいると思うけど」
「美紅みたいだな」
 ふいに、伊織が呟いた。
 口元からは笑みが消え、その眼差しは、闇に映える林檎の木を見つめている。
「……なんのこと」
「この林檎」
「どういう意味?」
「見た目は素晴らしく綺麗なのに、どうしてだか売れ残る」
「………………あのね」
「食べると、意外にまずいんだ」
「ひどい、食べたこともないくせに」
「じゃ、食うよ」
「………………」
「なんてね」
 歩き出した伊織の手を、追いついた美紅は、自身の手で包んだ。
「食べればいいのに」
「まずいんだろ、すっぱくて食えたもんじゃないって陸に聞いた」
「……林檎はそうかもしれないけど」
「…………」
「…………」
 ライトをつけたままの車が見えてくる。
 伊織は手を離し、それを再び手袋で包み込んだ。
「来年もネパールにいくんだろ、陸」
「そうみたい」
「三度目の正直だ、今度は成功すると思うな」
「どうかな、二度あることは三度あるって言うじゃない」
「おいおい、身内がそれ言ってどうするよ」
 車に乗り込む。
 少しだけ、不自然な沈黙があった。
「願掛けしてんのかな、俺」
 ステアリングに手を載せたまま、伊織が呟いた。
「陸が、エベレスト制覇するまで、美紅には手を出さない」
「つか、そのくせプロポーズって、順番違うような気も」
「陸の尻叩いてんだよ」
 意味を図りかね、美紅はうつむく。
「……陸は、多分、山やめるよ、今度の登頂に成功したら」
「そうかな、根っからの山男よ、あいつ」
「俺はその時を待ってんだ、もう四年も待った、いいかげん待ちくたびれたけどね」
 それだけ言って、伊織はアクセルを踏み込んだ。



                 6


「陸……?」
 電気が切れていたから、嫌な予感はした。
 静まり返った暗がりに、人の気配はない。ただ暖かな家庭の匂いが、病室でケーキひとつ食べただけの胃にしみた。
 電気をつけて、室内を見回す。
 こたつの上にコンロがあって、そこには、まだ暖かな鍋が湯気をたてていた。
 伏せられた二組の椀、陸がそれを食べた形跡はない。
 その横に殴り書きのようなメモがはりつけてあった。

 急用できた、大阪に行ってくる。

 まだ温みが残るストーブに再び火をいれながら、もしかして暁美さんの所かもしれない、と美紅はぼんやり考えていた。
 大学時代からのつきあいだ。何年待たせているんだろう。もしかすると、今度の登頂に成功したら、結婚するとかいう話なのかもしれない。
 じわじわと火が広がって行く。聞き逃してしまえば風の音のような、かすかな旋律に気づいたのはその時だった。
 こたつ布団に半ば埋もれるようにして、銀色の小さな金属が顔をのぞかせている。美紅は指先で拾い上げた。ぬくもりを帯びた金属片。それは、陸が愛用しているIPODだった。
 接続されたイヤフォンが、小気味よいリズムを奏でている。
 耳にイヤフォンの先端をあて、美紅は、わずかに笑っていた。
 起毛部分が大きく倒れた絨毯、ここで陸は寝転んで、美紅の帰宅を待っていたのだろう。目に浮かぶ。昔から陸は、暗闇と音のない場所が嫌いで、寝るときでも照明を煌々とつけ、一晩でもラジオをつけているような子供だった。
 今でも美紅には不思議でたまらない。あの陸が、夜1人でトイレにも行けないくらい寂しがり屋だった陸が、どうしてよりにもよって、標高8000メートル上にある死の世界を目指すのだろう。
 想像するだけで怖くなる、生物が生存できない絶対の孤独。死体ですら、それを処理するバクテリアが存在しないから、腐ることなくいつまでもそこに転がり続ける。
 無論、そこに転がる死体とは、人間のものでしかありえない。
 人のみが、神の領域に近づこうとする。けれどそれは、さながら生きながら堕ちる地獄ではないか…。







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