頭の上に、林檎の実が乗っている。
弓を持つ男が2人、馬に乗ってやってくる。
林檎を射落とした方の花嫁になるのだ。
サドンデス、命を掛けた求婚。
一矢目が外れ、二番手の男が入れ替わって馬を進める。きりきりと弓を引き絞る。
闇色の前髪の下からのぞく、怖いほど暗い、野生の焔を孕んだ瞳。
それが、私を捉え、射すくめる。
放たれた矢が空を裂く。
それは――青空を照らす太陽の光に吸い込まれて、





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「あほう、いつまで寝とんのや」
「…………」
 目の前で、陽気で能天気な目が笑っている。
 しばらく瞬きをした後、美紅は首をひねって半身を起こした。
「いつ、帰った?」
「夕べ、鍵忘れたから、例によってベランダから」
 美紅はものも言わずに、目の前の頭を手のひらではたく。
「いてっ」
 身長百八十五センチ、胸にも腕にも鍛えられた筋肉を悠然と有した弟は、本当に子供みたいに楽しそうに笑った。
 軽々と背を追い抜かれてから十年以上たつ、ひとつ年下の弟の陸。
「それ、やめなさいって何度も言ったじゃない、滑って頭でも打ったらどうすんの」
「姉ちゃんも同じや、鍵開けて寝たらあかんゆうて、俺、何度もゆわんかったか」
「あのねぇ」
 美紅はぶるっと震えて、炬燵布団で、再び半身をくるみこんだ。
 内陸の冬は寒い。
 今年ももう師走。ここ信州でも、猛暑だった夏が嘘のような冷え込みが連日続いている。
 立ち上がった陸が、太い指でマッチを擦って、傍らの石油ストーブに火を入れた。
 濃い灯油の匂いが鼻につき、やがてすぐに空気が熱を伝導してくる。
「ヤカン、からからや」
「水足して置いといて」
 リビング続きのキッチンに立つ陸の背中は、広く厚い。
 膝から下が破れたジーンズ。陽に焼けつくした逞しい脛に、黄金色の毛が密集している。
 国内では有名なアルピニストでもある陸は、美紅が聞かされたスケジュールに変更がなければ、一昨日、北欧から帰国したばかりのはずだった。
 雪のない12月の街から雪しかない12月の街へ。
「うちみたいな何もない家に、泥棒なんか入らないわよ」
「あほやなぁ、昨今農家は狙われとるんや、うちの林檎園だっていつ泥棒さんが入るかわからんやろが」
「林檎は危ないけど、うちは大丈夫よ」
「林檎より危ないもんがあるやろが」
 がしゃん、と乱暴にヤカンを置きながら、陸。
「ぶっ」
 しばらく考えた美紅はふきだしていた。
「陸のお世辞ほど怖いものはない」
「結婚前の大切な身体や、なんかあったら、俺が伊織に顔向けできん」
 伊織――中原伊織。
 しばし沈思してから、美紅はあっと立ち上がった。
「やば、今日から私、中原さんちに手伝いに行く約束になってたんだ」
「あほくさ、もう花嫁修業か」
 からかいはスルーして、美紅は即座に起き上がる。乱れた髪を指ですきながら鏡のある脱衣所に向かう。
「伊織と結婚したら、もう炬燵なんかで寝られへんで、あそこはおかんがごっつきついんや」
「そんな真似、しません」
「だらしない姉を持った弟は不幸や」
「どの口がそれを言う」
 言葉を返しながら、急いで歯を磨いて口をゆすぐ。
「身体、まだ、鍛えとる?」
 リビングから声がした。
「すごいわよー、今脱いだら腹割れしてるから」
「はは、そりゃすごい」
 二階の自室にあがり際、ちらっとのぞいた室内では、陸がコタツの上で新聞を広げていた。
「陸のこと、載ってるよ」
「うん、伊織に聞いた。今日だったんやな」
「それ、昨日の新聞」
 伊勢谷陸、来期エベレスト三度目の挑戦に向けて調整中。
 美紅は、そんな文字を思い出しながら、階段をあがった。
 かつて、地元の英雄だった陸の記事は、今は小さなコラム扱い。在学中、日本最年少記録をかけて六大陸制覇に挑みながら、あとひとつ、世界最高峰を前に頓挫した陸の悲願もまた、この神の頂にある。
 今年一年、かつて植村直己を飲み込んだ冬季マッキンリー、世界第六位の高峰チョオユー。幾多の難所で訓練を重ねた陸の目標は、あくまで来年2月から4月にかけてアタックするエベレスト最高峰。この地上で、宇宙に一番近い場所。
 それは二人の姉弟にとっては、もう一つ別の意味を持つ。
「今日、どうするの?」
「おふくろのとこ行ってくる、そろそろ退院やろ?」
「来週だったかな」
 化粧と身支度を終えてリビングに降りると、こたつにもぐりこんでいた陸が、少しまぶしそうな目になった。
「綺麗や……」
「ゆうてへん」
「いいたげな目だったから」
「どういう目や」
 笑う陸の顔は、日に焼けて――それは健康的というレベルを越えて、むしろ、野生的ですらある。
 二十六歳という若さがみなぎる、逞しくて精悍な相貌。筋肉を内包し、無駄なものが削がれた肉体。常に生と死と隣あわせで生きているせいか、それは鋭く研ぎ澄まされ、あたかも一種の芸術品のようだ。
 けれど、その屈託のない笑顔の裡に、美紅は時折、かすかな影を感じることがある。
 言ってみれば、まるで、太陽にひそむ黒点のように。
「今年の林檎はどないな」
「最高よ、送ったの食べなかった?」
「食った、そっちじゃなくて」
「ああ」
 インスタントコーヒーにやかんの湯を注ぎながら、美紅は振り返った。
「できてるよ」
「さよか」
 果樹園の裏手に、一本だけ生えた林檎の木。
 林檎の収穫は十月から十一月だが、この亜種だけは、12月に完成する。鮮やかな紅色の、宝石のように美しい林檎。
 陸は毎年、この時期に帰省しては、12月の紅い林檎をひとつだけもいで、翌年、遠征に出かけていく。
「そういや、エベレストから戻ったら、姉ちゃんの結婚式やな」
「絶対、間に合うように帰ってきてよ」
「今週の末にしよか」
 いきなり言われたので、その意味が判らなかった。
 コーヒーカップを陸の前に置きながら、瞬きする美紅に、陸は苦笑して目を細めた。
「冬山、一度行きたいゆうてたやん」
「ゆうたけど、陸、ダメって言ってたじゃん、危険だし、遊びじゃないからって」
「……気ぃ変わった」
 美紅が差し出したカップを、陸は大きな手で包み込んだ。
 毎年この時期、陸は、訓練を兼ねて単独で富士山に登る。
 標高3776メートル、日本最高峰の山。
 エベレストの半分にも満たない高さだが、冬の富士は、天候が激変しやすく、プロの登山家でも時に命を落とすほどの難所である。
「そりゃ……嬉しいけど、そのために身体鍛えてたんだし」
 美紅は戸惑って、コーヒーに息を吹きかける陸を見つめた。
 今までずっと「危ないからあかん」の一言で断られて終わりだったのに。
「週末って、そんな急でいいの」
「おふくろ戻ったら、心配しそうやん、二人で冬の富士に登るゆうたら」
「そりゃ、そうだけど」
「天候次第やけどな」
 猫舌の弟は、カップに唇をつけて、おおげさに眉をしかめた。
「準備は俺がしとくさかい、姉ちゃんは仕事しててええよ」
「じゃ、任せる」
「ゆうとくけど、てっぺん観光しに行くんやないで、あくまで雪上訓練や」
「わかってる」
 冬の富士は、行楽地気分の観光客が多い夏とは、まるで別の山になる。
 気象条件によってはエベレスト並みの過酷な環境になると、夏に通った登山教室で教えられた。素人がうかつに登るような山ではないと。
 それゆえに陸は登るのだろうが、美紅自身の動機は、自分でもあまりよく判らない。昨年の12月、いきなり「来年は私も富士に連れてって」と言われた陸も驚いたろうが、ずっと取り合う気配もなかったその陸に、いきなり「今週の末にしよか」と言われた美紅も内心かなり驚いていた。
「そん時にな、話しがあるねん」
「え?」
 飲み干した自身のカップを持って流しに立とうとした美紅は足を止めていた。
「……なに」
「そんとき話す」
「なに、気になるじゃん」
「だから、そん時話す」
「暁美さんのこと?」
「……そん時や」
 陸の口調がひるんだから、大学時代から陸のパートナーとして幾多の山に動向している岡崎暁美のことだろうと察しがついた。
 結婚の話だろう、なんとなくだけど、そんな気がする。暁美の父親は大阪テレビ局の製作局長であり、莫大な遠征費用を要する陸のスポンサーでもある。
 悲願だったエベレスト登頂に成功さえすれば、これ以上陸を非日常の世界に駆り立てるものは何もないに違いない。
「……嬉しい話?へこむ話?」
「それ、誰が基準?」
 美紅が黙ると、陸は白い歯を見せて笑った。
「ま、そん時の気分やね」
「なによ、それ」
「もうええから、はよ行けよ」
 笑顔のまま見せる横顔に、また、かげろうのように暗い陰りがよぎる。
 もう何年も影をひそめていたその笑い方に、美紅は、先日ふいに「今からそっち帰るから」と、陸から電話をもらった時と同じ、不思議な胸騒ぎを感じていた。
「絶対行くからね」
 美紅は言った。
「どこに」
「だから週末、富士山」
「ゆったやろ、姉ちゃんつれてくかどうかは天候しだいや」
「私も言った、陸が行くなら、絶対に行く」
 陸の、そこだけ子供のまま時をとめたような綺麗な目が、不思議そうにすがまって美紅を捕らえる。
「……じゃ、行ってくる」
 美紅は、バックを掴んで立ち上がった。
 
 
 
               2



「お茶にしましょ、美紅ちゃん」
 最後の客を送り出し、レジを閉めた時だった。
 盆に湯茶と菓子を載せた中原さと子が、そっと背後から手招きしている。
 この農園のオーナー夫人で、美紅の婚約者、中原伊織の母親。
「あとはバイトさんに任せて、美紅ちゃんもうはあがって、今日はりっくん帰ってるんでしょ」
「ありがとうございます、でも陸なら、1人でなんでもできちゃう奴だから」
 美紅はそう言いながら、どうして中原夫人が陸の帰省のことを知っているんだろうと考えていた。
 終業のメロディと共に、慌しく後片付けが始まった店内。数人の女性従業員が、並んだ土産物をケースに戻し、ミニパックに詰められた試食品を冷蔵庫に収めている。
「でも、今シーズンも盛況でよかったですね」
 美紅は、レジ下の雑巾を出しながら、背後のさと子にそう言った。
 中原農園は、このあたりでは一番大きな林檎園である。不作豊作の波で農家が次々と潰れる中、早々に卸業を排除した直営に切り替え、林檎狩り、食べ放題、林檎を加工したオリジナル銘菓を次々と打ち出し、ここまで事業を拡大させた稀有な存在。
 片や美紅の家が営む伊勢谷農園は、このあたりでは一番小さな林檎園。祖父が作った無農薬オリジナル品種だけが有名で、ネット販売で人件費を削減することで、なんとか生計をたてている。
 無農薬栽培は、手間がかかるだけに大量生産できず、収穫したものは11月にほぼ完売となる。採算は、正直、経営するだけでやっとというところ。豊作の年は潤っても、不作になると苦しくなる。シーズンオフの仕事と、死んだ父の保険金、そして母がもらう遺族年金をあわせて、その帳尻を合わせているといったところだ。
 そういう意味では、短期雇用に係わらず正社員なみの給料をもらっているこの職場で、いくら未来の姑とはいえ甘えるわけにはいかなかった。
 が、「掃除します」とは言ったものの、「いいからいいから」と、肩先までしか背がないおせっかいな女主人に背を押されるようにして、美紅は店舗の奥にある事務所に通された。
「陸、帰ってるんだってな」
 こたつの中、背中を丸めて新聞を読んでいるのは、オーナーの中原武。
 1人息子の伊織によく似た、上品な目鼻立ちと、いかにも人徳がありげな、穏やかな眼差しをした男は、今日も、灰色のセーターに農協のキャップといういでたちだった。
「夕べ、りっくんから伊織にメールがあったみたいなのよ」
 こたつに座った美紅の前にお茶を置きながら、さと子。
「そうなんですか」
 礼を言って茶を受け取りながら、美紅は納得する。それで何も言っていないのに、ここの人たちが陸の帰省を知っていたわけだ。
「伊織の奴、久々の休暇だのに、飛ぶように出て行った。あれは昔から、陸の金魚の……だったからなぁ」
 嬉しそうに目を細めながら武が呟く。
 陸と伊織は幼少時からの親友同士で、実際兄弟のように仲がよかった。双方人気者で、それぞれがクラスのリーダー格。
 うっとおしくなるほど明るい陸と、すこし斜にかまえた皮肉屋の伊織。
 勉強でもスポーツでも常に張り合っていた二人が選んだ道は、アルピニストと新聞記者。そして来春には義兄弟になる。
「知らなかったです。陸の奴、朝方ベランダから入ってきたみたいで」
「じゃ、二人で飲んでいたのね。伊織ったら、休みなら、少しは美紅ちゃんとデートしたらって、あれほど言ったのに」
「やばい、陸に負けてますね、私」
 三人で顔を見合わせて笑っていた。
 長年、家族ぐるみでいい関係を続けている中原家と伊勢谷家。
 その長子と長女の結婚は、双方の家族が望んだ、ごく自然の流れともいえた。
「本当、こういったらなんだけど、美紅ちゃんが来てくれて助かるわ、伊織は家業を継ぐ気はさらさらみたいで」
 ふうっとため息を吐きながら、さと子が呟いた。
「まぁ、若い男にこういう仕事は向かないんだろう、陸も早々に家を出たし、うちのは地元に戻っただけましだと思うんだな」
「それにしても、よ。二人とも、そろいもそろって親不孝者だわよ」
 農家の一年は筆舌に尽くしがたい辛さがある。もう老年に達しようとしているさと子は、元菓子職人で、彼女が作る林檎加工品が不況を乗り切るきっかけとなった。
 その分働きどおしだった女の髪は、もう半分が真っ白だ。
 後継者不足は、どの農家でも頭が痛い問題である。
 実際、美紅の同級生の半分が、実家を棄てて都会で仕事をもっている。
 美紅は、すすめられた茶菓子をひとつ摘みながら、視線を下げた。
「うちだってありがたいお話だと思ってるんです。母はもう野良仕事は無理で、……このままだと、うちの農園、たたむしかなかったから」
「佐和子さん、どうなんだ」
「来週には退院なんです、ご心配かけてすいません」
「美紅ちゃんも、無理するなよ」
「そうよ、私たちに、なんでも言ってちょうだいな」
「……ありがとうございます」
 この夫婦の優しさと寛大さには、昔から感謝の一言しかない。
「うちの農園、よろしくお願いします」
 神妙に頭を下げた後、「私もついでによろしくお願いします」と言い添える。
 笑いに包まれた幸せの空間の中で、それでも美紅は、決して口にも表情にも出せない一抹の寂しさを感じていた。
 伊織との結婚を機に、伊勢谷農園は中原農園と合併することになっている。そこは美紅としても悩みどころだったが、自身が中原の家に嫁ぐ以上、そうやって祖父のブランドを守るしか、手はなかった。
「ただ……前も言いましたけど、工場の建設計画だけは」
「わかってる、わかってる、その辺りは、美紅ちゃんの気持ちを第一に考えるから、心配しなくていい」
 柔らかな武の声に、安堵して美紅は頷く。
「ひいじいちゃんの時から、ずうっとやってきた農園だものねぇ、そりゃあ、色んな思い出があるでしょうよ」
 二人の茶を淹れ替えながら、さと子がしみじみと呟いた。
 美紅にしても、実家の農園を手放すことになるとは夢にも思っていなかった。嫁いでも近所、手伝いに戻ることはさと子も了承していたし、なんとかなると思っていた。
 が、半年前に母が心筋梗塞で倒れてから、状況は一変した。女手1人では無理がある。手伝いを頼んだり、バイトを雇いながらなんとかやってきたが、人件費を考えると、このままの状態で続けるのは限界があった。母にしても、もう1人で農家を営むのは難しいに違いない。
「心配しなくても、佐和子さんも含め、わたしらがきちんと面倒みるからね」
 優しいさと子の声に、微笑してうなずきながら、美紅は胸がいっぱいになる。
 母の病気は、実の所目に見えない部分の方が深刻で、それだけで、一時美紅は、結婚すること自体無理なものだと思い込んでいたほどだ。
 しかも、中原夫妻は決して恨み言を口にしはしないが、本来であれば、どう謝罪しても許されないほどの過ちを、高校時代、陸はこの幸福な家庭に対して犯している――。
「美紅ちゃんはあれだな、指は細いのに、意外に関節が太いんだな」
 ふと、武が呟いた。自分の指を見られていたのに気づき、美紅は紅くなってそれをこたつの下に隠す。
「伊織は忙しいから、まだ指輪ももらってないんです」
 そして、照れ隠しにそう言っていた。



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「そうそう、今朝伊織に聞いたんだけど、美紅ちゃん、週末に富士に行くんだって?」
 帰りがけ、玄関で靴を履いていた時だった。
 見送りに出てくれたさと子が、少しためらった後、なんでもない風にそう切り出した。
 わざわざ玄関までついてきてくれたのも、話があるからだろとう察していたが、それが、今朝陸から聞いたばかりの、週末の予定のこととは思ってもみなかった。
 美紅は驚きながら、けれど平静を装ってさと子を見下ろす。
「ええ、陸と行ってきます」
「りっくんとだったら大丈夫だろうけど、何も、危険な冬山に行かなくても」
 いつも陽気なさと子の表情が曇っている。
 帰りがけに引き止められた理由に、美紅はようやく気がついた。
 さと子は、夫の口から、その計画をたしなめて欲しかったに違いない。
「陸、毎年この時期、富士に雪上訓練に行ってるんです。そのついでに上までつれてってもらうだけですから」
「それはそうなんだけど」
「大丈夫ですよ、登山自体は日帰りだし、すぐに帰ってくるんですから」
 一時、仕方ないという目でうなずきかけたものの、それでも未練のように、さと子は口調を濁しながら続けた。
「去年だったか、学生さんが初日の出を見にいって亡くなってるじゃない、それに、プロの登山家さんだって、かつらく…っていうのかしら、何百メートルも滑り落ちて亡くなられていらっしゃるし、りっくんにはなんでもない場所でも、美紅ちゃんは素人でしょう…それが、おばさん心配で」
「富士は夏に何度も登ってるし、今年は講習会で雪上訓練も受けたんです。大丈夫、そんなに心配しないでください。それに、つれてってくれるのは、三度もエベレストに登ろうってバカなんですから」
「ほんとねぇ」
 と、さと子の顔が、ようやく和む。が、その目はどこか寂しそうだった。
「一体どういう因果なのかしら、そういうところ、佐和子さんに同情するわ。……ご主人を奪った場所に、自分の子供がまた行こうとしているなんて」
「…………」
「ああ、ごめんなさい、へんな意味じゃないのよ、本当に」
 慌てて言葉をつなぐさと子に、美紅は笑顔で首を振った。
「わかってます。じゃ、また明日」
「気をつけてね」
 さと子の心配は最もだと美紅は思ったし、もっと強く言われても仕方のない理由もあった。
 さと子という女はいつもそうで、言いにくいことをはっきりと強要することができない代わりに、婉曲な形で、こちらが根負けするまでくどくどと口を出す。多分明日も、同じ問答が繰り返されるのだろう。
 まだ大学生だった頃、そんな母を指して伊織が「うちのおふくろは卑怯だ」と、ぼやいていたこともあったが、それもさと子という女のかわいらしさのひとつだと、逆に美紅は思っている。
 いつもの美紅なら、心配性の女の思いを汲んで、即座に折れていたかもしれない。
 冬空は灰曇りに陰り、今にも夜に覆われそうなほど重く、白い息を吐く美紅の頭上にのしかかっている。
 一面の雪景色。マフラーを締めなおしながら、今回だけは、多分何を言われても折れないだろうと、美紅は不思議な確かさで思っていた。










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