7
(雅には昔、好きな女の人がいたんだって……。でも、その人に裏切られて、すっかり女性嫌いになってしまったんだって)
薫が言ったというその言葉が、その夜、帰宅してもなお、雅流の脳裏の深いところで揺らめいていた。
裏切られた。――
それは、ある意味その通りで、その実、全く見当はずれの言いようだった。
裏切ったのは、むしろ自分のほうだったのではないかと、雅流は今でも苦い気持ちで思っている。
(志野は芸者の子供らしい)
(母親が、客を取って暮らしをたてていたそうだ)
(志野は、いずれかの客の子だという話だけれど、母親と同じ席で、男相手に女郎の真似事をしていたそうだ)
誰が聞きこんで言いふらしたものか、そういった噂は、志野が櫻井家に来てから半年あまりで、あっという間に広がった。
志野の最初の印象があまりに清く、いっそ手が届きそうもないほど美しかっただけに、次第に毒を帯びて広がる中傷は、無惨に酷く、澄んだ光を放つ少女を、みるみる黒く汚れた象徴へと塗り変えてしまったのだった。
「言っておくけど、全部本当の話よ」
最初から志野を毛嫌いしていた姉の鞠子は、鬼の首をとったかのような鼻息の荒さだった。
「本所じゃ、美人親子で随分有名だったそうよ。それにあの子、何を言っても謝るばかりで、一言も抗弁しないのですもの。――けがらわしい。どうしてお母様は、あんな売女の娘を可愛がるのかしら」
「あんな女、さっさとこの家から追いだしてやる」
最初、あれだけ志野の美しさを称えていた薫までもが息まいていた。
「芸者の子など、汚らしい、目にするのも不愉快だ!」
当時、性に関して潔癖のきらいがあった兄にしてみれば、男に身を売る女の子供――それだけで、志野の存在自体が許し難いものだったのかもしれない。
それとも、なまじ最初、憧れにも似た気持ちを抱いていただけに、失望というより裏切られたに等しい感情を抱いてしまったのかもしれない。
そういう意味では、綾女が言った言葉は、むしろ薫のほうに当てはまる。
雅流は、一人、騒ぎの外に居続けていた。
関心がなかった――というより、まだ、姉や女中たちが騒ぐ本当の意味が、雅流には判っていなかった。
やがて家を出て寄宿舎に入った後に、櫻井のような由緒ある伯爵家に、芸者の娘が共に住み暮らすことがいかに異常な出来事であったか、――世間の風評と共に知ることになるのだが、当時は、そこまで考えを及ばせることができなかった。
ただ、屋敷の中で、日に日に肩見が狭くなっていく志野が憐れでならず、何か話かけたい、何か慰めたいと思いながらも、そんな機会も言葉も知らず、――ただ、無為に日々を過ごしていたのだった。
ある夜、雅流は恐ろしい夢を見て眼を覚ました。
その夢は、自分の醜い部分を容赦なく炙りだすと同時に、それまで、噂を聞いてもなお神聖視していた志野を、無惨に冒し、汚してしまうものだった。
おそらく、――あのような噂を聞いていなければ、決して見るはずのない夢であった。
当時十二になったばかりの雅流は、その夜、初めて自身にひそむ闇を知った。
同時に、それは、ひそかに憧憬していた人に対する重大な裏切りであり、許し難い行為であるように雅流には思えた。
その夜から、いくつかの葛藤の日々を超えて、雅流は初めて自身の意思で撥を持った。
志野と初めて言葉を交わした雨の夜から、五年近くが過ぎてようやく――、匂い立つような春の夜、志野が弾いていた曲の名を、――今でも、時折、夜更けに一人で弾いている曲の名を、初めて雅流は知ったのだった。
『時雨西行』
それからの雅流は、不思議なほどの速度と密度で、音の世界にのめりこんでいった。朝も昼も夜もなく、ひたすら撥を動かし続け、己の葛藤と戦い続けた。
それまで三味線の稽古を嫌っていた次男が、いきなり積極的に学びはじめたのだから、母は随分喜んだろう。
が――、雅流が追い求めた音は、母の示す教本ではなく、心の中、沁みたように残っている志野が奏でた音色だったのかもしれない。
夜半、一人で時雨西行を弾きながら、もしや、どこかであの人が聞いてくれているのかもしれない――あの人が喜んでくれるのかもしれない――そう思うだけで、雅流はどこまでも果てしなく、音の深みに落ちていくことができたのだった。
やがて、兄と共に寄宿学校に編入した雅流は、ようやく長い葛藤から解放されることになる。
あたかも、悪夢にも似た初恋は、巡る新しい日々の中、自然と忘却の彼方に追いやられ、雅流もまた、志野のことはあえて思い出さないように努めていた。
そして十五の冬、久方ぶりに屋敷に戻った雅流は、別人のように大人びて、春と言うより冬の寂しい美しさを身につけた人に再会する。
「変わりはないか」と、あえてなんでもないように話しかけると、逆に志野はひどく驚き、恐ろしいものでも見るような眼で、そそくさと逃げて行ったのだった。
その時、雅流は、初めて苦い薬を飲みほすような思いで理解した。
結局、この人の胸の裡には、四歳も年下の自分のことなど、一欠片も残ってはいないのだと。――
その日以来、雅流は自身の初恋に永久に蓋をした――つもりだった。
8
――結局、俺は、あの頃と同じ真似をしようとしているのだ。
その夜、自室の窓を開け放ち、一人三味線を抱えながら、雅流は自然に淡い苦笑を浮かべていた。
春の夜。
おぼろに霞んだ月が、淡い光を小雨が降りしきる庭に注いでいる。
水蒸気にも似た霧が、ぼうと、庭全体を霞かがったようにけぶらせている。
志野と初めて話したのも、確か、同じような雨の夜だった。
そう思いながら雅流は、どこにも存在しない譜面の代わりに、黒川の祖父に頼みこんで習った雪獅子を、静かに、丁寧に演奏しはじめた。
離れにいる志野は、きっと、聞いているはずだった。
きっと、届いているはずだった。
明日の稽古までに覚えてしまえば、譜面を失くしてしまったことはともかく、母への面目だけは立つはずだ。
音の世界に落ちていく雅流の耳に、やがて、幻のようにひそやかな連弾の音が聞こえてくる。
繋がって、重なって、解けていく音色。
それを、志野が追ってくる音だと確信しつつ、雅流は、十五歳で屋敷に戻った時、別人のように大人になった志野の静かな佇まいや、控え目で寂しげな微笑などを思い起こしていた。
再会した自分を見て、ひどく驚いた眼をしたことや、「お元気そうで、なによりでございます」と、消え入りそうに囁かれた言葉や、伏せられた睫毛に、確かに子供時代にはなかった恥じらいがあったのを思い出していた。
「あの子も来年は二十歳ですからね。いい縁談を探してやろうと思っているのですよ」
なにげに母が言った言葉に、妙に不愉快になったことや、「志野は美人だから、俺の妾にしてやってもいい」と、冗談まじりに兄に言われた時の、殴りたい衝動に耐えたことや――綾女に「私、存じておりますわ。その譜面がどなたのものだか」と切り込まれた時の、不意打ちのように強まった動悸のことなどを思い出していた。
昨日――ふいに胸を掠めて流れていった、とうに忘れていたはずの大切な何か。
胸に定めてしまえば、それは思いのほか難しく、けれど、一度決めてしまえば、決してどうにもならないことではないような気がした。
志野を、俺の妻にもらうことはできないか。――
昨日までの自分の振る舞いを思えば、とんでもない、いや、突拍子もない思いつきのような決心である。
しかし、振り返ってみれば、それは、幼い頃からひそかに胸に思い定めていた願いでもあった。
志野を、俺の妻にする。――
成就させるためには、想像しただけで気が遠くなるほどの困難と障害、さらには、家族どころか親戚中の反対を乗り越えねばならない。
第一、 志野の気持ちはどうなのか。
そもそもあの人の胸に、自分は一人の男として、映っているのか。
よもや、あの人は、女ならば誰でも惹かれずにはいられないほど美しい兄に、ひそかに恋をしているのではないだろうか。――
夜もやらず考え続けた雅流は、明けに差し込む一筋の暁光と共に、ようやく一つの結論を見出していた。
とにかく、今の縁談を断ることだ。
明けに霞む月を見上げながら、雅流は静かに心に決めた。
今はまだ、早い。何をどう説明しようと、周囲の誰一人として説得することはできないだろう。おそらくは、志野さえも。
俺がもう少し年を取って、一人立ちできる時がきたら。――
俺の音が、いつか君の胸に届く時がきたら。――
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