5


 六歳の雅流が迷い込んだ、春の雨が降りしきる夜の庭。――
 それは最初、軒から滴る雨音のように聞こえた。
 ぽつり、ぽつりと物悲しく、雨というより涙が地に染みていくように、ひとつ聞こえては消え、ひとつ聞こえては消えして、春の花より儚げに紡がれていく。
 三味線の音に違いなかった。
 音は、今は閉めきられているはずの、庭内の片隅に建てられた古い茶房から聞こえてくるようだった。
 曾祖父が愛でたという、戦国からある古風な茶室。少し前までは、幼い兄弟の遊び場兼隠れ家だったが、老朽化が著しいため、決して近寄るなと厳しく言い含められている場所である。
 ――誰かが、中で三味線を弾いているんだ。
 気づいた瞬間、まだ幼かった雅流は、ざっと背が総毛だつのを感じた。
 明らかに母の音ではない。むろん鞠子姉さんとも違う。もちろん薫のものでもない。
 もしかして、死んだ祖母――?
「わ……っ」
 低く叫んで逃げ出そうとした時だった。ぬかるみに足を取られ、雅流はこれ以上ないほど不様な姿で前のめりに倒れこんだ。
 頭上で、木戸が軋んだ音をたてて開く。
 咄嗟に顔をあげると、薄く漏れる明かりの中、驚いた眼をした(くだん)の少女が立っていた。
 肩に下ろした長い黒髪。黒々と濡れた目が、じっと雅流を見降ろしている。
 地面に吸い込まれた雨が、水蒸気のように立ち上って、ぼうとした霧状のもやになって、茶房のまわりを取り囲んでいた。
 雨にけぶる春霞(はるがすみ)のような光景の中、その少女は雅流の目には、何かしら冒しがたい、この世で最も神聖なもののように見えた。確かに、――見えた。
「まぁ、雅流坊ちゃま」
 が、次の瞬間、少女は、悲鳴にも似た小さな声をあげて、飛び降りてきた。
 ただ、呆けたように泥の中に座りこむ雅流の傍に、雨とも桜とも似つかぬ淡い香が近づいてくる。
「こんな夜更けにどうなさいました。お怪我でもなさったのですか」
 地面に投げ出していた両手を抱かれ、引き起こされる。
 思いのほか力強い、ひんやりと冷たい手のひらだった。
 なのに、触れたとたん、肌に火でも点いたような気がして、雅流は咄嗟に手を引こうとした。
 志野はあらがわずに手を放し、代わりに腰をかがめて雅流の前に膝をつく。
 雨に濡れた黒い瞳が、目の前にあった。
「いい子だから、じっとしておいでなさい」
 叱咤でもするように志野は囁き、雅流の手足から、顔から、自身の着物で泥を拭いとってくれる。
 その所作はてきぱきと働きなれており、雅流のような幼い者の扱いに完全に馴れている年長者のようだった。
 いくら大人びて見えるとはいえ、相手は、ただ四っつ年が上なだけの子供である。それまで、双方同じような立場だと思っていた雅流は、不意に自分がとんでもなく子供扱いされたような気がして、耳まで赤くなるの感じていた。
「まぁ、おぐしにまで泥がついて」
 そう言って腰を上げた志野の、粗末な帯の間に(ばち)が挟み込んであるのに気付き、雅流は少し驚いて目を見開いた。
 では、今の三味線の音は、――
 口を開きかけた時、いきなり、かがみこんだ志野に正面から見下ろされた。雅流は驚いて顎を引いている。
「よかった。どこにもお怪我はないようですね」
 笑った唇の下から、白い歯が見えた。
 黒い眼が優しく細まり、それまで人形のように冷たく見えた顔に、驚くほど柔らかい――透明な音楽のように透きとおった笑顔が広がった。
 が、ただ笑っていると思えたその瞳の深いところには、確かに潤みを帯びた悲しみがあって、もしかしてこの人は、泣いていたのではないかと、ふと雅流は思っていた。
 あの雨のような三味線の音は、本当に、この人の涙だったのではないか。――
 その時の自分がいったいどんな顔をしていたか、今でも雅流にはよくわからない。
「おい、どこに逃げた」
「まだ見つからんのか」
 母屋の騒ぎが、ようやく二人の傍まで届いてきた。
 思わず志野の手を掴んで、背後に回り込んだ雅流を、志野はまるで、すべてを承知して守ってくれるように――しばらく何も言わず、ただ黙って手を握ったまま、騒ぎが収まるまで佇んでいてくれた。
 やがて二人で、手を繋いで裏庭から母屋に戻りながら、
「今の曲は、なんというんだ」そのような意味のことを雅流は訊いて、「なんの曲だか、私にも、わからないのです」と、志野が答えた。
「三味線を習っているのか」そう訊くと、「見よう見まねで弾いているだけです」少し寂しげな声が返ってきた。
 甘い花と春雨の匂いに酔いそうだった。
 雅流の記憶に残る最初の志野は、いつも春の雨と桜の香の中に佇んでいる。


     6


雪獅子(ゆきじし)ですわ」
 綺堂綾女(きどうあやめ)の返答は即座だった。
 かろうじてつなぎ合わせた切れ切れの譜面を見て――雅流が、いかに考えても判らなかった曲名を、一つ年下の男爵令嬢は当然のように言い当てた。
「この程度の曲がお判りにならないなんて、雅流様が、最近お稽古をさぼっていらっしゃるのが、よくわかりますわ」
 そんな厭味まで、邪気のない口調で言われ、雅流は閉口して紅茶のカップを唇にあてる。
「珍しく訪ねてくださったと思ったら、そんなご用事でしたの」
 同じようにカップを持ち上げた綾女は、珍しく不満気な眼差しで雅流を見上げた。
「おかしな雅流様。三味線のことなら、お母様にお聴きになればよろしいのに」
 綺堂邸。
 雅流が訪問の意を告げると、十分ほどして戻ってきた綾女は、馬場にでも出ていたのか、凛々しい乗馬服姿だった。
 額には薄く汗が浮き、頬は健康的な薔薇色に染まっている。結った髪には幅広の緋色のリボンをつけ、それが、童顔だが体格だけを見れば大人びた綾女には、不思議なほどよく似合っていた。
 言ってみれば不健全な美貌を持つ兄と対極にいるのが、この綾女という女である。
 美だけでなく才にも優れ、スポーツも万能だという話である。非常な読書家の上に、薫の前ではおくびにも出さないが、政治などにも随分詳しく、常日頃言葉が足りない雅流など、ぼやぼやしているとあっという間に論破されてしまうほどだ。
「母に見せれば……お怒りになるでしょうから」
 今も、用心深く言葉を選んで雅流は言った。卓上に広げた譜面を集め、元通りに袋に収める。
「誰のいたずらか知りませんが、邸内の庭で、譜面が破られていたのですから……、母も、面白くはないと思います」
 志野に渡してやろう――そう思い決めたのは昨夕のことだったが、夜、一人で譜面を繋ぎ合わせながら、ふと雅流は、これは――もしや、誰かの嫌がらせではなかろうかと、気がついた。
 どう考えても、志野自ら、大切な譜面を破り捨てるとは思えない。
 もとより志野に楽譜など買える余裕があるはずがないし、彼女のものだとしたら、それは間違いなく母から賜ったものだろうからである。
「まぁ、そうでしょうけれど」
 何故か曖昧な言い方をし、綾女はわずかな溜息を洩らした。
 この令嬢の頭のよいところは、婚約している兄の前では、決して気鬱な顔も、小賢しい顔も見せないところである。
 が、その反面、不思議に気を許している雅流の前では、我儘も言うし、怒りもする。今のように、露骨に不機嫌な顔をぶつけてくる時もある。
 けれど、雅流にしてみれば、時折異世界の人のように理解不能な態度を取る綾女の心情を読みきるほど、この令嬢の扱いに慣れているわけではない。
「お邪魔しました。用というほどのことでもないですが、たまたま近くに寄ったものですから、ご機嫌伺いのついでにお聞きしたかっただけですよ」
 今日の綾女さんは、どうも機嫌が悪いらしい。そう思いながら、雅流は立ち上がって辞去の支度をし始めた。
 ――雪獅子。
 自身の胸に、その曲名をやきつける。どこかで、確かに聞いた曲のような気もしたが、三味線から心が離れてしまった今では、即座に記憶は喚起されてはくれなかった。
 今から、黒川の祖父の所へ行き、――確かに最近稽古をさぼっている雅流には敷居の高い場所ではあるが――、とにかく行き、破れた譜面をもう一度手に入れてくるつもりだった。
 どういう事情かは知らないが、大人しい志野のことだ。おそらくは母にも言えず、窮しているに違いない。
 それが、誰かの悪意あるいたずらなら、なおさら母には言わないだろう。
「聞いておりますわ。雅流様のご縁談のこと」
 不意に、背後の綾女が、棘のある声で切り出した。
 上着を手にしたまま、雅流は思わず振り返っている。
「降るほどあるお話の中で、どれを選ぼうかと、随分お迷いになっているそうですのね」
 妙に険のある言い方である。
「迷っているのは僕ではありませんよ」
 戸惑うよりは、むしろむっとして言い返すが、
「あら、じゃあ、雅流様は、もうお相手を心に決めておられるのですか?」
 逆に厳しく言い返される始末である。
 何故、綾女が怒っているのか判らず、雅流は訝しく眉を寄せた。
「母に任せているんです。迷うのも選ぶのも母ですよ、僕じゃない」
「よろしいのかしら、ご自分の結婚に、そうも消極的でいらっしゃるなんて」
「……別に」
 ご自分の結婚も、そうではありませんか。
 と、言いかけた言葉を、雅流はかろうじて飲み込んだ。
 どういった事情か縁かは知らないが、綾女と薫は、いってみれば生まれる前から婚約が成立している間柄である。
 双方の父が決めた縁組で、そこに、二人の意思は一切頓着されていない。
 兄の気持ちが判らないように、目の前に座る綾女の気持ちもまた、雅流には時々判らなくなる。
 一見、従順に薫を慕っているようにみえて、その実、彼女の持ち前の頭のよさで、理想的な婚約者を演じているだけのような気もするのだ。
「以前、薫様が言っておられましたの」
 妙に静かな横顔を見せて、綾女は紅茶を一口飲みほした。
「雅には昔、好きな女の人がいたんだって……。でも、その人に裏切られて、すっかり女性嫌いになってしまったんだって」
「………」
 一瞬唖然とした雅流は、すぐに激しい反駁に突き上げられて口を開いた。
「馬鹿馬鹿しい!」
 声を荒げても、綾女は、水のような静かな眼差しを動かさなかった。
「ご存じのとおり、僕は十五まで男ばかりの寄宿舎で育ちましたからね。これまで女性と親しくする機会なんぞ、いっそもありはしませんでしたよ。いったい兄が、何を言っているのか知りませんが、とんでもない作り話です」
「私、存じておりますわ。その譜面がどなたのものだか」
 ふっとできた心の隙間に、切り込んでくるような声音だった。
「破って棄てられたのは鞠子(まりこ)様です。お気の毒とは思いましたけど、私が格別、志野さんに肩入れする必要もありませんから」
「……どういう意味です」
 鞠子姉さんだろう、という予感は薄々とだが確かにあった。
 だからこそ、雅流は、母に告げることを潔しとしなかったし、鞠子と共に母に稽古をつけてもらっている綾女なら、何か事情を知っているかもしれないと思ってここまで来たのだ。
「もう一つ、当てて差し上げましょうか。雅流様は、これから黒川に行かれるおつもりなのでしょう」
 言葉に窮した雅流は、見知らぬ女を見るような気持ちで、冷たい横顔を見せている綾女を見つめた。
「行ったところで無駄ですわ。だって、破られた譜面は、この世に二つとないものなのだそうですから」
「……――二つとない?」
 思わず訊き返した雅流に、綾女は横顔だけで頷いた。
「破られた譜面は確かに雪獅子ですけれど、それは、この世にたった一つしかない雪獅子なんだそうですわ。黒川の家元と、御園様がお二人でお作りになった」
「…………」
 その言葉で、閃くように雅流も思い出していた。
 いつだったか――黒川流の演奏会で、母と祖父が連弾していた曲。元曲に大胆な変更を加えて、大きな喝采を浴びていた曲。それが、雪獅子だったのではないか。
 あの日は、姉弟全員が観客席に座っていて、姉の鞠子は興奮気味に「次の定演会では、私が必ずお母様とあの曲を演ってみせるわ」そう言っていたのではなかったか。
「御園様は、芸事に厳しい方ですけれど、もう少し娘である鞠子様を、気遣って差し上げてもよろしいかと思いますわ」
 初めて見るような眼が、じっと雅流を見上げている。
 雅流は動けないまま、一気に大人びたような綾女の顔を見続けていた。







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