「雅流――?」


 
 機嫌のいい母の声――。
 ああ、またか、と、まどろみの中で雅流は思う。母さん、俺はもう、
「見合いなどしませんよ」
 言葉にしてから、淡い闇に閉ざされた視界に気がついた。
 ――……ああ。
 雅流は、ゆっくりと半身を起し、重苦しく視野を覆う帳に手を当てた。 
 指に触れるのは固く覆われた包帯の感触。オキシドールの鼻をつく匂い。
 夢だった。――随分と長い夢。
 何年も昔の、ひとりよがりの恋をしていた頃の夢。
「なぁに、雅、いったい何の夢を見てたのよ」
 呆れたような、笑いを含んだ姉の鞠子の声がした。
「呼んでも揺すっても起きないから、てっきり死んだのかと思ったよ」
 薫の声。
「あら、雅流さんは滅多なことじゃ死にはしませんわ。なにしろ、我が家で一番強運を持っていらっしゃるんですもの」
 隣で、綾女の声もする。
「そろそろ先生がおいでですからね。雅流、支度をしておかないと」
 母の、急かすような声には、不安を無理に押し隠したような色がある。
 その理由を察し、雅流は、あえて作った笑顔を、母のほうに向けていた。
「母さんに、見合い話を散々勧められていた頃の夢を見たよ」
「まぁ、それも全部お前のためだったというのに」
 たちまち母の声がむっとする。
 あの年の翌年、昭和十六年の十二月、日本はハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、時代は、約四年に及ぶ太平洋戦争に突入した。
 自由な言論も芸術さえも封印された暗黒の時代。米国の海上封鎖により、父の海運事業は壊滅的な打撃を受け、櫻井家は破産も同然にまで追い込まれた。
 あれから、――色々なことがあった。
 過去として流すには、あまりにも辛すぎた綾女との過ちや、いっそ兄を殺して自分も死のうとまで思いつめた日々。
 実際、志野を自分の手で兄に渡してしまった夜から、雅流はいつも、どこかで自分の死に場所を探していたような気がする。
 それでも、生きている。
 死地を超えて生き抜いて、戦争と、ある意味それより酷いしがらみを超えて生き延びた家族たちと、こうして今、同じ場所で笑いあっている。
 かろうじて感じられる光のほうを見上げ、雅流はわずかに苦笑した。
 それで、もう十分だ。
 一度は死まで宣告された身で、命を取り戻すことができたのだ。ほかに、何を望むだろう。
 例え――このまま、永久に光を失ったとしても。
 一度、戻った視力が再び闇に閉ざされたのは、夏の終りのことだった。
 すでに米国から担当医を招いて手術の用意に入っていたが、この急変は、医師にも予測できなかったらしく、原因とおぼしき血腫を除去してみるまではなんとも言えないと、事前に諦めにも似た宣告を受けてはいた。
(なんてむごい……)
 知らせを息子の口から聞いた母は、どれだけ慰めても聞かず、ただ一晩中泣き続けた。
(なまじ、光を戻してから取り上げるとは、神様はどこまで雅流を苦しめれば気がすむのかしらねぇ)
 見えたり見えなかったりの不安定な視力から、いつか、この日がくることを覚悟していた雅流には、母ほどの衝撃はなかったものの、それでも、運命の皮肉には、苦い笑いを禁じえなかった。
 もともと諦めていた光である。たとえこのまま失明しようと、夏前の自分には、視力になんの未練もなかった。けれど、今は、全くないかと言えば嘘になり、強がりになる。
 今一度、どうしても――見ておきたいものがあるから。
「いいですか、包帯を解きますよ」
 医師の声がして、分厚い包帯を切る鋏の音が、視野の閉ざされた聴覚に重苦しく響く。
 目を覆っていた重い戒めが外れ、掠れた音を立てて膝の上に散らばった。
 眩しい――。
「櫻井さん、ゆっくり眼を開けて――見えますか? 私の手が見えますか?」
「…………」
 光。
「櫻井さん? こっちを見て? 見えませんか? わかりませんか?」
「雅、どうなの?」
「雅流、何か言いなさい!」
 皆の声が、ひどく遠くで聞こえている。
 光――光の中。
 光の中で、ずっと探していた人が待っている。
 僕が、ずっと見たかった、透き通るような笑顔を浮かべて。
「え、ちょっ、櫻井さん、まだ立っちゃ駄目ですよ」
 部屋の隅で、控え目に立っている人の傍に歩み寄り、雅流は静かに、その人の頬を抱いていた。
「身体はどうだ」
「大丈夫です」
「声がしないから、いないのかと思った」
「……いつだって、います」
 綺麗な瞳が、水の底に沈んでいる。夢の続きのような眼も、鼻も唇も、今はもう全て雅流のものだった。
 両手で顔を覆って嗚咽を始めた妻の身体を、雅流は強く抱きしめた。
 もう、二度と泣かないでくれ。
 これからは、――いつも笑って、笑顔だけを見せてくれ。

「雅! あんたはもう、見えるなら見えるといいなさい!」
「お姉様、雅流さんの眼は、どうやら志野さんを見ることしかおできにならないようですわ」
「帰ろうぜ、馬鹿馬鹿しい」
「雅流……お前って子は……」

 外には早咲きの桜が舞っている。
 春の午後。柔らかで優しい、透明な陽射し。
 この春が過ぎれば、新しい家族が一人増えるだろう。

(こんな夜更けにどうなさいました。お怪我でもなさったのですか)
(いい子だから、じっとしていらっしゃい)

 あの出会いを。
 君は、覚えてはいないだろうけど。

 でも僕は、今でも胸の裡で知っている。
 僕にとって君は、永遠の光。
 出会った最初から、こうして結ばれる運命だったと――。












end


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