3


 庭に出ると、風には匂うような春の香がたちこめていた。
 眼に、唇に、桜の花びらが煩いほど舞い落ちてくる。
 石楠花に囲まれた池の(ほとり)、桜の樹の下に、やはりもう、春夢のような人影はなかった。
 確かに志野のように見えた――。
 眼をすがめて、風に髪をなぶられながら、雅流は、幻のようにこの場に立っていた人の残像を探し求めた。
 黄昏の庭には、ただ、春の花びらが幽玄と舞い交うだけで、まるでこの世から切り取られた別の場所のように、人の気配はどこにもない。
 ――本当に幻……だったのかもしれないな。
 やがて春曇りの空を見上げ、雅流は思わず微苦笑していた。
 志野とは、雅流が六つの時、母に連れられて屋敷にやってきた四歳年上の娘である。
 数えで十だという少女は、すらりと背の高い抜けるような色白で、瞳は墨のように黒々と濡れ、黙ってうつむいているだけで、内部に純白の花の蕾を抱いているような清らかな輝きを放っていた。
(――母さまが綺麗な姉やを連れてきた)
 志野のことは、たちまちその夜のうちに、兄弟の間で興味と興奮を持って語られた。
 女中見習いだという話だが、あれほどきれいな人が、ただの女中であるはずがない。
 あるいは、母さまが、どこぞの高貴な家から引き取ってきて、うちで育てるおつもりではないか。
 勝手な想像だけをたくましくし、それから一週間もたったある夜、好奇心旺盛な兄の薫に引きずられるようにして、幼い兄弟二人は、女中たちが居住している別間にこっそり忍び込んだのだった。
 表裏のけじめに厳しい母の言いつけもあって、決して足を踏み入れてはならないといわれていた、離れにある別間である。
 今でも雅流には、兄が何を思って寝所に忍び込もうと言い出したか判らないし、で、当時八つか九つだった兄にも判っていなかったに違いないのだが、それでも、何かしら禁忌な、胸がおどろときめくような不思議な胸騒ぎに駆られるように、その夜の、小さな、けれど伯爵家の子息という立場や名誉を考えると危険きわまりない冒険に、雅流もまた加わったのだった。
 ――が、子供二人がいくら小賢しく隠れようと、不審な足音はあっさりと聞き咎められる。
 おそらく、すわ、泥棒かとでも思われたのだろう。女中部屋はたちまち大騒ぎになり、寝泊まりしていた書生たちも起きだし、小さな悪戯は思わぬ大騒動に発展した。
 怒声と手提げランプが追ってくる中、立ちすくむ雅流を、あっさり見捨てて薫は逃げた。
 兄の性癖からいって、こうなった以上、何がどうなっても、雅流一人が、罪を被せられるのは明白である。
 逃げ場に窮した雅流一人が、春の小雨がしとしとと降る庭に迷い込み――、そして、あの音に出会ったのだった。


       4


 春風が池の水面を震わせた。
 春の香に誘われるように過去の回想に想いを馳せていた雅流は、ふと、水底に沈む、花びらとは異質のものに目を止めていた。
(……なんだろう)
 白くふわふわと、水流にたゆたうように、水底の藻に引っ掛かっているそれには、細かな文字が今にも水にとけそうな危うさで滲んでいる。
 水際から手が届く距離ではない。――
 雅流は不思議な好奇心に誘われるように、靴を脱ぎ、くるぶしまで水につかりながら、揺れる紙片をそっと水中から引き上げてみた。
 ――譜面だ。
 三味線の譜面の切れ端。
 頭上を見上げると、同じような切れ端が、桜の木枝に引っ掛かって揺れている。一見桜の花と見まがうほどの細かさで、ひらひらと、と風に舞っているものもある。
 三味線の譜面なら、この櫻井屋敷の中ではさほど珍しいものではない。
 母はおろか、姉の鞠子、薫、そして雅流もまた、幼い頃から手習のようにたしなんでいるからだ。
 が、珍しくはないものの、いかにも破り取られた切れ端が、木々や池に沈んでいるなど、尋常な事態ではない。
 師匠でもある母は何より譜面を大切にし、例えば雅流が、手あかをつけたり折り曲げたりするだけでも、厳しくしかり飛ばすような人だからだ。
 水底から拾い上げた紙片は、ずいぶん長く放置されていたのか、雅流の手のひらで淡雪のように崩れて溶けた。
 樹の上には――まだ、幾枚かの欠片が引っ掛かったまま、風に煽られて揺れている。
 ああ、そうか。
 今、初めて目が覚めた人のように、雅流は、先ほどこの場所に立っていた志野が、空に向かって懸命に手をのばしていた理由を理解したのだった。
 これは、志野の譜面に違いない。
 女中の中で、唯一、母手ずから三味線を教えこまれている志野は、夜、暇さえあれば三味線の稽古ばかりしている。その腕は雅流が見る限り、かなりの上級で、母が相当入れ込んでいることも知っている。
 が、なぜ、志野が――ある意味息子の自分たちより母の性癖を知りつくしているはずの志野が、自らの譜面を、こうも無残に破り散らしてしまったのか。
 花香に吸い寄せられるような誘惑にかられ、気がつくと雅流は、手に届く限りの譜面を拾い集めていた。
 丁寧にしわをのばし、書かれている譜をよんでみる。
 なんの曲だろう。
 見る限り、どの旋律にも覚えがない。
 それでも、雅流は、胸に不思議なさざ波が立つのを感じながら、紙片を大切に懐の中におさめた。
 志野に、渡してやろう。
 あの人は喜んでくれるだろうか。
 それとも、以前、突然声をかけてひどく驚かれた時のように、迷惑だと思われるだろうか。
「…………」
 不意に雅流の中に、とうに忘れていた想いが色鮮やかによみがえった。
 それは彼の唇に久しく浮かばなかった笑いを滲ませ、同時に苦い思い出をよみがえらせもした。
 紙片を収めた胸元を、雅流はそっと手で押さえた。
 十年前の春雨の夜。
 もう、あの人は忘れているかもしれないけど。
 初めて言葉をかわしたあの夜のように、澄んだ音色のような笑顔を、もう一度みせてくれるだろうか――。







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