僕だけが、この世界で誰より君を。

幸せにできると信じていた。

あれは、まだ、十六の春。






           1


雅流(まさる)、ちょっといいかしら」

 母の声が上機嫌な理由は、最近、いつも同じことに限られている。
「こちらのお嬢様なのだけどね。九条様の外姻にあたられるのだけど、年の頃も容姿も申し分ないし、お前、どう思いますか」
 口を開きかけ、しばらく躊躇(ためら)ったものの、雅流は諦めて母の対面に腰を下ろした。
 春の初め。
 飴色の陽射しが、穏やかに、櫻井家の居間に降り注いでいる。
 外から戻ったばかりなのか、西洋長椅子に腰かけている母は、蓬色の訪問着をまとい、髪も美しい丸髷(まるまげ)に結いあげていた。
 卓上には、緋の天鵞絨(びろうど)に覆われた写真がいくつも並んでいる。
 どの写真に写っているのも、あでやかな振袖をまとった美しい女性ばかりだ。
 楽しげに別の写真を開いた母は、それを雅流のほうへ差し出した。
「こちらのお嬢様はね、雅流。お婆様が、長良川子爵の末のお嬢様で、おじい様は笹川商会の会長だったそうですよ。ただ、どうかしらねぇ、お前と並んで立つのなら、もう少し背が高いほうがよいのかしら」
「どちらでもかまいませんよ」
 雅流は、庭の木々に目を遣りながら曖昧に返事をした。
 明治に西洋の庭を模して造られたという風変わりな庭園には、今、春の草木が盛りとばかりに咲き乱れている。
 梅、桜、桃、撫子、水仙、芝桜。――
 春夏秋冬、季節ごとに様々な顔を見せる庭は、かつて櫻井家が華やかなりし頃には、貴婦人たちの憧憬の的であり、著名な画家が幾度も題材にしたと言われている。
 風に花びらがゆらゆらと舞い散っている。淡雪のようだ――。そう思った時、一人の女の姿が突然、まさに絵画としか思えない春雪たゆたう風景から飛び出してきた。
 純白の石楠花(しゃくなげ)が咲き乱れる池の畔で、黒の洋装に白いエプロン姿の女、――これもまた西洋を模した女中の制服なのだという――が、一人、傍らの桜に向かって、懸命に手を伸ばしている。
 雪とみまがうほどに花びらが舞う、うららかな春の庭。おぼろと霞む女の姿は、あたかも幻影のようにも見えた。
 何をしているのだろう。
 まるで……空を掴もうとでもしているかのように。
「雅流?」
「はい」
 虚を衝かれた雅流は、不必要に不機嫌な声を出していた。
 しばらく息子を見上げていた母は、やがて気鬱な溜息を吐く。
 翳る母の表情に、わずかな後ろめたさを感じたものの、いつもと同じように、誤解を解くだけの語彙を、雅流は持ち合わせていなかった。
「雅流……」
 ぱたん、と最近めっきり老いた母の手が、写真を閉じた。
「お前はいったい、自分の結婚をどう思っているの。いつも他人事のような顔をしてばかりで。気が乗らないのなら、はっきりとそうお言い」
 黙ったまま、雅流は窓の外を再度見る。
「確かに、十六のお前に婚約の話はまだ早いとは思いますがね。このご時世ですから、よいお話がいつまでもあるとは限らないのですよ。……お父様の仕事が上手くいっていないのは承知でしょう」
「ええ」
 桜の下に、もう、幻のような女の姿はどこにもなかった。
 あれは、確かに志野だった。
 そう思いながら、何か自分が、非常に大切なものを忘れているような気がしたが、春風のように掠めた思いは、やはり風のように流れていった。
「僕の結婚なら、全部母さんに任せていますから」
 雅流は言って、立ちあがった。
「雅流」
 呟いた母の唇から、諦めのような溜息が洩れる。
「何度も言うようですが、お前が嫌だというなら、結婚なんぞお断りしてもよいのですよ」
「母さんがいいという人なら、僕に否やはありませんよ」
 口調を緩めたつもりだったが、やはり母は、どこか寂しげな微笑を浮かべただけだった。
 判っていても雅流は――その憂鬱を、慰めるだけの言葉を、口にすることができないでいる。
「もうよろしい。写真は後で部屋に届けさせますから、夜にでもゆっくり見て御覧なさい」
 冷たくなった母の声に無言で頷き、雅流もまた、かすかに息を吐いてきびすを返した。
 いつの頃からか、母と息子双方の間には、目に見えない壁のようなものができている。
 それは、雅流が、無邪気に母に甘える時期を超えてしまったせいかもしれないし、母が自分に注ぐ過度とも言える愛情を、時に態度で示して拒否しているせいかもしれない。
 が、雅流が、母とあえて距離を開けたい真意は別にあった。
 口にするつもりのないその理由は、むしろ、母のためでもある。――


        2


 母の居室を出ると、丁度出かける間際らしい兄が、階段を降りてくるところだった。
「よう、雅」
 雅流にとっては二つ年上の兄、薫。
 階段を降りた薫は、いつものように、やや皮肉な目で弟を見上げた。
 洋装に黒のインパネス。颯爽と立つ薫は、同性から見ても、はっと目を引くほどの凛々しい美貌の持ち主である。
 透き通った色白の肌。青みを含んだような切れ長の瞳。柔らかくうねる褐色がかった髪。
(――お若い頃の御園さんに瓜二つですわねぇ)
 と、旧知の親類によく言われるように、今も兄も面差しには、母と同じで冷たい――どこか他人を寄せ付けない冷徹な色があった。
「今から桔梗屋に行く、雅もどうだ」
「おれはいいよ」
「真面目な雅はそう言うと思ったよ」
 薫は、美しい顔には、不釣り合いな粗野な笑みを浮かべると、歩み寄ってきて雅流の肩を抱き寄せた。
「お前ももう十六だ、そろそろ、女を知ってもいいんじゃないか」
 耳元で、囁くような声だった。
 桔梗屋とは日本橋にある名高い芸者屋で、薫が最近通い詰めている店である。
 雅流は眉をしかめ、兄の腕を振り払った。
「いいよ、三味線の稽古がある」
「優等生だな。雅」
 薄い唇を広げて笑うと、薫はわざとらしく肩をすくめた。
「でも、次は、上手く表情を作る稽古でもしてみろよ。目が俺をバカだと言っているぜ」
 雅流の表情が翳ったのは、兄の婚約者、綺堂(きどう)家の綾女(あやめ)のことを想ったからだ。
 幼いころから兄と婚約を交わしている綾女は、雅流にとって妹同然の存在である。
 まだ結婚の意味さえ知らない幼い少女もまた、雅流を実の兄のように慕っている。
(雅流様、薫様のお好きなものは何でしょう。私、お母さまに、料理を習っているのですけど)
(ねぇ、雅流様、薫様は、今日はどこへおいでですの)
 実のところ、雅流は、薫を疑いもしない綾女が憐れで仕方ないと思う時があるのだった。
 いったい、この兄は、綾女との婚約をどう考えているのか――。
 と、雅流が眉をひそめてしまうほど、最近の薫の女遊びは、度を越しているからだ。
「しかし、大変だね、お袋のお気に入りも」
 冷やかに眉あげ、薫は軽蔑にも似た眼差しを、雅流の背後の扉に向けた。
 背後の扉は、母の部屋に通じている。多分、兄の眼差しは、扉の向こう、部屋にいる母に向けられている。
「どんな才女がお前の嫁に選ばれるのかねぇ。なにしろ、お袋が眼に入れても痛くないほど可愛がっている、雅流様の結婚相手なんだから」
「……どんな相手も、綾女さんには敵わないよ」
 抑えきれない反駁(はんぱく)は、ただ、綾女への憐れさが募ったからである。
 言って、即座に後悔したのは、最近の兄が、自分と綾女のことを妙に勘ぐっているせいでもあった。
 一瞬驚いたように目を開いた薫だったが、すぐにその驚きを表情から消すと、不思議な微笑を口元に浮かべた。
「それはそれは」
 再び冷やかな目が扉の向こうに向けられる。
 いつもそうだが、兄が母を――あたかも汚れたものでも見るような眼差しの意味が、雅流には判らない。
 まだ十代の初めのころ、兄はむしろ美しい母を憧憬してやまず、いっそ、信仰にも近い愛を抱いていたように思えるのに。――
「じゃ、いっそお前が綾女をもらってやれよ。お袋も、さぞかし喜ぶだろうさ」
 あざけるように言い放ち、薫はインパネスを翻した。 
 しばらく遠ざかる足音を聞いていた雅流は、やがて嘆息してその場を離れる。
 兄が、こうも母を毛嫌いするようになった理由はなんだろう。
 ある時をきっかけに、眼さえあわさなくなったのは。
 そして、雅流の気のせいでなければ、兄の怒りは、そのまま自分にも向けられているような気がする。
 それについて雅流は、雅流なりに思い詰めていることがあった。
 よもや、母さんが、俺ばかりに情をかけるせいではないだろうか。――
 腹ちがいの姉はもとより、母と瓜二つだと称される兄よりも、雅流は自分が母に愛されているという自覚がある。
 単に末の子だからだろうが、それだけではないもっと深い何かが、自分を見つめる母の眼差しにはあるような気がする。
 その深すぎる情の理由も意味も、雅流には皆目見当もつかないのだが、それが兄を駄目にしているのではないか、と思えて仕方のない時があるのだ。
 というより、兄の目が、憎しみを帯びて自分と母に向けられる時、それ以外の理由を、雅流には思いつくことができない。――
 最近の薫は、女遊びに耽っているだけではない。学校では性質のよくない友人たちと集い、学問も、幼い頃からたしなんでいる三味線さえも、おざなりにしている。
 雅流にしても、今更、年長の兄に同情したり、過分な気を回す必要はないと判っている。けれど、それによって悲しむのが、結局は母と綾女であるなら、――放ってはおけないとも思う。
 だからこそ、いつの頃からか雅流は、常に兄より控え目に振る舞い、時に愚かであろうとし、何より母との距離を開けようとしている。
 が、それが逆に、優しい母を悲しませていることを――知りながら、やはり何もできないでいるのだった。








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