第二部

      一
 
 復員する者、引揚げて来る者、それを待つ者。
 怒号と悲喜が入り混じり、悲鳴のような喧噪が共鳴している駅のホームで、櫻井御園は、ショールを握り締めたまま、今日戻ると連絡のあった人の姿を待ち続けていた。
 本当に帰ってくるのだろうか――あの手紙は、夢か、はたまた悪戯ではなかったのだろうか……。
 昭和二十一年。
 日本が敗戦してから、約一年が過ぎようとしていた。
 陸軍将校としてルソン島に送られた御園の息子は、終戦直前の一掃攻撃で行方不明となり、同部隊の者の証言等から、いったんは死亡が伝えられた。
 が、――戦後半年以上たってから、捕虜として米軍に捕らえられていることが判ったのである。
 終戦後の戦場で、怪我をして動けないでいるところを、米軍に収容されたらしい。同じように怪我をした米国兵士と、助け合って飢えをしのいでいたのが幸いし、すぐに病院に収容され、危うい所で一命を取りとめた。
 息子が、なかなか祖国に帰国できないでいたのは、怪我のためだけではなかったらしい、片言の英語が喋れたため、当時混乱の極みにあった捕虜施設で、即席通訳として重宝されていたようなのだ。
 数年前なら、鬼畜米兵に加担する非国民とののしられたであろう、そんないきさつも、戦後、人々の意識が手のひらを返したように一変してしまった今では、逆に羨ましがられる始末だった。いずれにせよ、御園が最も愛した息子は、生きていたのである。
 ――雅流……。
 御園は、しかし、これから先の雅流の人生を思い、ややすれば絶望で眩暈がしそうになっていた。
 手紙の中ではっきりと、宣告された事実がある。
 雅流は、爆撃の衝撃で頭を強打し、身体に、深刻な後遺症を負ってしまったのだ。
 生きていられたのが、奇跡です。母さん。
 一行だけの、その、のびのびとした筆跡には、いっぺんの曇りも憂いも感じられなかった。そしてそれだけが、今、息子の帰りを待つ御園の支えでもあった。
 ホームに、新しい汽車が滑り込んでくる。
 御園ははっとして顔を上げた。
 停車した汽車から、なだれのように人の波が溢れ出て――その最後に、一際長身の男がゆっくりと現れる。
 復員服に、深く被ったつば付きの帽子、そして黒い色眼鏡。杖をつき、どこか頼りない足取りで汽車から降りてくる男は、一目で視力を失っていることが判る風体をしていた。
「……雅流……っ」
 人目もはばからず大声を出し、押し寄せる人を掻き分け、御園は一目散に四年ぶりに会う息子の元へ駆け寄った。
「母さん……?」
 すぐに、懐かしい声が返ってくる。
 日にやけて、精悍さのました肌。いっそう逞しくなった肩と胸。
 御園はものも言わずに、息子の身体を抱き締め、腕に触れ、肩に触れ、確かな生を確認して――顔を覆う眼鏡を外した。
 まだ信じられなかった。まだ、ここにいる男が、確かに息子だという実感がわかなかった。
 眼鏡を外された途端、雅流は目を険しくすがめて瞬きをする。
 御園は胸を打たれた人のように動きをとめ、初めて見るような息子の顔に――別人のようになった表情に、言葉を失ったまま見入っていた。
 黒目がちの綺麗な双眸。瞳から表情が拭い去られているせいか、そこに、かつてのような、ぎらぎらとした野性的な輝きはない。ただ、水を湛えたような、静かな光があるだけだ。
 それは、かつて御園が一度だけ犯した過ち――いや、生涯でたった一人愛した人に酷似した表情でもあった。その人も、東京を襲った大空襲で今はもうこの世にいない。
「雅流……」
「母さんの声を、久しぶりに聞きました」
 見えないはずの母を見下ろし、雅流は照れたような苦笑を浮かべる。ようやく御園は実感した。この子は生きて、そして確かに戻ってきてくれたのだと。
 せき止めていた涙が溢れ出し、御園は口を覆って込み上げる嗚咽に耐えた。
「お前……本当に、よかった……よかった……」
 死んだと思った方がよい――そう知らせを受けた時でさえ泣かなかった御園だが、もう涙を堪える必要は何もなかった。ただ、愛しい命を抱き締めて、気が済むまで号泣した。
「もう泣かないでください。母さんも、他のみんなも変わりはありませんか」
 いつまでも続く母の激情に辟易したのか、雅流が困惑気味に背を撫でてくれる。
「ええ、ええ、変りありませんよ」
 涙を拭いながら、御園は、初めて息子の視力がないことに感謝した。
 生糸のように真っ白になった髪は、櫛で削るごとに日々薄くなっていく。骨と皮ばかりに痩せた身体は、戦後、食料事情が多少ましになってからも、一向に元には戻らない。
 息子の腕を支えながら、御園は人ごみを避けて歩き出した。
 そして、言い難いけれど――避けては通れないことを、少しずつ、帰りの道中で語り聞かせた。
「お前が戦争に出てから……空襲がますます激しくなったのですよ」
「東京に大きな空襲があったのは、……向こうで聞きました」
 雅流の横顔も、少しだけ厳しくなる。
 櫻井の屋敷は全焼した。幸い屋敷の者は全て生き延びたが、綾女の生家である綺堂男爵家は、最も爆撃が激しい地区にあったため、一家全員が焼死した。逃げる間さえなかったらしい。
 綺堂男爵は雅流の父である。
 母の不義を息子が察していたことは、戦前、母子で話し合った時に聞かされたことでもあったし、御園自身が予感していたことでもあった。
 実父の死は、すでに覚悟していたことなのか、それを聞いても雅流の表情は静かなままだった。
「鞠子のところも、鴨居子爵が、腸チフスかなにかで……本当にあっという間のことでした。人の命とは、本当に儚いものですよ」
 頼りにしていた鴨居、綺堂両家が相次いで倒れ、櫻井家はますます窮した。実際、その日の衣食にさえ事欠く始末だった。
「黒川の家は無事でしたか」
「無事といえば、無事でしたが」
 御園は苦く微笑した。戦争は――本当に、かつての日常を何もかも奪ってしまった。
「……黒川流も活動自粛が軍から要請され、派は解散寸前のところまで追い詰められてしまったのです。お屋敷は空襲で焼かれ、お父様も随分な目にあわれたのですよ」
「では、うちが頼りにする親戚は、もうなくなったのですね」
 息子の問いに、御園は「ええ」と、力なく頷いた。
 頼るべき親戚は全て倒れ、東京の食糧事情はなお悪くなるばかりだった。国民の誰もが飢えて、痩せて、栗も柿もまだ青い実の内に片端からもがれ、主食は米から芋に代わった。
 そんな中、いっそう深刻な状態に追いこまれていったのは、アカ屋敷として、空襲後もなお差別的な扱いを受け続けていた櫻井家だったのである。
「配給もなくなり……食料を分けてくれる人もなく、うちの者は餓死寸前でした。それを……綾女さんが、色んなところから野菜などを調達してきてくださって」
 あの人には、本当に足を向けて眠れないほど感謝していますよ。
 そう続けて、御園は再度涙ぐんだ。
「お屋敷が空襲で焼けた時もそうでした。私一人が火の中に取り残されてねぇ……もう駄目だと思ったところを助られて……後で聞くと、綾女さんが、焔の中、助けを求めて人を呼びに行ってくださったそうなのです。本当に薫はいい嫁をもらいました。私の命の恩人ですよ、綾女さんは」
「綾女、さんが……」
 雅流も、感極まったようにその名を呟く。
 御園は涙を拭いながら続けた。
「土地も何もかも売り払って、小さな家と畑を買ったのですよ。綾女さんは、その畑で、ナスやトマトを作られたりして……あのお嬢様が、それは、それは、たいした働きぶりなのです。お前も見たら驚くと思いますよ」
 それには、雅流はわずかに笑んだだけだった。
「それから、薫は」
 不肖息子の名を口にして、御園は自然に眉をしかめていた。
「仮病だと思ったら、どうやら本当に胸を病んでいたらしいのです。医者は軽いものだから、滋養をつけていれば大丈夫でしょうというのだけど。それをいいことに、相も変わらず、働きもしないでぶらぶらしていますよ。私は、綾女さんに申し訳なくてねぇ」
 それまでほがらかだった雅流の表情に、わずかな陰りが浮かんだ気がした、が、そう思えたのは一瞬だった。見えない母を励ますように雅流は微笑した。
「多分、綾女さんは大丈夫ですよ。彼女は逆境になるほど強くなれる人ですから。本当に兄貴に愛想をつかしたのなら、さっさと離婚して家を出ているでしょう」
「そうねぇ、確かに綾女さんは強いわねぇ」
 やはり血は争えない――四年も離れていながら、こうもずばりと綾女(いもうと)の本質を言い当てる雅流に、御園は内心怖いものを感じながら、あえて明るく相槌を打った。
「そうそう、それから志野のことだけど」
 これだけは、雅流に聞かれる前に言ってやるつもりだった。
「戦中に一度、正式に婚約した旨の手紙が届いたのですよ。私も口惜しいから、のぞいてはいないのだけど、高岡の息子さんは無事に復員されたそうだし、幸せにやっていると思いますよ」
 そうですか。
 雅流はそう言ったきりだった。
 再び黒眼鏡に覆われた顔からは、その刹那息子が感じたであろう感情を読み取る事はできなかった。



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