二

 郊外の田舎で購入した小さな建家。それが今の櫻井家である。
 戦後、わずか三間しかない狭い家で、御園は、薫夫婦と同居という形で暮らしていた。むろん、雅流を連れて帰る家は、ここしかない。
 その夜は、六畳の居間に、綾女が用意した心づくしの手料理が並べられ、ささやかな歓迎の宴が催された。
 寡婦となり、鴨居の姑と共に小さな洋服店を経営している鞠子も加わり、久しぶりに家族全員が顔を合わせることとなった。
「雅流さん……お帰りなさい」
 綾女は、しばらく顔を覆ったきり動かなくなり、薫もまた、無言で涙を堪えているようである。鞠子は泣きむせび、御園も新たな涙で頬を濡らした。
 やがて激情が収まった家族の話は、夜が更けても尽きることなく続いたが、雅流は疲れているのか、早々に別間に下がってしまった。
「私、西瓜を冷やしてまいりますわ」
 綾女が外へ出ると、鞠子が初めて、難しそうな顔になって御園を見た。
「ねぇ、お母さま、雅はこれからどうなるの」
「どうって、お前」
 いきなり冷水をかけられたような嫌な気分になって、御園はそっと眉をひそめる。
 鞠子の杞憂は、雅流が帰国する前から、御園自身が抱いていたことでもあった。
 不自由な目では、御園が期待するような職につくことは出来ないだろう。按摩の学校にでも通わすしかないのだろうが――それは、どうも雅流の性ではないような気がする。
 何しろ雅流は、まだ二十二歳を超えたばかりなのだ。健康で、美丈夫で、溢れる若さに恵まれた青年が、職業ひとつ自由に選べない事が、御園には口惜しくて仕方がない。
「仕事のことばかりじゃないわ。生活の面でもそう。雅一人ではやっていけないわ。誰かが傍についていなきゃ」
「それは私がついていますよ」
 あまりに現実的な言いように、思わず声に険が出る。
 しかし、鞠子は眉を上げ、即座に切り返してきた。
「なに言ってるの。お母様だって、もう誰かの手が必要だってことが判らないの。畑仕事ひとつできないくせに、どうやって雅の世話をしていくつもり?」
「まぁ……」
 言葉に窮し、御園は恨めしく鞠子を見上げた。
 鞠子は御園にとって義理の娘だが、戦争を通じ、義理ではない、確かな親子の情愛が芽生えていた。傲慢な所は昔と少しも変わらない鞠子だが、実のところ情にもろく、意外に面倒見がよいことを、今の御園はよく知っている。
「私がなんとかしてあげたいけど、私だって鴨居の母の面倒をみなきゃいけないし、自由な時間は殆んどないの。お金のことなら、少しは助けてあげられると思うけど」
「女中を雇えばいいだろ」
 何でもないように、口を挟んだのは薫だった。
 長かった髪は、戦後、別人のように短くなっている。かつての美青年は、病気のせいか、肌の色も悪く、黄色く濁った目をしていた。
 肩をすくめながら、薫は続けた。
「どのみち、この狭い部屋で、雅を含めて四人で住むのは無理だよ、お袋。別に一緒に暮らしたくないって言ってるわけじゃないけどさ。雅にしても、別居した方が気が楽なんじゃないのか」
「薫、お前……なんてことを」
 目の前が、暗くなるようだった。御園は思わず立ち上がりかけていた。
「この家は、櫻井の土地を売り払って、ようやく手に入れたものなのですよ。お前一人の家だと思ったら、大間違いです」
「誰もそんなこと、言ってないだろ」
 戦後、ますます短気になった感のある薫は、むっとした風に眉を上げた。
「お袋がそう言うなら、俺と綾女が出て行くよ。お袋だけならともかく、雅までいたら、いつガキをつくりゃいいんだか」
「なっ……」
 あまりの言われ様に、御園は真っ赤になっている。
「まぁ、まぁ、お母様も薫も落ち着いてよ」
 溜息をつきながら、鞠子が二人の間に入った。
「冷静になってよ。ある意味薫の言う通りなんだから。現実的に同居は難しいんじゃない? もっと広い部屋を借りるかしないと、綾女さんが可哀相よ」
 憤慨が収まりきらず、御園は口をつぐんだまま鼻だけで息をする。
「とにかく私も考えてみるわ……母さんと雅が別の部屋を借りる気なら、その程度は世話できると思う。ただ……」
 鞠子はそこまで言って口を閉ざした。
「お待たせしました、皆さん、何か冷たいものでもお飲みになります?」
 明るい顔をした綾女が、部屋に戻ってきたからだった。
 
      三

「雅を一人にはしておけないわ。誰か世話をする人を雇わないと」
 帰り際、道路まで見送りに出た御園に、鞠子は真面目な顔で切り出してきた。
「綾女さんは……どうかしらねぇ」
 迷いながら御園が提案すると、鞠子は即座に首を横に振る。
「綾女さんに頼むのは、雅にも薫にも酷だと思うわ。……特に薫は、雅に劣等感を持ってるから、また荒れそうで恐いわ、私」
 薫の性癖は、鞠子に言われるまでもなく、御園が一番よく知っている。
確かに今日、薫は、弟の帰還を本心から喜んでいたようだったが、一方で、余裕に満ちた雅流の態度に焦燥し、特に綾女の挙動に神経を尖らせているようでもあった。
 薫は――怖いのだ、恐れているのだ。弟の復員を喜ぶ反面、妻の心がまた奪われはしないかと、恐々としているのだ。
 器量の狭い子だと憎く思う反面、心の弱さが憐れでもある。また、まだ雅流との血の繋がりを知らない綾女が、再び気持ちを乱すかもしれないとの懸念もある。
「……でも……雇うといっても、今の人件費の相場は、昔と比較にならないくらい高くてねぇ。誰かを雇うなんて、とても無理ですよ」
 溜息をつきながら、御園は自分の足元を見る。
「ねぇ、お母様」
 うつむいた御園に唇を近づけて、鞠子はそっと囁いた。
「志野は、どうかしら」
 聞きたくもない不快な名前を聞き、御園は一瞬顔を強張らせていた。
「志野は……もう、結婚もしていますし、無理ですよ、今さら」
「あら、そうでもないわよ。相手は高岡の家の者でしょう? あそこにしても、志野にしても、昔はうちに並々ならぬ世話を受けたんだから、案外ただみたいな値段で、引き受けてくれるんじゃないかしら」
「莫迦をお言いでないよ!」 
 御園は厳しい口調になった。
「あんな女に世話されることを、雅流が望むとでも思いますか。かえって不愉快になるだけですよ。余計なことを言うのはおよし!」
「なによ、人が心配してあげてるのに」
 鞠子はぷいっと顔を背け、そのままいきり立つように背を向けた。
「お母様も短気な方ね。あれだけ志野を可愛がっていたのに、なんなのよ、いったい」
 
       四

 虫の声だけが、誰もが寝静まった部屋の中に響いていた。
 隣の布団では、雅流が静かな寝息を立てている。
 天井に映る池の影を見つめながら、御園は志野のことを考えていた。
(――お母様も短気な方ね。あれだけ志野を可愛がっていたのに、なんなのよ、いったい)
 鞠子の言葉どおりだった。御園は志野が可愛かった。かぞえで十になる前から、自分が手塩にかけて育てた娘同然の女である。
 可愛い――正直、別れた後でも、志野のことを考えなかった夜はないほどだ。
 愛しいゆえに、裏切られたことが許せない。可愛さゆえに憎いのだ。その心理は、鞠子にはとうてい理解できないだろう。
 志野とは、死んだ母親似の美人で、器用で頭もよく、気立てもいい娘だった。特に三味線に関しては天才的で、あの時、もし黒川に内弟子として入っていれば、間違いなく師範代くらいにはなっていただろう。
 けれど、当時の御園には内心、芸者の子にそこまでさせなくても――という、蔑視の思いがあった。いや、あると意識してはいなかったが、今思えば確かにあった。
 ――私は……愚かだった。
 今の御園は、当時の己を心から悔いていた。
 戦争が終わり、軍国主義を高らかに叫んでいた者たちの目が覚めたように、華族制度が崩壊した後、そんなものにすがって生きてきた自分の愚かしさを、御園はいやというほど思い知らされたのだった。
 志野を選んだ雅流の選定眼は確かなものだったのだと――今なら、今の御園なら素直に思える。
 けれどそれは、もはや取り返しのつかない過去の一頁にすぎなかった。
 ――志野、お前は幸せなのかい……。
 しかし志野への慈愛は、雅流の今に思いが至ると、たちまち陰ってくすんでいく。
 戦争に行ったのも、視力を失ったのも、元を正せば全て志野のせいではなかったか。
 雅流には、もう二度と志野のことで思い悩んでほしくはない。
 どんなに逼迫(ひっぱく)したとしても、この先、絶対に二人を会わせるわけにはいかない。
 いや、志野のことだけではない。雅流には、何一つ憂うことなく、今後の人生の活路を切り開いてもらいたい。
 まだ、自分の身体はさほど老いてはいない。何年かの間なら、雅流一人の面倒くらい見ることが出来る。後のことは、その時に考えればよい。どうせ、一寸的のことなど誰にも予測できないのだから。
 ――この家を出よう。
 ふと御園は、戦後、ずっと弾いていなかった三味線のことを思い出していた。
 家では、薫に遠慮して弾くのをやめていたが、もしかしたら、素人に稽古くらいはつけられるかもしれない。そうだ、黒川流の許可を得て教室でも開いてみたら、いくばくかの収入が得られるかもしれない。
 この家を出よう、そして雅流と生活してみよう。
 うとうととまどろみながら、御園ははっきりと決心していた




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