十三

「明後日、鴨居家から鞠子と、鴨居子爵様がおいでになります」
 きれいに片付けられた御園の部屋で、二人きりで差し向かいなった後、まだ喪も明けやらぬ未亡人はすぐにそう切り出した。
「……そうでございますか」
 手をついたまま、志野にはそれだけしか言えなかった。
 例の事件のあと、鞠子が櫻井家を訪れることはなくなった。
 葬儀の時ですら弔電一本きりだった。櫻井家の醜聞が、嫁ぎ先である鴨井家にまで降りかかるのを恐れたのだろう。実際、鴨井家で、あの気位の高い鞠子がどれだけ肩身の狭い思いをしているか――それを思うと、鞠子の冷たさをいちがいには恨めない。
「その時、正式に話すのだけど、いえ、お前に否やはないと、そう思ったからこそ、今まで知らせなかったのだけど」
 ほうっと御園は溜息をつき、憂鬱気に眉を曇らせる。けれどそれは一瞬で、すぐに女主人は慈愛に満ちた笑顔になった。
「志野、雅流がお前を欲しいと言っているのですよ。最初は無理だと思いましたが、事情を知った鴨居様が、お前を弟の養女にしてくださると仰って、全て上手くまとまることになりました。お前には鴨居志野として、あらためてこの家に嫁いでもらうことになります」
 言われている意味が判らなかった。いや、判っているのだけれど、それが現実の言葉だとは思えなかった。
「煩い親戚筋は、全て雅流が説得に回りました。鴨居様も鞠子も承諾せざるを得なかったんでしょう。もうそうするしか、うちが破産を免れることも、旦那様が汚してしまった名誉を取り戻すこともできなかったのですから」
 どういう意味だろう。
 頭の中で――色々な言葉が目まぐるしく回り、御園の言っていることが上手く咀嚼できないでいる。
 平伏したままの頭を上げられないでいると、頭上から振り絞るような声がした。
「私はお前を愛しています。ある意味、実の子より愛してきました。だからこそお前が憎い、口惜しくてたまらない。……母としての私の気持ちを、お前なら理解してくれると思います」
 お前の身分のことも、むろん問題ではありますが――御園はそう言いかけ、一時、言葉を途切れさせた。
「雅流は志願して出征することになったのです。表向きは櫻井家のためと言っていますが、私には判ります、あの子は、お前との結婚を周囲に認めてもらうために、軍に志願したのですよ」

   十四

「よう」
 夕闇の中、洗濯物を取り込んでいる時だった。志野は手をとめ、身体を強張らせたまま振り返った。
「聞いたぜ、お前、雅と婚約するんだってな」
 食事を運ぶ時に顔を見ることは毎日だった。けれどこうして外で顔をあわせるのは久しぶりだ。
 志野は顔を伏せたまま、間近に近寄ってくる薫の気配を感じていた。
 今日訪ねてきた綾女のせいだろうか。薫は、長く伸びた髪を後ろで束ね、わずかに無精髭の名残があるものの、いつもよりは格段にさっぱりとした風体をしていた。
 が、頬はこけ、顎は怖いくらい研ぎ澄まされ、肌の色は、どう見ても健康を損ねているとしか思えない。
 ポケットに手をつっこみながら、薫はあざけるような口調で言った。
「莫迦だ莫迦だと思ってたが、あそこまで莫迦な男だとは思わなかった。どうせ近々この戦争は終わる。黙ってやりすごせば助かる命を、むざむざ死にに行くなんてな」
 目の前の男を――殴り飛ばしたい衝動をじっと耐え、志野はただ、うつむいていた。
「おかげで俺は助かったよ。先日も陸軍大尉って人が家に来たが、俺の顔をみて、溜息ついて出て行った。酒も飲みすぎてみるもんだな。本当に身体を壊しちまったようだが、それでも戦争で死ぬよりはずっとマシだ」
 ここにもまた、浅ましく生きたいと願う人間がいる。薫を憎く思う気持ちはなかったが、同時に志野は理解した。ひとつの生が輝く時、必ず影には、誰かの犠牲が存在するものなのだと。
「婚約祝いに、いいことを教えてやるよ」
 薫は笑った。病み疲れた笑みに、荒(すさ)んだものが見え隠れしている。
 この人も辛いのだろうか――ふと、そんなことを考えてしまっていた。けれど次に耳に入ってきた言葉が、志野の身体を思考ごと凍りつかせていた。
「雅流はな、親父の実の子じゃないんだよ」
 目を見開いた志野は、薫を見た。鼻でかすかに笑い、薫は煩げに前髪を指で払った。
「お袋と、綺堂男爵の間に出来た不義の子なのさ。お袋と男爵、それから死んだ親父しか知らないことだがね。俺は親父から聞かされていたが、当の雅流は知らなかった。親父は、もっと早く雅流に言うべきだったんだ。だからああいう過ちが起きる」
 どういうことなのだろうか。
 雅流が綺堂男爵の子ということになるのなら――雅流と綾女は。
「綾女は、実の兄とも知らずに雅流に惹かれて、雅流も情に流されちまった。あいつがどれだけ悔いて、苦しんだと思う? このことは綾女に言わないでくれ、絶対に言わないでくれ――雅流は俺に土下座して懇願した。その時から、奴は俺の奴隷になったのさ」
 衝撃で足が震えた。いつだったか、夕暮れ、焼却炉の前で、苦しげにうつむいていた雅流の横顔が蘇った。
「綾女は、だからまだ、真実を知らないよ。お前と雅流の婚約を俺に話す時、妙に明るく笑ってはいたがね。……内心じゃまだ雅流への未練たらたらだろうよ」
 動けないままでいる志野の顎を、薫はいたずらでもするように掴みあげ、自分のほうに向けさせた。
「雅流はお前が好きだったのさ。最初は冗談だと思ったが、どうやら本気だったらしい。だから俺は、あいつの目の前でお前を抱くことに決めたんだ。それが俺たちが交わした取引で、俺の婚約者を、近親相姦で汚したあいつへの復讐だ」
 信じられない。いや――信じては、いけない。
 志野は自分に言い聞かせた。そんなことはない、ありえない。
「それにしても、愉快じゃないか。俺が散々、雅流の前で泣かせた女が、俺の妹になるなんてね。惨めだねぇ。俺はお前の顔を見るたびに、あの時の顔を思い出すよ。多分、一生忘れないよ」
 冷やかな指が離れても、志野は動けないままだった。
「そういう汚れきった女を嫁にする男の気がしれないね。雅流はやっぱり異常だよ。結局は不義の子だって、お袋も心底がっかりしただろうさ」

      十五

「こういうことになるなんてねぇ」
 鞠子が何度か目の舌打ちをして、口惜しそうに隣に座る雅流を見上げた。
「まさか信じられない。なんだって雅、よりにもよって芸者の子と結婚したいなんて言い出すのよ」
 紋付に羽織という正装も凛々しく、けれどどこか暗い顔で座している雅流は、何も言わずに、ただ己の膝を見つめている。
「しかも、年増よ? 雅より四つも年上なのよ? 騙されてるのよ、雅。いい加減に目を覚ましなさいよ」
 二人の対面に座る御園は、ほう、とかすかな溜息を吐いた。
「もうおよし、鞠子。話を蒸し返すのはおやめなさい。雅流が命を賭けて決めたこと。私は納得しています」
「お母様は志野がお気に入りだったから……」
 鞠子はなおも悔しげに繰り返す。傍らに座る鞠子の夫もまた、眉根を寄せたまま渋い表情を崩そうとしていない。
 貴族社会の常識で考えると、娘夫婦の反応は当たり前のものだった。華族とは、一昔前であれば、公家である。古くを辿れば天皇家に繋がる血筋なのである。
 雅流と志野の結婚は、公家と百姓が結婚するようなものだ。封建制度の厳しい時代であれば、考えることさえ禁忌のような婚姻なのだ。
「雅が出征している間、私、志野をいびっていびっていびりまくってやるから」
 ふくれたような顔になり、鞠子はふいっとそっぽを向いた。
「それが嫌なら、絶対に生きて帰って来なさいよ、雅。死んだりなんかしたら許さないからね」
「おい、鞠子」
 慌てて、鴨居子爵が止めに入る。
 この時代、戦争に行く者に「死ぬな」「生きて帰れ」と声を掛けること自体、すでに禁忌なのだった。お国のために立派に死んでくれ――家族は、母は、妻は、心で泣いてもそう言って送り出さなければならない。
「僕は、死ぬために行くのではありませんから」
 初めて表情を緩めた雅流が顔を上げた時だった。閉じられていた襖が静かに開いた。廊下に――午前の陽射しが照り返す廊下に、両手をついて土下座をし、じっと動かない人影がある。
 御園は眉をひそめていた。
 志野には、きちんとした身なりでこの場に来るように申し伝えていたはずだ。着物も用意して、事前に渡していたはずだ。
 なのに志野は、普段と変わらないなりをして、髪もひっつめたまま、平伏した顔を上げようともしていない。
「……志野、とにかく、お入り」
 これでは先が思いやられる……思いながら、御園は内心で舌打ちをした。おそらく鴨居子爵は、苦々しい思いで姪となる女性を見つめているに違いない。
「志野」
 動こうとしない志野に焦れて、再度呼びかけた時だった。
「おそれながら……」
 低頭した姿勢のまま、顔をあげない志野から、細い、糸のような声がした。
「おそれながら、申し上げます」
 志野はぎこちなく顔を上げた。姿勢は土下座のまま、手は床についたままだった。
 いつも臆さず人を見る目が、どこか苦しげに伏せられている。
「このたびのお話を……お話を聞いた時は、ただただ、恐れ入りまして、夢にも思っていなかったことに、不様に混乱するばかりでございまして……上手く……その場で、お返事をすることができなかったことを、心からお詫びいたします」
 御園は、初めて、はっと胸を突かれるような思いで顔を上げた。この娘は――志野は、縁談を断るつもりでいるのだ。まさか――そんなことを、ここまで雅流や自分たちが奔走し、ようやくまとめあげたものを――断る。今さら、そんな恩知らずなことを、この娘がするだろうか。
「一時でも、妻にと仰ってくださった雅流様。結婚を認めると仰って下さった奥様。養女のお世話をしてくださった鴨居様、鞠子様には、なんと……どのように、感謝していいものやら、御礼を言っていいものやら、無学な私にはわかりません。言葉にしようがございません。……けれど」
 そこで言葉を切り、志野は再び頭を下げた。
 畳についている指が震えている。けれど声だけはしっかりとしていた。
「雅流様のお話を頂く前に、私、とある方と結婚の約束をしたのでございます。その方もまた戦地に赴かれる身、ご恩になった奥様や……雅流様の……」
 御園は、咄嗟に雅流の顔色をうかがっていた。
 わずかにうつむいたきり、雅流はやはり沈鬱な目をしたまま、黙って志野を見つめているようだった。
「ご恩に報いたい気持ちは重々ございますが、待っていて欲しいと言って戦地へ旅立ったその方を、裏切る真似だけはできません。それこそ人道に背く事、私には……そのような真似はできません」
「志野、お前は何様のつもり?」
 激昂した声でそう言い、立ち上がったのは鞠子だった。
「よくもまぁ、そんな思い上がった口が聞けたものね。くどくど言い訳しなくても、お前みたいな女はこちらから願い下げよ」
 それでも収まりがつかないのか、鞠子は傍にあった鴨居子爵の扇子を取り上げ、思い切り土下座する女の背に投げつけた。
「出ておいき。お母様には、別の女中を探してきます。すぐにこの家を出ておいき!」
「鞠子」
 ようやく――冷静に今の事態を飲み込んだ御園は、かろうじて鞠子を制した。
 そして、いまだ動かないままの志野を見下ろした。
「志野、それが嘘でないというのなら言ってご覧。お前の相手はどなたなの」
「……おそれながら」
 高岡兵馬様でございます。
 それは、先日ここを辞して実家に戻り、明日にも入隊するはずの、若い書生の名前だった。
 なんてことだろう――御園は憤りと恥ずかしさで、耳まで赤くなるようだった。確かに当人の意思を確認しなかった私も悪かった。けれど、よもや志野が断るなど、想像してもいなかったのだ。しかも、別の男性と婚約していたなど――大切な息子の、晴れの出征を前にして、なんて、なんて恥さらしな。
 御園は怒りと眩暈をこらえ、もう顔もみたくない女から視線を逸らした。
「判りました……高岡の家とは、遠縁とはいえ、縁続き、何かお祝いをいたしましょう。面倒をかけてすまなかったわね。もう下がってよろしい」
 それでも御園は、わずかな可能性を信じ、その日の内に高岡家に使いをやった。が、返って来た返事は、志野の言葉を裏づけするものだった。
 確かに、うちの息子と志野さんは婚約している。先日息子から正式に聞かされた。志野さんは、そちらでお暇を取れ次第、うちに来ていただくことになっている――。
 返事は概ねそういうものであった。
 御園は激しい怒りと失望と、この家の体面を守れたという安堵を同時に感じていた。
 雅流と志野の結婚についていえば、確かに御園は不満だった。志野がどうこういうのではない。結婚とは家同士がするものである。そうである以上、つり合いの取れた格式は、やはり結婚相手には必要なのだ。
 が、それ以上に、御園は志野が可愛かった。実の子以上に慈しみ、大切に育ててきた娘である。それゆえに、こういった形で騙し打ちのように裏切られたことが、どう考えても許しがたいし、口惜しい。
 雅流が志野を選んだことも、志野がそれを断ったことも、御園にとっては、人生の失望以外のなにものでもなかったのである。
「雅流、志野は、明日にでも家を出ていくそうですよ」
 その夜、雅流を呼び出した御園は、激しい口調でそう言い棄てた。
「あの子はああいう娘だったのですよ。そう思って諦めなさい。高岡はいい青年です。きっと志野も幸せになるでしょうよ」
 雅流は目を伏せ、わずかに唇を引き結んだだけだった。

      十六

 身の周りの物をまとめると、荷は、驚くほど少なかった。
 小さな包みと三味線だけ。それが、志野が櫻井家で過ごした全てだった。
 目を合わせてくれないままの女主人に挨拶を済ませ、志野は櫻井家の門扉をくぐった。これまでとは違い、出てしまえば二度と戻れない道だった。
 門の側に、長身の人影が立っている。歩きだそうとした志野は足を止めた。
 陸軍のキャメル色の軍服につば付きの帽子、肩に羽織った黒のマント。陽射しが眩しいのか、雅流は少しだけ眼をすがめ、志野の前に立ちふさがった。
「今から、行かれるのですか」
 志野が口にできたのはそれだけだった。
「挨拶に……まだ、正式に配属されたわけではないから」
 雅流は静かな口調でそう答える。
 どこか遠くで、規則正しい掛け声が響く。ああそうだ、今日は隣町で竹槍の訓練がある日だった――志野はぼんやり、そんな関係ないことを考えていた。
 しばらくの沈黙の後、ようやく、思いつめたような声がした。
「断った理由は、高岡のことだけか」
 一時、逡巡し、志野はうつむいたままで首を振った。
「……許せないのです」
 雅流が何か言う前に、志野は思い切って顔を上げた。
「私が、雅流様を許せないのです」
 影を帯びた雅流の端正な顔が、初めて苦しげに歪んだように見えた。
「雅流様にどのような事情があろうと、あの離れで、雅流様と薫様に受けた仕打ちを、私は、おそらく生涯忘れられないと思います。いいえ、もう忘れてしまいたいのです。ですから、あなたの顔を、もう二度と見たくはないのです」
 雅流が何かを言いかける。志野は、それを遮るように口を挟んだ。
「私への罪滅ぼしにあのようなことを仰られたのなら、どうかもう忘れてください。二度と私に係わらないでください。二度と私に、あの夜のことを思い出させないでください」
 雅流の顔を、もう志野は見ることができなかった。
「夫となる人に、私、何も言ってはいないのです。お願いします……どうか、もう私に係わらないと約束なさってください」
「もういい」
 うめくような声がした。
「もういい、志野、俺がうぬぼれていた、俺が莫迦だった。お前の言う通りにする、もうお前には二度と係わらない、兄貴にも係わらせない、約束する」
 やがて去っていく足音を聞きながら、志野は小さく、ご武運をお祈りしています、と呟いた。
 振り返っても門扉が見えなくなるところまで歩き、そこで初めて志野は両手で顔を覆った。抑えても抑え切れない涙が後から後から頬を伝い、やがて声を上げて志野は泣いた。





(第1部終わり)


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