十

「志野、お前……どこへ行っていたの」
 屋敷に戻ると、血相を変えて出迎えてくれたのは、意外にも女主人の御園だった。
「申し訳ありません、服を駄目にしてしまいまして」
 志野の着ているお仕着せの着物を見て、御園は一時いぶかしげな目になったものの、すぐにほうっとしたように肩を落とした。
「驚かせないでおくれ、この上、お前までもいなくなったら……」
 いなくなる?
 手をついたまま、けげんな顔で主人を見上げると、御園は暗い面差しで微かに笑んだ。
「他の者には申し伝えたことですけれど、旦那様があらぬ件疑をかけられて、港で姿を消されたのですよ」
「え……?」
 御園の言葉が、すぐには理解できなかった。
 旦那様とは、むろん櫻井伯爵のことだ。あらぬ――件疑?
「今、特高警察の方が、伯爵の行方を捜しておいでです。この屋敷にも、いずれ捜索の手が入るでしょう。お前も覚悟しておいで」
 特高警察。
 志野は顔を強張らせていた。昼間聞いたばかりのその言葉が意味すること――。櫻井伯爵は、思想犯として投獄されてしまうのかもしれないのだ。
「お前のその服は」
 背を向けながら、御園は何気ないような口調で言った。
「確か、裏庭の納屋にあったのではなかったかしらね」
「……私、一枚だけ手元にしまっておいたものですから」
 咄嗟に出た嘘だった。
「そう」
 御園はやはり、何事もないように軽く頷き、そのまま自室に戻っていった。
 志野の耳朶にひらめいたのは、「雅流、どうなの?」という、どこか逼迫した女主人の言葉だった。彼らはあの時、納屋の中に伯爵が隠れているのではないか――それを期待して扉を開けたのだ。
 暗く沈んだ屋敷の中で、ひそひそと溜息のような囁きが、その夜は絶えることなく続いていた。あたかも、沈没間際の船から、子ネズミたちが逃げ出す算段をしているようだった。遠い夜の向こうから聞こえる空襲警報を聞きながら、志野もまた、まんじりともできなかった。
 翌日になると全ての事実が明らかになった。
というより、新聞が、号外が、嫌でも事件の顛末を明らかにしてくれた。
 櫻井伯爵は、特高に追われていた思想犯の逃亡を、欧州でひそかに手助けしていたのである。
 帰国した伯爵を、港で憲兵が待ち受けていた。
 しかし、船の中でいち早く危険を察した男は、どこへ消えたものか、憲兵の前に姿を現さなかったらしい。確かに帰国したものの、港で憲兵をまいて、そのまま身を隠してしまったようなのだ。
 屋敷の中は、容赦ない探索の手で荒らされるだけ荒らされた。
 御園も雅流も、そして薫も、何度か特高に呼ばれ、事情聴取を受けさせられたようだった。
 警察より早いのは世間の反応で、出入り業者の殆んどが、こちらにはもう、物資をお売りできませんと言ってきた。近所の者は目もあわせなくなり、夜中に投石されるのも、門扉の前に張り紙を張られるのも、日常茶飯事になっていった。
 女中たちは相次いで退職し、書生たちも荷を抱えて出て行った。広い屋敷に取り残されたのは、逃げ場のない家族たちと――志野、そして櫻井家の遠縁にあたる高岡という若い書生だけだった。
 御園はごっそりと痩せ、薫は離れに引きこもり、雅流だけが事後処理に奔走していた。
 伯爵が異国風の女と伊豆の旅館で心中したと報じられたのは、港の事件から二週間後のことだった。

        十一

「志野さん」
 洗濯物を干す手を止め、志野は声のする方を振り返った。
 まだ明けきらない朝の陽射しを浴びて立っていたのは、志野と共にこの家に残った書生、高岡兵馬である。いつものように国民服を着て、少しはにかんだような優しい笑みを浮かべている。
「おはようございます」
 志野は丁寧に一礼した。こんなことになるまで、ほとんど口も聞いたことがない男だったが、女中たちが皆いなくなり、食料を分けてくれる店もなくなった今では、彼の男手だけが頼りだった。
 日に一度は、高岡と共に郊外の田舎に出かけ、農作業を手伝う代わりに食料を分けてもらう。病がちで徴兵検査に落ちたという高岡は、今ではすっかり健康を取り戻していて、身軽によく動き、闊達で話しやすい、きさくな人柄を有していた。
 今朝も高岡は、彼らしい笑みを浮かべて志野の方に歩み寄ってきた。
「なんだか浮かない顔をしていますね。いや、今朝に限らず、最近はずっとそう思っていましたが」
「こういうご時世ですもの、明るい顔はできません」
 あえて明るくそう答えながら、意外に鋭い高岡の感じ方に、内心どきっとするものを感じていた。
 確かに最近――志野は憂鬱に違いなかった。
 伯爵の自殺に伴い、薫、雅流の婚約が次々と解消になり、櫻井家の破産が決定的になったからではない。志野が気がかりなのは、別人のようによそよそしくなってしまった御園の態度のことである。
 始終溜息ばかりついている。志野が傍に行くと、露骨に顔を背け、目を合わせようともしない。口を聞いても、かつてのような親しみがまるで感じられないのだ。
 燈火管制が厳しくなり、夜、明りをつけて三味線の稽古をすることは不可能になっていた。そのせいだろうか――御園と志野の関係は、ただの主人の下女のそれに成り下がってしまったような気がする。
 そして、女主人の態度の変化について、志野には一点の気がかりがあった。
(――お前のその服は、確か、裏庭の納屋にあったのではなかったかしらね)
 雅流と納屋で会っていた夜、勘のいい御園は、敏感に何かを察したのかもしれない。 
 もし、あの夜のことが原因なら、志野は櫻井家を辞する覚悟を決めていた。
「手伝いましょうか、なんだか一人で大変そうだ」
 高岡の声が、志野を現実に引き戻す。
「いいえ、結構です。高岡さんもお忙しいのに」
 洗濯までは男の方に手伝ってもらえない。――少し慌ててそう言うと、そんなものですか、と、男は何故か残念そうな顔になった。
「……志野さんは、僕をどう思っていますか」
 新たな洗濯物を広げていた時だった。
「……え?」
 世間話程度の話しかしたことのない男に、いきなり切り込むようなことを言われ、さすがに驚いて顔を上げる。
 志野に見つめられ、高岡は目に見えて赤くなると、泳ぐように視線を逸らした。
「どうも、あなたは、僕に冷たいような気がして……。あ、いえ、ここ最近は親しくさせてもらっていますが、それ以前は僕のことなど視界にも入れておられないようだったから」
 言われている意味をはかりかね、呆けたように黙っていると、男は照れたように苦笑した。
「それは、僕があなたを意識しすぎているせいかもしれないけど」
 ようやく、言わんとしていことが判ってくる。
 志野はうつむいた。嬉しいというより、困った、という気持ちのほうが強かった。
「……お別れを、いえ、あなたにお話があって来ました」
 顔を上げると、男はふいに表情を正して真剣な目色になった。
「家族のすすめもあって、実は先月、再度検査を受けたんです。昨夜、召集令状が来ました。僕は来週には、入隊しなければなりません」
 戦況が差し迫った昨今、入隊とは、即戦場に送られることを意味している。
 志野もまた、居住まいを正した。この場合、言わなければならない言葉は決まっている。
 おめでとうございます――。
 けれど、真剣な目に、どこか悲壮な覚悟を滲ませている男の前で、心にも思えない、そらぞらしいことが言えるだろうか。
「奥様には、昨夜あいさつを済ませました。今日、実家に戻ります。……色々、準備もありますので」
 そうですか。
 そんなことしか言えなかった。何を言っても、それは白々しい――上辺だけの言葉になるような気がした。
「……あなたが、好きでした」
 黙っていると、頭上から優しい声がした。
「待っていて欲しい……そう言いに来ました。あなたは黒川へ行かれるものだと、そう思い込んで諦めていました。あなたのように高貴な技術を持っている方が、僕のような書生崩れを好きになってくれるはずはないと」
 男は自嘲気味に笑い、そしてすぐに姿勢を正した。
 返事を待っているのだ、と志野は理解した。
 けれど――何をどう言えばいいのだろう。
「……私」
 視線を下げながら、志野は唇を緩く噛んだ。
「あなたのような方にふさわしい女ではありません。死んだ母は商売女でした。……それと一緒ですわ。私、純粋でも、純白でもありません。もう何度も殿方と経験していますの」
 相手にとっては残酷な、自分にとっては屈辱に等しい告白。
 けれど彼の人生の岐路に係わってしまった以上、下手な嘘だけはつきたくない。むしろ妙な未練など持つことなく、さっぱりした気持ちで戦場に赴いて欲しい。
 しばらくの間があった。
 風が何度も、志野と高岡の間を吹き抜けていった。
「僕はあなたの価値を知っている。……驚かないと言えば嘘になりますが、僕の気持ちは変わりません」
 男の口調は変わりなく、表情は優しげなままだった。
 志野は顔をあげ、そしてもう一度うつむいた。
「……女性の価値が、そんなもので決まると――そう思うほど、僕は古い人間ではないですよ」
 染み入るような口調だった。
「婚約していただけないでしょうか。こんなことでもなければ告白など出来ない、僕はそんな情けない男ですが」

     十二

 台所に現れた人を見て、志野はさすがに驚いていた。
「……綾女様」
 婚約はとうに解消になり、美貌の令嬢は櫻井家に出入りする事を固く禁じられているはずだった。実際、伯爵の事件以来、志野が綾女を見るのはこれが初めてのことである。
「ごめんなさい、お水を一杯いただけるかしら」
 美しい眉を寄せ、綾女は寂しげな笑みを浮かべた。
 久しく会わなかった綾女は、髪をおさげに編み分け、黒ずんだシャツに絣(かすり)のモンペを穿いていた。あまりの変容ぶりに、志野は言葉を失っていた。
「どう? 似合うでしょう? 先ほどまで、町内で竹槍の訓練があったものだから」
 綾女は楽しげににっこりと笑う。この天真爛漫な女性には、衣服や境遇の変化など、さほど問題ではないらしい。
 志野が黙っていると、綾女は静かに笑顔を曇らせた。
「……薫さまに会いに来たのだけれど、……ご酒をお召しになっておられて」
「最近、少しお疲れのようですから」
 志野は言い繕ったが、薫の深酒は毎日のことだった。
 食事を一切取らない代わりに酒を飲む。ひどく痩せ、肌も乾き、無精髭など伸び放題になっている。かつての美貌など跡形もない。そして、人前には絶対に出ない。出れば兵に志願しろと言われる、それを恐れて隠れているのだ。
「こちらにお出でになられても、よろしかったのでしょうか」
 志野はグラスを棚から出しながら、背後に立つ綾女にそっと訊いた。
 わずかな沈黙があった。返事がないことを不思議に思って振り返ると、綾女は、口許に不思議な微笑を浮かべていた。
「志野さんは、ご存じありませんでしたのね」
「何を、でしょうか」
 問い返しても、綾女はやはり、掴み所のない笑い方をするだけだった。そして何かを振り切るように顔を上げると、思いのほかしっかりとした眼で志野を見つめた。
「父からお許しがいただけて、私と薫様、もう一度婚約することになったんです。雅流様が、父を説得してくださったので」
 雅流様が。
 志野は内心、動揺しながら、グラスに水を注ぎいれた。
 では、雅流はわざわざ――兄と、自分の想い人との婚約を取りまとめに行ったのだろうか。
「本当に雅流様が、そのような?」
 つい口にしてしまった僭越な言葉を、志野は慌てて取り繕う。
「あの、しっかりしていらっしゃいますけど、まだお若くていらっしゃいますから」
 大人びていても、雅流はまだ十八歳である。しかも櫻井家の当主ですらない。落ちるところまで落ちた櫻井家に一人娘を嫁がせる――そのような難易な交渉を、本当に雅流一人の力で成し得たのだろうか。
「櫻井伯爵様がお亡くなりになってから、変わりましたわ、雅流様は」
 静かな口調で、綾女はやはり寂しげに微笑した。
「本来のご当主は薫様なのでしょうが、今は雅流様がお一人で、全ての責任を取って回られているそうです。志野さんの耳にも、いずれ伝わるとは思いますけれど」
 責任――、もしかして、借財のことだろうか。
 志野は暗い気持ちで眉をひそめたまま、グラスの水滴を布巾で拭う。
「薫様は、随分弱い方なのですね。今まで思いもしませんでした。雅流様は、とてもお強くていらっしゃるのに」
 綾女の笑顔は、いつになくぎこちなかった。それはまるで、自分の中から無理に恋人との思い出を消し去ろうとしているようにもみえた。
「私、お運びいたします」
 志野がグラスを盆に載せながらそう言うと、綾女は無言で首を振った。
「いいえ、私が持っていきますわ。何にも出来ないけれど、今は、薫様の傍についていてさしあげたいんです」
 櫻井家の没落は、色んな意味で、人の心に潜んでいた本性を炙り出したのかもしれない――。去っていく綾女の背中を見ながら、志野はふと、そんなことを思っていた。
 綾女は、決して薫を嫌ってはいない。むしろ、強い情愛を抱いている。ただ――それ以上に雅流に惹かれてしまっただけなのだ。
 ――雅流様は……。
 志野は、静かな思いで考えていた。
 本当は、優しくて真面目な人だったのかもしれない。気弱でプライドの高い兄への遠慮が、彼をして、自堕落な態度を取らせていただけなのかもしれない。
 思えば雅流は、いつも薫に遠慮していたような気がする。三味線でもそうだ。才能の差は明らかなのに、黒川の家元の前で、雅流が本気で演奏したことは一度もない。
 でも、何故だろう。単なる兄思いと一言で括るには、極端すぎるような気もする。愛する女まで譲ってしまう心理が、志野にはどうしても理解できない。
 日々、慌しく奔走している雅流とは、あれきり口を聞くこともなくなった。時折家中で目が合うことがあっても、先に逸らしてしまうのは志野の方だった。
 あれは、夢だったのだ。
 志野はそう自分に言い聞かせていた。
 夢を、現実と錯覚してはいけない。
「志野」
 久しぶりに聞く声に、優しく呼ばれたのはその時だった。
 志野は驚き、床に膝をつきそうになっていた。
「おいで、お前に大切な話があります」
 ふいに現れた御園は、かすかに笑って痩せた背を向けると、そのまま台所を出て行った。





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