五

 来春には、綾女が嫁いでくることが決まり、櫻井家はにわかに、戦前の頃のような華やかな賑わいを取り戻していた。
 空き部屋には、貴族会から送られてきた祝いの品が溢れ帰り、その贅沢さは、とても物資不足のご時世とは思えないほどである。
「伯爵様も、もうじき欧州から帰っておいでになるし」
 年の暮れ、御園はいつになく上機嫌だった。御園だけではない、家中の誰の顔にも明るいものが浮かぶようになっている。
 雅流と菱田百貨店の子女、永久子(とわこ)との縁談が本決まりになり、莫大な借財が肩代わりされることになったのも、喜ばしいニュースの一つだった。
 書生や女中たちは職場を失わずに済んだことで胸をなでおろし、御園は放蕩息子に意外な良縁がまとまったことで、心の底からほっとしているようである。
「これで戦争が終わってくれたらいうことはないのだけれど」
 けれど最後には、誰もがそう囁いて、わずかに眉を寄せるのだった。
 十二月に入り、大学の寮が閉鎖されたことから、雅流と薫はずっと屋敷内にいるようになった。が、志野が、薫の相手として呼び出されることはなくなった。
 兄弟は、志野の存在などまるで眼中にないように日々を振る舞い、志野もまた、ようやく心の平穏を取り戻し始めている。
 薫が、例の秘めごとから関心を無くしてくれた理由は、おそらく志野が、内弟子の話を、きっぱりと断ったからだろう。
 同時に志野は、月に一度の家元の出稽古に出席することも、辞退することにした。
 下賎な身分で、生意気にも家元の申し出を断ったのだから、それは当然のことである。
「もったいない……志野、お前は欲がなさすぎますよ」
 御園は露骨に残念そうな顔をしたが、その実、ほっとしているのが志野には判った。というより、最初からそれが判っていたから、内弟子の話を断ったのだ。
「お稽古なら、どこでも出来ます。それに私の師匠は奥様でございますから」
「私の稽古など……とても父には及ばないのに」
 困ったように言いながら、それでも御園は、どこか嬉しそうだった。
 十の年に母が死に、女術(ぜげん)に売られるところを拾われてから、ずっと志野は御園の傍で仕えてきた。志野にとって御園とは、主人であり師であり、そしてひそかに母とも慕う人だった。
 結核で死んだ志野の母が、御園に三味線を習っていたと知ったのは、大分後になってからだ。
「本当に筋のよい方でしたよ。本格にされていたら、一派を興せていたかもしれませんねぇ。天才とは本当にいるのだと、私は妬ましく思ったものです」
 その縁で、たったそれだけの縁で、御園という女は志野を女の牢獄からすくい上げてくれたのだ。
 御園はすぐに志野に三味線を教え、志野は必死でそれに応えた。稽古の間だけは、主従を忘れてぶつかりあった。
 女主人に、志野がどれほど感謝し、恩に報いたいと思っているか――。思いの深さは、他人にどう説明しても理解されるものではないだろう。
 御園を悲しませずに済むのなら、薫や雅流に受けた仕打ちなど、実のところなんでもない。どんなことでも我慢できる。
 御園もまた、志野をひどく可愛がった。表面は厳しい、他の女中たちとその扱いは変わらない。けれど、肝心な所ではいつも志野を見守り、そしてひそかに頼りにされていることを、志野はしっかりと感じ取っていたのだった。
「今日は船弁慶にしましょうか、私が謡うから、それに合わせて弾いておくれ」
「はい」
 雪の降りしきる夜半になって、二人きりの稽古が始まる。
「お前に、三味線で身を立てさせるのが、私の目標のようなものだったけれど」
 めっきり増えた白髪が、気丈な女主人のここ数年の辛苦を語っている。傾きかけた櫻井家を維持するため、外遊中の伯爵に代わり、彼女が被った苦労はなみなみならないものがある。
「こうやって、二人で稽古をしている時だけが、私にとっては、本当の安らぎだという気がするのですよ」
 微かに息を吐き、伯爵夫人は寂しそうな声音になった。
「鞠子は先の奥様がお産みになられたお嬢様だし、薫も雅流も勝手ばかり。三人ともどこか冷たくて……、母と呼ばれても他人行儀な気がするのです」
 親子仲がよくないことは、志野も漠然と察していた。継子である鞠子はもちろん、雅流も御園を避けているし、薫にいたっては、露骨に嫌っている節さえある。
 理由を、御園だけは察しているようだったが、同時に諦めているようでもある。いずれにせよ、伯爵家にあって、御園がひどく孤独な存在だというのは、確かなことのようだった。
 ほう、と溜息をつきながら御園は続けた。
「綾女さんが来て下さったら、私はどこかの田舎に居を構え、そこで三味線の教室を開こうと思うのですよ。お前、ついてきてくれますね」
 志野は喜びを噛み締めて頷いた。
 年が明ければ、伯爵様が戻ってくる。
 春になれば、綾女様が嫁いでこられる。
 初夏の頃には、雅流様は結婚し、この家を出て行かれる。
 全てが上手く行くのだと――行って欲しいと、志野は心の底から願っていた。
 この絵に描いたような幸せの裏に、澱のように潜む不安を、志野一人が知っていたからかもしれない。

       六
 
 明けて昭和十八年の元旦も過ぎた。
 翌週には櫻井伯爵が帰国するとの知らせが届き、屋敷は明るい気ぜわしさに包まれていた。
 その日、志野は御園の用事で、浅草まで使いに出た。
 簡単な進物を届けるだけの用事だったが、「せっかくだから、浅草見物でもしておいで」と、小遣いまでくれた御園の言葉に、素直に甘えることにした。もしかすると御園には、年の暮れから年始の間、休み無く働いた志野へ休暇を与えたいという気持ちがあったのかもしれない。
 何を見たいわけでも、休みが欲しいわけでもなかったが、せっかくの心使いを無にしてはいけないと思い、志野は神社でお参りをし、簡単な昼食を取ってから帰途についた。
「三島先生、掴まったらしいよ」
 そんな囁きが聞こえたのは、路上で乗合自動車を待っていた時だった。そっと振り返ると、学生風の青年が数人、顔を寄せ合ってひそひそと囁き合っている。
「どうもアカらしい。労働党の機関誌を出していたそうだ」
「特高が来て、先生の引き出しからなにから全部ひっくり返したそうじゃないか」
「三島先生はどうなるのだろう。気の毒だな、戦争反対を唱えただけで」
「どうもこうもない、そんな男には係わらん方がええ」
 しゃがれた、強い方言訛りの声が、志野の背後でふいに聞こえた。
 道路脇の畦に、しゃがみこんで靴を直している商売人風の老人がいる。焦げ茶色に日焼けした老人は、顔もあげずに靴の踵を修理している風だったが、声の主は、どうやらこの男のようだった。
「戦争反対っちゅうのは誰にでも言える。バカバカしいほど簡単な主張じゃ。若い男はお国のためにみんな死んどる。そういう時代に、戦争反対なんぞと言うのは、国を思わん卑怯者のすることじゃ。命が惜しいもんのすることじゃ」
 黙ったまま、志野は背後の会話に耳を傾けていた。
「平和のたっとさはなぁ、戦争が終わってから説けばいいんじゃ。今は言うてもどうにもならん。ただの卑怯者の繰言じゃ」
 老人の言う言葉は、正論であってそうでないような気もした。
 命とは、そうも軽いものだろうか。
 背後の会話が聞こえなくなってからも、志野は老人の言葉を考えていた。
 死にたくないと思うことが卑怯なのだろうか。死んで欲しくないと願う事が卑怯なのだろうか――それが卑怯だと、そうまかり通る今の時代とは、いったいどのようなものだろうか。
 志野は知っている、櫻井伯爵家のように、徴兵を逃れている貴族や資産家連中は沢山いる。琴絵の言い草ではないが、徴兵制度とは貧乏人をていよく戦場で死なせるための法なのだ。
 ただ志野は。必ずしもそのような人たちを憎いとは思えなかった。
 誰だって死にたくない。自分でも同じだ。どんな辱めを受けても生きたいと思う、それが人の性ではないのか――。這ってでも生きたいと思うからこそ、他人の命も愛しく思えるのではないだろうか。

       七

 櫻井屋敷が見えてくる頃には、周囲は暗灰色の夕闇に包まれていた。
 冬の日の入りは早い。志野はわずかに足を速めた。夕食の支度に間に合わなければ、御園は許してくれても、里代がどれだけ怒るか判らない。
 門扉をくぐり、庭を横切っていると、にぎやかな笑い声がどこかから聞こえてきた。
 広い庭の奥、例の離れが一際明るく輝いている。それに反して、母屋は暗く静まり返り、全く人の気配がない。
「……?」
 不審に思いながら勝手口を開けると、待ち構えたように里代の巨体が飛び出してきた。
 てっきり怒られるとばかり思った志野の前で、しかし里代は拍子抜けしたような顔になる。
「なんだ、志野なの……」
 顔色が悪かった。いつも神経質なくらいに髪をきっちり整えている女が、うなじに幾筋も髪の束を落としている。
「なにか、ございましたか」
 気ぜわしく靴を脱ぎながら志野は訊いた。夕飯時だというのに、屋敷は葬儀の時のように静まりかえっている。離れから、時折馬鹿げた笑い声が響くものの、聞こえてくるのはそれだけだ。
「それがわかりゃ、こんなに慌てて飛び出して来たりしないわよ」
 里代はどこか投げやりな口調で毒づいた。
「昼過ぎに電話があって、奥様と雅流様が血相変えて飛び出していかれたのよ。それきりお帰りにならないし、ご連絡も下さらないし」
「電話って、どこからですか」
「知らないわよ、雅流様が出られたんだから」
 おかげで、誰も夕飯が食べられないのよ、あんたはいいわよね、のんびり浅草見物ですって、いいご身分よね。
 里代の鬱々とした愚痴を耳にしながら、志野は漠然と感じていた不安がふいに現実になったような、そんな暗い予感めいたものを感じていた。
「離れには、……薫様ですか」
 声をひそめ、志野は訊いた。
「そう、結婚のお祝いで、ご学友が集まってらっしゃるのよ。夕方からずうっとあの騒ぎ。ああ、そうだ」
 里代は、小さな目に露骨な侮蔑を浮かべ、志野を見下ろした。
「薫様が、あんたが戻ってきたら、離れに来るようにって言ってらしたわ。余興に一曲弾いて欲しいんですって。まるで芸者と同じね、あんたって」






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