八
「遅いじゃないか、志野」
室内は、濃密な酒の匂いで満ちていた。
屋敷の地下には伯爵が蒐集した洋酒のたぐいが沢山ある。――このようなお腹の足しにもならないもの、伯爵が大切にしておられなければ、とうに売ってしまうのに――御園が怒りながらも残していた洋酒を、薫は、無断で持ち出してきたらしい。
「申し訳ありません」
志野は三味線を膝の前に置き、手をついて頭を下げた。
「ほう、これが、櫻井が言ってた例の女か」
即座に、座敷の奥の方から聞きなれない声が飛んできた。
「なかなかの美人じゃないか、もっとこう、遊びなれた感じを想像していたんだがな」
「見た感じは令嬢風だ、すました感じの女だな」
座敷にいるのは四人。いずれも黒い詰め襟を着た大柄な男たちだった。どこかで見た顔も交じっているし、初見の者もいる。つい先日、真面目な風体で年始の挨拶にきた者もいる。
「それが、意外に情熱的なのさ」
何でもないことのように言い、薫はグラスを持ち直した。美しい目の縁が薄赤く染まっている。手元がどこかおぼつかない。泥酔しているのが、一目で判る。
琥珀色の中身を一気に飲み干し、薫はゆらり、と立ち上がった。
「ほら、さっさと試してみろよ。この女なら何をしたって、絶対に逆らわないから」
志野は微かに肩を震わせた。
予感していないでもなかったが、こうもあからさまだとも思わなかった。
薫がにじり寄ってきて、酒臭い息が間近に迫る。
志野の顔を覗き込むように見た薫は、自虐的とも思える笑みを浮かべ、畳についた志野の腕を掴み上げた。
「志野、これが最後のご奉仕だと思って我慢しろ。結婚すれば、こんなこともそうそう出来なくなるからな」
腕を引かれ、立ち上がらされる。薫に蹴られた三味線が、部屋の角に転がっていく。
それを気にする間もなく、部屋の中央に引き出された志野は、たちまち薫を含め五人の男たちに取り囲まれた。
雅流の顔はない。不死儀な安堵と絶望が、同時に志野の中に込み上げる。
「どうする、自分で脱いでもらおうか」
囁くような声が近くなる。
「服くらいで、いちいち相談するなよ。こんなもの、脱がしてしまえばいいんだ」
そう言って、一番にのしかかってきたのは、薫だった。
「奥様と雅流様が!」
畳の上に仰向けに倒されながら、志野は声を張り上げた。
自分でも、こんな大きな声が出せるのが信じられなかった。
「うるさいな、なんだよ」
意外な反応に驚いたのか、煩げな声で薫が応える。酔いのせいだろうか、動きも緩慢で、眼もぼんやりと濁って見える。
「まだ、お戻りにならないのです」
「それがなんだよ」
薫の手が、ブラウスのボタンにかかる。
志野には理解できなかった。何故だろう、婚礼を目前にして、どうしてこんな真似ができるのだろう。ここ数ヶ月、ずっと真面目だった薫が急変する理由が判らない。
志野が浅草に出かけている間に、何か、重大な異変があったのだ、そうとしか思えない。
顔を背けながら、志野はそれでも大声で叫んだ。
「お、お二人が何処へ行かれたか、ご存知ありませんか。皆、心配しております!」
「知ってるよ、でもお前には関係ないだろ」
「俺が最初でいいだろ、櫻井」
聞こえてきた声に吐き気がした。嫌悪と虚しさで、何もかもどうでもいいような――そんな気持ちになりかけていた。
いつものことだ。志野は思った。
いつものように、心を殺して時が過ぎるのを待てばいいだけだ。
それでも、気持ちはざわめいたまま落ち着かなかった。何故だろう。いつもとは違っている。眉をひそめて志野は気がついた。何よりも耐えがたかったはずの、雅流の三味線の音色がしない――。
「……いやです」
志野は、無意識に呟いていた。
「なんだと?」
一度溢れた感情は、けれどもう、とめどがなかった。
「厭なんです。もうこんなのは厭っ」
虚を突かれたように、馬乗りになっていた薫が動きを止める。
志野は、その胸板を、両手で思い切り突き飛ばした。
薫は――あっけないほど簡単に背後の襖に背をぶつけて、そのまま茫然と顔を上げる。
「おいっ」
「逃げるぞ、掴まえろ」
伸びてくる腕に、思い切り噛み付いた。背後からブラウスをつかまれ、衣服が破れる音がした。それでも必死に、見苦しいほど必死に暴れて抗った。無駄だと判っていても、この場から逃げようと試みた。
やがて背中から押さえつけられて、うつぶせに倒された志野は、苦しい呼吸で目の前に座る薫を見上げた。
「……別人みたいに暴れるんだな」
見下ろす薫の目は笑っていた。冷酷な笑いは、元が美しいゆえに、ぞっとするほど恐ろしい。
「雅がいなきゃ駄目ってわけか。お前ら、なんだ? できてたのか?」
口の中を切ったのか、生温い銅の味が広がっていく。
それは唇の端から伝わって、蒼白い畳に染みを作った。
薫は笑った。
「言っとくけどな、決めたのは全部雅なんだぜ。俺は言ったんだ、最後に決めるのはお前だぜ、雅って」
背中からのしかかられる重みで、視界が白く霞んでいく。
「取引したんだよ、俺たちは。雅も莫迦な男だよ、俺を甘くみて綾女に手を出すからこんなことになる」
意味が判らなかった。
(――決めたのは全部雅なんだぜ)
薫の言葉だけが、何かの断片のように頭の中で回っている。
何を決めたのだろう。もしかして今夜のことだろうか。それとも今までのことだろうか。そんなことで、今さら、傷つく必要はないと判っている。それでも、でも――。
「取引って……」
志野は、途切れそうな意識を振り絞って訊いた。
「どういう意味なんですか……どうして、私が」
「雅に聞けよ。ただ、ひとつだけ教えてやるよ。雅が大切にしているのは綾女だよ。あいつはな、綾女を守るために、お前を俺に差し出したんだ」
「……わ、たし……?」
ますます意味が判らなかった。
顔を歪めながら薫は続けた。
「どうせ綾女は形だけの婚約者だ。綾女の奴、大人しい顔をして、ずうっと雅流を誘惑していやがった。雅流も莫迦だ。もう綾女は生娘じゃない、俺がもらってやらなきゃ、どこへも嫁に行けやしない」
投げやりな、泣き笑いのような声だった。
いつの頃からか、ふいに荒んでしまったような薫の変化の理由が、志野にはようやく理解できたような気がした。
一見軽薄にしか見えない薫は、薫なりに、年下の婚約者を大切にしていたのだ。それを――弟に奪われたのだ。
ただ、やはりそれでも、志野には、自分が引き合いに出された理由が判らなかった。
綾女と志野なら、比べるまでもない。男爵の令嬢と、身寄りのない芸者の娘。比較するほうがどうかしている。
薫にとっても雅流にとっても、志野など掃いて棄てるような存在なのに、どうして二人が交したという取引の中に、自分の名前が出てくるのか判らない。
「お前も綾女と同じだ、志野。もうまともな結婚なんてできやしないぜ」
憎憎しげに吐き棄てた薫は、ぺっと畳に唾を吐いた。
「やるなら、とっととやっちまえよ。雅流が帰ってきたら面倒なことになる」
そして、面倒そうに言い捨てると、そのまま不機嫌気に立ちあがった。
志野の視界に、投げ出された三味線と撥が映った。
肩をつかまれ、仰向けに倒される刹那に、必死で伸ばした腕が、落ちていた撥をすくい上げた。
「あっ」
誰かが叫ぶ。背に乗っていた男が、ひるんだように飛びのく。
志野は、掴み取った撥を自分の首筋に押し当てていた。
「莫迦っ、やめろっ」
初めて聞くような声で、飛び掛ってきたのは薫だった。
腕を強く掴まれる。見下ろす男も必死の形相になっている。ぎりぎりとねじられ、力尽きて――手にしていた撥が畳に落ちた。
同時に身体を拘束していた薫の手も離れる。
肩で息をしながら、志野は膝で這うようにして、部屋の隅に逃げた。唇から零れた血が、ブラウスを赤く染めている。
「……莫迦な女だ」
舌打ちしながら薫が苛立った声で言った。その他の者は、あまりに凄惨な展開に、さすがに声もなく黙りこくっている。
「とんだ興ざめだ。とっとと出て行け、もう、お前の顔は見たくもない」
三味線を拾い上げ、志野は逃げるように離れを飛び出した。
何時の間にか振り出した小雨が、熱くなった身体に降り注いだ。
ひどく惨めで、心細かった。
自分の身の上を哀れと思ったことは一度もない。むしろ幸福だとさえ思っていた。綾女や鞠子を同じ女性として羨んだことも一度もない――でも。
志野は立ち止まった。破れたブラウス、白地に滲んだ赤い染み。いくらなんでも、この格好で母屋には戻れない。
雨は容赦なく手にした三味線を濡らしていく。皮は水に弱い。このままでは駄目になる。
零れそうな涙を堪え、志野は三味線を抱き締めるようにして歩き出した。
九
幸い、蝋燭もマッチも揃っていた。
志野は、納屋の扉を隙間なくきっちり締めて、そして蝋燭に火を灯した。
破れて血に染まった服は、もう繕うことは不可能だ。別の着替えを探さなくては、母屋には戻れない。
屋敷の裏庭にある小さな納屋には、何年か前までお仕着せとして使用していた着物が、いくつか納められているはずだった。
華美な着物を着られる時代ではなくなったことと、いつ空襲警報が鳴っても身軽に飛び出せるようにとの御園の計らいで、女中たちは皆洋装をしているが、二年前まではかすりの着物を着せられていた。――それが、納屋のどこかに収めてあるはずなのだ。
――とにかく、急がないと。
御園が戻るまでに、しておかなければならないことは沢山ある。戻らなければ目ざとい里代が、すぐに不審に思うだろう。
雨で湿った三味線を、そっと蝋燭の下に置いた。熱をあてることは厳禁だが、早急に乾かさなければ、糸も皮も使えなくなる。
立ち上がり、とりあえず、破れたブラウスを肩から下ろした。
いきなり納屋の戸が開いたのはその時だった。風の勢いで、微かに揺れていた蝋燭の火が瞬時に消える。
黒い影が象る人型。白い目だけが、驚愕したように見開かれ、じっとこちらを見つめている。
前触れもなく訪れた闇に目が慣れず、志野は立ちすくんだまま、わずかもその場を動けない。
「雅流、どうなの」
外から、ひどく焦った声がする。志野ははっとして顔を上げた。御園の声だ。
では、ここに、扉の前に立っているのは。
「いえ、僕の気のせいでした。誰もいません、何かを明りと見間違えたんでしょう」
何事もなかったように、影の男は――雅流は応える。
そのまま、音をたてて扉が閉められた。
扉の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。でも、何を言っているのかまでは判らない。
志野は激しい動悸を抑えながら、壁に背を預けて腰を落とした。
雅流様に――見られてしまった。
多分、何があったか察したのだろう。だから、背後の御園に気づかれないよう、すぐに扉を閉めてくれたのだ。
それにしても、切羽詰まった御園の声は何だったのだろう。志野が家を明けている間に、この屋敷でいったい何が起きたのか。
気持ちばかりが焦っても、暗闇では、お仕着せを探す事もままならない。かといって、再び明りをつける勇気もない。
どうしよう。そう思った時、再度、外から扉が開いた。
はっとする間もない。扉は即座に閉まり、ただ、入り込んだ人の気配だけが、暗い室内に感じられた。
――雅流……様?
声を掛けようとして、出来なかった。
目の前に立っているのは、間違いなく雅流だ。顔が見えなくても気配だけで判る。鋭く見つめられているのが、何も見えなくてもはっきりと感じられる。
「お前は莫迦だな」
低い声がした。
志野は、何も言えなかった。
「また、離れに行ったのか。お前は莫迦だ、ここまで莫迦な女だとは思わなかった」
怒り任せに、何かを吐き棄てるような声だった。
「どうせ、莫迦でございます」
何故言い返してしまうのか、目の奥につんとした痛みを感じながら、志野は夢中で言葉を繋いでいた。
「綾女様に比べたら、学も身分も教養もない、下種な女でございます。ですからいいんです、もう、私はいいんです」
「……何がいいんだ」
「もういいんです、いいんです」
「だから何がいいんだ」
自分でも、言っている意味は判らなかった。判らないままに、必死で言葉だけを繰り返した。
雅流の声が、苛立ちを帯びる。
「何がいいんだ、言ってみろ、志野」
「私は……いいんです。そういう女ですから」
「だから何がいいんだ」
「だから、もう」
気がつけば、体温が、触れるほど近くにあった。
いいんです……いいんです。
言葉の続きは、もう口にすることはできなかった。
肩を強く抱かれ、息もつけないほどの激しさで唇が重ねられていた。
こんな風に、誰かと唇を合わせるのは初めてだった。知らなかった、接吻がこんなに痛くて――胸がつぶれそうなほど苦しいものだなんて。
血の味が舌に滲んでいる。顔を逸らしてしまったのは、この血で雅流の唇を汚してはいけないと、咄嗟に思ったからだった。
「いけません」
ようやく胸を押し戻し、息も絶え絶えの声が出た。
「雅流様の、お召し物が汚れます」
「兄貴に何をされた」
怒りを滲ませた声が返ってくる。
この人は怒っているのだ。志野はようやく気がついた。
「離れにいた連中に何かされたのか。どうなんだ!」
志野は、ようやく闇に慣れた眼で、男の伸びた襟足を見つめた。
この人は、何を怒っているのだろう。何を心配しているのだろう。
「……何も、されませんでした」
「嘘をつくな、じゃあ、その様はなんだ」
二人の視線が闇の中でひたと合う。
何故か雅流の目を直視することができなかった。志野は再びうつむいていた。
「本当に何も……。逃げ出したんです、私、どうしても厭でしたから」
何が厭だったんだろう。
うつむきながら、志野は自分に問いかける。
私は――何が厭だったんだろう。どんなことでも我慢できるはずだったのに、あれくらいのことは、何でもないはずだったのに。
「本当だな」
雅流が念を押す。
「俺を安心させるために、嘘を言ってるんじゃないんだな」
「違います」
安心?
頷いてから、不審に思った。安心? 安心ってどういう意味だろう。
わずかな沈黙があって、雅流がようやく手を離してくれた。それまで抱かれていた温もりがふいに消える。寂しいのか安堵したのか、自分でもよく判らないまま、志野は雅流から距離を開けた。
唇が、まだ濡れている。
どうして……あんな真似をされたのだろう。
激しい動悸の余韻を感じ、志野はただ、下を向き続けている。
「ここで何をしていた」
雅流の声も、いつになく動揺しているような気がした。
「服が……駄目になってしまいましたので」
「替えを探していたのか」
「はい」
雅流がかがみこみ、倒れた蝋燭を拾いあげる。
「持っていろ、俺が探してやる」
「いいです、そんな」
「いいから」
蝋燭を手に押し付けられる。
「本当にいいんです!」
何故かたまらず、志野は強い声を上げていた。
雅流が、驚いたように動きを止める。
「後生ですから……」
ひどく惨めな気持ちだった。志野は震える手で、破れた胸元を押し隠した。
「私のことを少しでも憐れと思うなら、このまま何も言わずに、出て行って下さいませ」
雅流は何も答えない。
「お願いですから……」
唐突に涙が零れた。
どうしたんだろう。
どうして、こんなに惨めで、こんなに胸が苦しいんだろう。
黙って距離を詰めてきた雅流の影に覆われる。
指が頬に当てられ、涙の粒が零れるように落ちた。
「私に……触らないでくださいませ」
「俺が嫌いか」
首を振る前に抱きしめられていた。
「雅流様の……服が」
「志野」
触れあう首筋が熱かった。
志野。雅流はもう一度囁いた。
「薫様と、同じことをされるのですか」
その言葉が、四つも年下の男を傷つけることを、志野は口にする前から理解していた。
「……俺が、嫌いか」
志野を胸に抱きしめたまま、雅流は、同じ言葉を繰り返す。
「嫌いでなければ、それがなんだと言うのです」
なんの会話をしているのだろう、私は。
どうして、もっと力をこめて、腕を振りほどこうとしないのだろうか。
二度目の、柔らかく優しい口づけの間、志野は目を閉じて泣き続けていた。
志野。雅流が囁いた。志野――もう一度、囁いた。
どうして、名前を呼んでくれるんだろう。そんなに愛しげに、大切そうに呼ばれたら、どんな鈍い女でも錯覚するに違いない。
「志野……」
涙が滲む。
誰だって錯覚する。誤解する。
こんなに情熱的に抱き締められ、こんなに優しく囁かれたら――誰だって。
誰だって、恋に落ちてしまうだろう。
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