四

 まるで、恋を告白した初心な少女のようだった。
 志野は、あの日の自分の、莫迦げた心境を振り返っては、ただ頬を熱くする。
 いったい何を思っていたのだろうか。少しだけ親切にされて、舞い上がってしまったのだろうか。二十二歳の私が――主人とは言え、まだ、二十歳にもならない男相手に。
 私らしくない。全く、私らしくない振る舞いだ。
「志野は、本当に何をやらしても器用だわね」
 帯締めを手伝い終わり、片付けをしている時、頭上から御園の声がした。
 鞠子と連れ立って歌舞伎座に行くという御園は、今日は朝から珍しく上機嫌だった。
「お前の指は天性のものなのかしら。うちの子どもたちに、その才がわずかでもあればよいのだけれど」
「滅相もございません」
「お前の音色には人を引きつける何かがある……これは、父の言った言葉だけれど」
 言いさして、御園は薄っすらと微笑した。
「父はお前を内弟子にしたいと言っています。どうですか、志野。この家を離れて黒川へ行きますか」
 存外な申し出ではあるが、驚きはさほどはなかった。近い内にそう言われるような伏線を、御園や家元が、それとなく匂わせておいてくれたからだろう。
 黙ってうつむく志野の前に座り、御園は優しく手を取ってくれた。
「まぁ、よく考えてごらん、志野。私もお前がいなくなるのは寂しいけれど、この家も、旦那さまがいらした時分のようにはいかないでしょう」
 ほっと吐息を吐く御園の横顔に、初めて彼女らしからぬ、暗い陰りが滲んだような気がした。戦争の影が、こんなところにまで忍び寄っている――。志野もまた、眉をそっとひそめていた。
「書生や女中たちにも、少しずつ暇を出そうと思っているのですよ。ただ、志野のように、皆によい行き先を探してあげることは難しいと思いますけどね」
 返事は? と、覗き込むような眼で、御園は黙る志野を見上げる。
 最初から、志野の返事は決まっていた。ただそれを、どう御園の顔がたつように持ち出すかだけが問題だった。
「私には、もったいないお話でございますが」
 控え目に志野は切りだした。
「少しの間、考えさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ゆっくり考えてよいのですよ」
 御園が微笑したその時だった。ふいに風に乗って、かすかな三味線の音が聞こえてきた。
「雅流だねぇ」
 苦笑を唇に滲ませながら、御園が目を細めて呟いた。志野にも判っていた。離れから聞こえてくる音は、紛れもなく雅流のものだ。
『時雨西行』
 ――ああ、また、同じ個所を間違っていらっしゃる。
「こうしてみると、どこか志野と弾き方が似ていますねぇ。腕は、数段は落ちるけれども」
「え?」
 不様なほど狼狽した志野は、面食らって顔を伏せた。
「そのようなことは、ございません」
「もしかすると、雅流は志野をお手本にしているのかもしれませんよ」
 ふふ、と柔らかく相好を崩して御園は笑った。
 時雨西行は長唄の曲で、旅僧西行と遊女江口が、雨宿りをしながら遊女の寂しさを語り合うという物語である。志野が好きなのは、江口が西行に身の上を語る場面――本調子から二上がりに曲調が変じる所で、ちょうど雅流の演奏に、悪癖が出る所でもある。
 御園の笑い声を聞きながら、志野は再度目を閉じていた。
 時雨西行。この曲を聴く度に、胸の深い部分が洗われて、心が軽くなるような気がするのは何故だろう。あれほど惨めな状況で、何度も聞かされた曲なのに――。
「雅流といえば、縁談が上手くいけばよいのだけど」
 独り言のような御園の呟きに、志野ははっと眉を上げていた。
 ――雅流様のご縁談。
 ふいに胸が重たい何かで塞がれたような気持ちになった。それがどのような感情か判らず、志野はただ、戸惑って視線を下げた。
「相手方の身分をいえば、正直どうかとは思ったけれど……これも時代なのかしらね、もう、爵位だけではやっていけない時代なのね」
「私、台所の仕事がございますから、これで」
 寂しげに呟く御園に深く頭を下げてから、志野は急いで立ち上がった。
 けれど廊下に出た途端、強い動悸を感じて足が止まり、そのまま胸を両手で抑えていた。
 雅流様のご縁談――。
 どうしてそれを、ここ数日の自分は、綺麗に忘れていたのだろうか。雅 流は、菱田百貨店の令嬢と、先月見合いをしたばかりなのだ。
 そして、どうして縁談話を思い出したくらいで、一瞬息が止まったかと思うほど動揺してしまったのだろうか。
「志野、車が来るまでに、庭先を清めといてちょうだい」
 里代に命じられ、箒を持って庭に出ながら、やはり雅流のことを考えている自分に、志野はただ戸惑っていた。
 兄とはまるで似ていない野性的な顔立ちをした雅流は、骨格に秀でた身体と、低くてよく通る声を持っている。
 長唄を謡わせれば、その低音は綺麗に伸びる。深みがあって――彼の奏でる音と雰囲気がよく似ている。上手くはないのに、不思議と人を引きつける何かがある。
 ――莫迦だわ、私。
 志野は、愚かしい思考を、自ら首を振って遮断した。
 だからどうだというのだろう。
 雅流の本性もまた、血をわけた兄と同じなのだ。放蕩で冷酷で、そして卑怯。二人は、離れでやっているようなことを、志野以外の女にも繰り返しているに違いない。
 忘れてはならない――志野は自分に言い聞かせる。雅流もまた、兄と同じ人種なのだ。少なくとも平気で、女性の心を踏みにじるようなことができる男なのだ。
 集めた落ち葉をゴミ袋につめる。肩に妙な力が入ったまま、暗く翳る裏庭を早足で突っ切る。焼却炉の手前、わずか数メートルの所まで来て、目指す場所に先客がいることに、志野はようやく気がついた。
 ――え……。
 囁くような声音が聞こえる。人影は男女のようである。
 いけない、と即座に思ったが、すでに、進みことも引き返すこともできない距離である。志野は息を殺して、身をすくませた。
 二つの人影は、焼却炉脇の大きな木陰で、いかにも隠れるようにして寄り添っている。
「お願い、私を好きだとおっしゃって」
 鈴を振ったような、軽やかで優しい声がした。
 薫の婚約者である男爵令嬢――綺堂綾女の声である。
 緋色の着物が、暗い木影から鮮やかな色彩をのぞかせている。
「こんなにお慕いしているのに……、あの日から、私の心はあなた一人のものなのに」
 優しい、けれど、哀願するような切ない声。
 声の主は予想どおり、綾女だった。眼が慣れてしまえば、女の姿は鮮明に薄闇に浮き上がってくる。牡丹模様の鮮やかな着物。背中の半ばまで伸びた黒髪が、木漏れ日に輝いている。
 華奢な綾女に、被さるようにして立っているのは、驚く事に婚約者の薫ではなく――その弟の雅流だった。
 白いシャツに黒のズボン。いつもの彼の服装だが、背筋を伸ばし、凛として、まるで正装しているような折り目正しさがある。
「お願い……、一言でいいから、嘘でもいいから」
 胸が痛くなるほど悲しげな声。けれど雅流は何も言わない。沈鬱な横顔を見せたまま、視線をわずかに下げている。
「あれが過ちだったなんて、私には信じられません。私……私」
 綾女の声が、すすり泣きと共に崩れ、身体まで崩れ、男の胸に重なっていく。
「……綾女さん」
 初めて雅流が呟いた。その腕は女を支えようとさえせずに、力なく垂れたままだった。
「お願い」
 綾女は顔を上げる。志野には見えないが、多分、涙で泣きぬれている。
「もう一度私を抱いてください。他の方と結婚なんて、なさらないで」
「それはできない」
「……雅流様」
「それは、できない」
 初めて聞くような真摯な、そして、苦しげな声だった。
 綾女の手が、何度かもどかしく男の胸を叩く。
「家のためですか、お金のためですか、あなたは日頃、そんなもの莫迦にしていらっしゃったのに」
 綾女とは、こうも激しい女性だったのだろうか――立ち退くことも進むこともできないまま、志野はただ息を詰めていた。
 雅流の腕が、躊躇したように女の肩を抱く。まるで貴重な宝石を扱うように、そっと優しく抱きしめる。
「……許してください」
 それ以上覗き見るのが苦しくて、志野は目を閉じ、顔を背けていた。
 雅流と綾女。
 深い衝撃と共に理解していた。彼らはすでに、男女の秘密を共有していたのだ。
 雅流が時折見せる悲しみも苦衷も、今なら理解できる気がした。兄に対するコンプレックスにも似た恐れの意味も。
 志野は漠然と予感した。多分――薫はこのことを知っている。
 理由は判らない、けれど確かに知っているような、そんな気がした。







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