※
離れの稽古部屋に、志野が初めて呼ばれたのは、今から半年前のことだった。
やはりそれは、家元の出稽古の日の夜である。
薫と雅流、二人の前に座らされ、志野はただ、何が始まるか判らない不安に怯えていた。
「俺と雅に、手本を見せてくれないか」
三味線を手に正座したままの薫は、どこか皮肉な口調で切り出した。
「今日も、黒川のお爺様が言われただろう。三味線のことなら志野を見てそれに習えと。だからお前を呼んだんだ。な、雅」
彼は二つ年下の弟のことを、身内の中では雅と呼ぶのが常だった。
「お手本……でございますか」
志野は戸惑った。
実のところ、稽古部屋に呼び出されたことさえも、志野には大きな驚きだった。
そもそも、明らかに見下した眼で志野を見る薫の口から、「手本」などという言葉が出ること自体信じられない。
嫌な予感がした。
「お許しください」
志野は三味線を膝に抱いたまま、両手をついて頭を畳に押しあてた。
「そのような僭越(せんえつ)な真似はいたしかねます。私は」
「弾けよ」
唐突に口を挟んだのは、最初から不機嫌そうに壁によりかかっていた雅流だった。
「手本だ、わずかな調子も違えたら許さない」
――雅流様……。
志野は、震えながら顔を上げる。
低く押し殺された雅流の声に、いつにない畏怖を感じる。怒りを感じる。
浅黒い肌に漆黒の髪。その中で、眼の白い部分だけが妙に強調され、銀鱗のように輝いて見える。
家では全くと言っていいほど口を聞かない雅流に、直接話し掛けられたのも、随分久しぶりのような気がした。
「さっさと弾けよ」
薫が腕を組み、うっすらと笑った。
「もったいぶるなよ。たかだか下女風情が」
普段の優しげな顔とは、全く別人になっている。
薫の本性が、ただ優しいだけではないことは、察しているつもりだった。けれど、こうして間近で向き合うと、一種異様な、不気味とも思える迫力がある。
志野は強い不安を感じながらも、持ち前の気丈さでいつもの自分を取り戻した。
「弾かせていただきます」
用意してきた三味線の糸を合わせ、撥を手にする。どこまで弾いたのか――記憶は今でも、定かではない。母屋には志野の音色が、途中で雅流のものに変わったとしか思えなかったろう。
悲鳴さえ出せずに全てが終わった後、さげすんだ目でシャツを羽織りながら、薫は冷ややかに言い捨てた。
「お前の母親は、こうやって金を稼いでたんだな。志野」
身体より心の痛みに震える志野に、薫は容赦なく追い討ちをかけた。
「お前はな、そんな薄汚い女の娘なんだ。なのに、えらそうに――俺たちと同レベルのつもりでいるのが、癪(しゃく)に触る」
志野は無言で首を振った。
同席していても、家元に稽古をつけてもらえるようになっても、櫻井家の家族と同じ場所にいるとは夢にも思ったことはなかった。ただ、志野は三味線が好きだった。弾く事が、稽古することが――御園に喜んでもらうことが、それが無心に好きだっただけだ。
涙を、必死に志野は堪えた。大したことじゃない。泣くようなことじゃない。命を奪われることに比べたら。三味線を弾けなくなることに比べたら――。懸命に自分に言い聞かせる。
「終わったぜ、雅」
薫が、無雑作に襖を開ける。それまで、ずっと流れ続けていた三味線の音が止んだ。
「ご苦労さん。これでお袋も疑わないだろうな」
雅流は何も答えず、三味線を抱えたまま、のそりと立ち上がって歩きだした。
今夜の雅流の役回りを理解し、志野は全身の血が引くような気持ちがした。というより、理解できなかった。どうして、雅流様は、そんな――。
雅流が薫の傍をすり抜けようとする。その時だった。
「次は、綾女を呼んでみるか」
からかうような眼で、薫が笑った。
ふいに、雅流が立ち止まった。初めて見せる獰猛さで、薫に掴みかかろうとした。
ひらりと身をかわし、弾けたように薫は笑う。
「素直だなぁ、雅は。そんなに好きなら、綾女と一回寝てみろよ」
「……うるさい」
二人の会話から、うつむいていた志野にも判った。
雅流は、兄の婚約者に片恋しているのだ。
まとめていた髪が解け、肩に落ちた。同時に一滴の涙が零れ、志野は袖で素早く拭った。絶対に泣くものかと思っていた。こんなことで――絶対に。
「志野、お袋はな、お前だけが楽しみなんだよ」
耳元に、薫が口を寄せて囁いた。
「お前がいなくなれば、お袋はがっくりくる。お前はお袋の生きがいなんだ。それを絶対に忘れるな」
奥様には言えない。
最初からそれだけは判っている。
二人の息子を盲目的に愛している御園は、志野の言うことを信じても信じなくても、深く傷つき、苦しむだろう。
何があっても、奥様を悲しませる事だけはできない。
「また来いよ、志野」
薫は笑った。志野は理解した。
「世が世なら、殿様の御手がついたんだ。これからもありがたくお受けするんだな」
もう、死ぬことも――逃げる事もできないのだと。
※
どれだけの時間が経過したのだろう。最初と少しも変わらない三味線の調べが、襖の向こうから響いている。
『時雨西行』
――随分、お上手になられた。でも、二上がりで調子を変える個所に、どうしても一点、直りきらない悪癖がある。
うつろな目で衣服に手を伸ばしながら、志野はそんなことを考えていた。
「雅、もう終わったぜ」
身体を離した薫が面倒そうに言う。返事の代わりに、激しい旋律が返ってきた。
ふん、と薫は鼻を鳴らした。
「おもしろくないな。いつまで真面目に弾いてるんだよ。お前、三味線なんて、端から莫迦にしていたくせに」
部屋はむせるほど暖かかった。畳が抜かれた土間では、瓦斯ストーブがたかれている。
急いで衣服を身につけていた志野は、途中で驚いて手を止めていた。
ブラウスの襟元が破れている。
――どうしよう、いつだろう、気がつかなかった。
薫が必要以上に乱暴だったから、怯えて抵抗したのがいけなかったのかもしれない。
破れた衣服を合わせながら、志野は内心途方に暮れる。
戦時下の今、衣料は全て貴重品である。目ざとい里代は、ボタンが一つ取れただけでもすぐに気づいて小言を言う。
この衣服では、女中部屋に戻れない。皆が寝静まるまで、どこかで時間を潰し、破れた箇所を繕うしかない。幸いなことに、今夜、御園は遅くまで戻らないはずだった。出稽古の日は、家元と連れ立って舞台か歌舞伎を見に行くからだ。
「なんだか面白くないな。食べ物は貧相になるし、着る服も選べないし、つまらない時代になったもんだ」
ぼやくように言うと、薫は髪をかきあげながら肩を鳴らした。
普段は輝くばかりの美貌の男も、淫蕩な情事の後は、ただの粗野な男に成り下がる。
「家元にでもなれば、徴兵されなくて済むと思ったけど、余計な心配だったかな。華族ってのは、こういう時便利だよな、雅」
さばさばした、どこか投げやりな声で薫は続ける。
時間を少しでも稼ぎたい志野は、乱れた髪を直しながら、聞くともなく二人の会話を聞き続ける。
この戦時下にあって、華族が特別扱いされているかどうかは知る由もないが、政府に顔が利く櫻井伯爵が、なんらかの手段で息子たちの招集を免れさせているのは、志野の目にも確かなことのように思えた。
伯爵家が、おおっぴらではないものの、共産主義のスパイと、件疑をかけられているのも事実である。櫻井伯爵は、大陸や欧州相手に貿易をして財をなした人物で、海外事情に詳しいせいか、当初からこの戦争を快く思っていなかったようだ。ことあるごとに軍部を批判続けていた伯爵は、二年前、軍の監視を逃れるようにドイツに留学し、以来、一度も日本に帰ってこない。
「俺も親父みたいに、国外に出て行きたいよ。自由にものも言えず、好きなものも買えず、挙句、親父のせいでこの俺までアカ扱いだ。息苦しいことこの上ない」
薫も雅流も、大学では相当肩身の狭い思いをしているのだろう、と志野は思った。
屋敷の近所で、次第に住民達の目が白くなっていったように、櫻井家に物資を売らない店が出始めているように――特に二十歳過ぎて入営しない薫には、相当な非難の目が集まっているに違いない。
大本営発表によると大陸での戦は勝利続きで、戦況は好転しているはずだった。なのに、世間は暗くなるばかりのように志野には思える。
「雅には、何言っても響かないか」
横顔を見せた薫が、ふっと疲れたような息を吐いた。
志野もつられて、閉じたままの襖に目を向けている。そう言えば、先ほどから一方的に話しているのは薫ばかりで、雅流は一言も応じてはいない。
ふいに、薫が立ち上がって、両手で襖を開けはなった。ひどく苛立った性急さに、志野は驚いて顔を上げた。
「なんだ、寝てるのかと思ったよ」
雅流は、障子窓に背を預けたままで、片膝を抱き、身じろぎもせずに佇んでいた。
やや俯いた視線は、手元の三味線に向けられており、薫を見上げることもない。というより、薫の声さえ聞こえていないかのようである。
薫は、不思議に静かな眼差しで弟を見つめ、やがて首を振りながら視線を逸らした。
「雅、前から思ってたけど、やっぱりお前は異常だよ。頭のどこかがいかれてるとしか思えない」
雅流は答えず、やはり無言で、空の一点を見つめている。
薫は、呆れたように舌打ちした。
「戦争なんて、勝つにしろ負けるにしろ、とっとと終わっちまえばいいんだ。ばかばかしい」
怒ったように言うと、上着を掴んできびすを返す。
「俺は出かける。雅、志野はお前の好きにしろ」
薫が、その外見を裏切って、不誠実でだらしないことはよく判っていた。それでも今夜の彼は、いつも以上に疲れて廃退的に見えた。
乱暴に襖が閉まる音がして、荒々しい足音が遠ざかる。
やがて静かになった室内に、途切れ途切れに爪弾(つまび)かれる、雅流の弦の音だけが響き始めた。
「……あの」
二人きりになるのは、初めてのことだった。
志野は、多少の緊張を抱きながら、黙して座る男を振り返った。
薫が志野を呼び出す時、雅流が同席しなかった日は一度もない。むろん手を出すようなことはなかったが、隣室で稽古の真似ごとをしている以上、雅流が性質の悪い共犯者であることは間違いない。
異常な性癖が兄のものなのか弟のものなのか、言われるままに従う志野には判らない。が、雅流が、時折、心の底から見下げ果てたような冷たい目で、自分を見ていることだけは察している。
「お暇いたしましても、よろしいでしょうか」
あえて平静を装い、志野は訊いた。雅流の前で以前と変わらぬ毅然さを保つことが、今の志野には精一杯の強がりだった。
情事の最中、隣室で三味線を引き続ける男の内心は測るべきもないが、雅流が、兄の婚約者に鬱屈した何かを抱き、志野に対して、ある種の批判めいたものを感じているのは確かな気がする。
「いちいち訊くな」
雅流は弦を弾きながら、抑揚のない声で呟いた。
「俺が、お前に用があるとでも思うのか」
薫もそうなら、今夜の雅流も、いつもとどこか違って見えた。
「……失礼します」
わずかに躊躇して、志野は立ち上がった。
もしかすると、何かを話してくれるかもしれないと、予感のように思ってしまったのが不思議だった。雨垂れのような弦の音を聞きながら、ふと耳が熱くなるのを志野は感じた。
私は何かを期待していたのだろうか。多分、していたのだろう。
蔑みでもあざけりでも、なんでもよかった。無言で見つめられるよりは、何かの言葉が欲しかったのだ。
でも、聞いたところで、それが何になるというのだろう――。
破れた胸元を隠しながら、志野は落ちた三味線を拾い上げる。ぱらっと音がして、かろうじて引っかかっていたボタンが畳に零れ落ちた。
慌てて手を延ばす。しかし、小さなプラスチックの欠片は、あえなく指をすり抜ける。ぶざまにかがみこみ、志野は膝で行方を追った。
無くしてはいけない。物資に乏しい時代、支給された服に替えはない。
ボタンは転々と転がって、そのまま、雅流の足元にたどり着く。
三味線の手を止め、無言でそれを拾い上げた雅流は、初めて志野の顔を正面から見下ろした。
志野は一瞬息を引き、そのままの姿勢で動けなくなっていた。
時々――本当に時々だけど、雅流の眼差しに、深い悲しみにも似た、底しれぬ孤独を感じてしまうことがある。それは、まるで残り香のように儚く、正体を掴もうとした途端に消えてしまうのだけど。
ボタンを手にしたまま、雅流はすっくと立ち上がった。
「あ、あの」
声を掛ける間もなく、大きな背中が裏口のほうに歩み去っていく。
「待ってろ」
――え……?
木戸が閉まる刹那、確かにそんな声が聞こえた気がした。
どうしよう。
胸元を抑えたまま、志野は困惑して室内を見回す。
彼が戻るまでここにいてもいいのだろうか。それとも、聞こえたと思ったのは、ただの空耳だったのだろうか。
迷いながらも、志野はひとまず姿勢を正す。雅流の意図がなんであろうと、瓦斯ストーブも明りもついたままの部屋を、無断で出て行くことだけはではきない。
しばらく所在なく待っていて――けれど、そう時間も立たないうちに、静かな足音が聞こえてきた。
木戸が開く。無言で入って来た雅流が膝に投げてくれたものを見て、志野は思わず、目の前の男を見上げていた。
雅流は何も言わず、再び三味線を手にして、元の場所に腰を下ろす。
「……あり、がとうございました」
志野は驚きを隠せないままに礼を言い、雅流が持ってきてくれた裁縫箱の蓋を開けた。
少し躊躇したものの、ボタンのとれたブラウスを脱ぐ。代わりに、肩に学生服を羽織った。それもまた、雅流が投げてくれたものだった。
「お前は莫迦だな」
呟くような声がした。
針に糸を通しかけていた志野は、驚いて手を止めている。
「俺たちはお前を、商売女同然に扱ったんだ。それなのに、ありがとうもないだろう」
見上げた雅流の横顔は、電灯の影になっている。
「金ならやるから、こんな家とっとと出て行けよ。それとも、兄貴の子どもでも作って、跡を取らせるつもりなのか」
これほど長く、雅流が何かを喋ることは珍しい。
志野は無言で、男の暗い横顔を見つめていた。
「お袋に言えばいい」
感情のこもらない声で、雅流は続けた。
「お袋は、まずお前の言うことを信じるよ。兄貴を叱ることもない。お前はお袋から金をもらって、好きなように生きればいいんだ」
「おそれながら」
志野は両手を畳につき、雅流の話を遮った。
「奥様に申し上げるくらいでしたら、その時は私、お暇をいただく所存です」
視線を下げたまま、強い覚悟をこめて志野は続けた。
「奥様を悲しませることだけは絶対に致しません。ですから奥様には、口が裂けても言ったりなぞいたしません」
雅流から返ってくる言葉はない。
「……私は、もし奥様にお救いいただけませんでしたら」
抑えていた感情がこみあげ、志野はぐっと喉を鳴らした。
「正真正銘身を売るしか、生きる術を持たない女でございました。そう思えば、これくらいのこと何でもないことでございます」
「そういうのを莫迦というんだ」
吐き棄てるような声だった。
志野は顔を上げている。
「御託はいい、要するにお前は、兄貴を好きになったんだ」
志野は、目を見開き、唖然として雅流を見た。
投げられた言葉の意味が、すぐに頭に入ってこなかった。
――私が……薫様を?
志野の視線を、雅流は煩げに目をすがめて避けた。
「そうでなければ、お前の神経が理解できない。どんなにひどい目にあっても、呼ばれれば必ずのこのこやってくる。お袋は、兄貴の本性を薄々だが知ってるよ。お前が言おうが言うまいが、いずれ兄貴は、お袋を必ず悲しませる」
それでも志野が全てを告白すれば、御園はいっそう悲しむだろう。そんな気がした。
志野が黙っていると、雅流は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「女はみんなそうだ。最初は嫌がっても、結局は兄貴に夢中になる。あの外見に騙される。可哀相で哀れな生き物だ」
違う、と言おうとして、そう言い訳する馬鹿馬鹿しさに気がついた。
もしかすると雅流は、美貌の兄にコンプレックスでも抱いているのだろうか。何故かふとそんな気がした。
――どうしてだろう……。この人が薫様を畏れる必要は、何もないのに。
男の手元にある三味線が、微かな音を立てる。
「私……」
志野は思わず呟いていた。
「雅流様の音が、好きですわ」
言ってから、最高に莫迦なことを口にした自分に気がついた。
熱が耳まで赤く染め、そして急速に冷えていくのが判った。
私……莫迦だわ。
こんな下賎な女が、華族の子息相手に、何と思い上がったことを言ってしまったのだろう。単に身分のことだけではない。雅流の前で、それが襖越しのこととはいえ、志野は何度も薫に抱かれ――想像するだけで血の気が引くような姿を、あるいは見られているのかもしれないのだ。
平伏することも、針を動かすこともできずに、志野はただ、蒼ざめたまま固まってしまっていた。きっと、雅流は不快に思ったことだろう。このまま殴られても、足蹴にされてもおかしくはない。
雅流は立ち上がった。志野は身体を震わせていた。
「俺も、お前の音が好きだよ」
足音が遠ざかり、襖が閉まる。
三和土(たたき)で下駄を履いた雅流が、離れを出ていくのが判った。開き戸は少し乱暴な音を立て、閉めた人の確かな苛立ちを感じさせた。
針に糸さえ通せないまま、志野は無言でストーブのたてるくすんだ音を聞いていた。
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