二

「志野、薫様がお呼びよ。また三味線の稽古じゃないの」
 針仕事をしていた志野は、一瞬肩を震わせたものの、すぐに平静を装って立ち上がった。
 声をかけてくれたのは、住み込み女中の里代(さとよ)だった。年は、志野よりは二つ、三つ上の二十五歳くらいだろう。ただし、外見は三十を過ぎて見える。乾燥肌のせいか、妙に皺の多い、金壺眼の女である。
 志野に向けられる性格も、外見に負けないくらい陰湿で意地悪い。
「すいません、十時までには戻りますから」
 頭を下げて、志野は縫いかけの着物を片付け始めた。
 里代はふん、と鼻息を吹いて腰を下ろし、御園が差し入れてくれたふかし芋を口に放り込む。盆に一切れだけ残っていたのは志野のものだが、むろん志野に、文句を言うつもりはない。
「貴族様のお屋敷ってのは優雅だねぇ。こんな時間に三味線ですか」
 どこか厭味な声で口を挟んだのは、新参女中の琴絵だった。
 志野の隣で、やはり着物を繕っていた琴絵は、顔を上げないままで続けた。
「うちの田舎じゃ、夜中まで三味線じゃかじゃかやってたら、すぐに憲兵にひっぱられちゃうけどサ。やっぱり貴族様は特別なんだ」
「あんた、何が言いたいのさ」
 芋の小鉢を押しのけた里代が、凄味を帯びた目になって琴絵を睨む。
 琴絵は笑って肩をすくめた。
「徴兵制度ってのはあれだね。要は貧乏人から戦争に借り出される仕組みなんだね。聞くけどさ、ここのお坊ちゃまは、どこか身体でも悪くしてんのかい?」
 それが、二十歳過ぎても入営しない、櫻井家の長男に対するあてこすりだというのは明らかだった。
「あんた、それ以上言うと、この家にいられないようにしてやるよ」
 立ち上がった里代が袖をまくって怒鳴りつける。けれど、里代より一回り大柄で、顔つきもどこか男じみた琴絵は、わずかも動じずに古参女中を睨み返した。
「この家がなんだってんだい。やれるもんならやってみな」
「なんだと?」
「世間じゃみんな噂してるよ。この屋敷はアカ屋敷で、薫様は、爵位の力で徴兵から逃げてるんだって」
「なんだって?」
 睨みあう二人の間に、慌てて他の女中が割って入る。
 ぺっと土間に唾を吐き、先に部屋を出ていこうとしたのは琴絵だった。
 その背に向かい、里代が拳を振り上げる。
「あんた、出て行きな、この屋敷からとっとと出て行きな」
「ええ、ええ、出て行きますよ、アタシは忠君愛国者ですからね」
 吐き棄てるように言う琴絵が、先月十七歳の弟をガダルカナルで亡くしたばかりだったことを、志野はようやく思い出していた。
 昭和十七年。
 前年の真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は、日増しに国民生活の上にも影を落とし、東京都もアメリカ機の空襲爆撃を受けるようになっていた。
 同時に、食糧事情も厳しくなった。食料管理法が施行され、味噌、醤油などは切符制配給になり、物価は一気に上昇した。その上、軍備調達のために大増税が実施され、櫻井家のような華族であってさえ、生活は苦しくなる一方だった。
 元々貧しい家はなおさらだろう。琴絵のように娘を他所に働きに出さざる得ない家庭は、いくらでもあるに違いない。
 一方で、一家の働き手である若壮年は、次々と召集され、戦争に借り出されていく。
 疲弊しきった空気の中、しだいに、若壮年を抱える家は非国民扱いされるようになっていた。何故志願しないのか、何故徴兵されないのか――健康な男児二人を有する櫻井家は、まさに格好の標的だったのである。
 それでも何年か前なら、華族を平民が非難するなど、考えられないことだったろうと志野は思う。今は、何もかもが戦争中心の世の中なのだ。絶対権力者は、もはや貴族ではなく軍である。誰よりも尊敬すべきなのは志願して戦場に赴く軍人たちであり、名誉の死を遂げた彼らの位牌なのだ――。
「ほんっと、あんたは幸運な女だねぇ。たかが芸者ふぜいが生んだ父なし子が、たまたまここの奥様に拾われて」
 里代は細い目をすがめながら、舐めるような眼差しで志野を見下ろした。新参の琴絵に言い負かされた苛立ちを、何を言われても言い返さない志野にぶつけようとしているのだろう。
「お嬢様や、お坊ちゃまに混じって稽古をつけてもらった挙句、家元の出稽古にも呼ばれるなんて。あんた、自分の身のほどってもの、わかってるの」
「ええ、それはもう」
 頷くしかない。鞠子のお気に入りの里代に逆らえば、後でどれだけ酷い目にあうか、志野は身にしみて知っている。
「しかも、雅流様と、薫様の稽古のお相手に呼ばれるなんて……。あんた、妙な期待なんて持ってないでしょうね」
「そんな、滅相もない」
 真面目な顔で目を伏せる。
「わきまえておりますから……私など、こちらの方々のお目汚しのような存在だということを」
「わかってんならいいけどね」
 里代は鼻息を荒くした。
「薫様には、綾女様っていう婚約者がおられるし、雅流様にも、百貨店からご養子の話があるのは、知ってるでしょ。ここの奥様の恩を仇で返すような真似をしたら、私が黙っちゃおかないからね」
「……そのようなことになりましたら」
 志野は眉を寄せ、唇を噛んだ。
「私も生きてはおりません。奥様は……私にとっては、命の恩人も同然でございますから」

     三

 普段は、大学の寮に入っている薫と雅流だが、鞠子と同様、月に一度の出稽古の日だけは実家に戻ってくる。
 兄弟は広い邸宅に別々の部屋を持っていたが、自室とは別に、庭の離れに三味線のための稽古部屋を有していた。畳敷きの部屋が二間あり、ちょっとした一戸建て程度の外見を有している稽古部屋は、寝具なども揃えられ、その気になれば寝泊りできるようになっている。
 薫か、雅流か――どちらかが屋敷に戻っている時、彼らは大抵、離れに籠って三味線の稽古をしている。時には二人で連弾していることもある。
 少し離れた母屋にも、その音色は聞こえてくる。
 そして音色だけで、志野にはわかる。その弾き手が、兄なのか弟なのか。怒っているのか上機嫌なのか。
 今も、湿った土の匂いに包まれながら、暗い庭を突っ切っていく志野には判っていた。
 弾いているのは――雅流だ。
 曲目は『時雨西行』。雅流は最近、ずっとこの曲ばかり弾いている。
 まだ、細かい所が自分のものになっていない。ぎこちなさが随処に残る。が、ひとつひとつの音に深みがある。巧みではないけれど、心が洗われるような澄んだ音色だ。
「……失礼いたします」
 障子の前で手をついてそう言うと、中の音が止んだ。
「入れ」
 三味線の音が途切れ、代わりに冷たい声がする。弾いていた雅流の声ではない、兄の薫の声である。
 障子を開け、膝でにじるように室内に入る。志野は目を伏せ、平伏したままでいた。
 視界に映るのは、黒の靴下を穿いた足――。
「雅、向こうで弾いててくれ。一応三味線の稽古ってことになってるからな」
「わかった」
 冷めた返事が、少し離れた場所から聞こえる。低音なのによく響く声――雅流の声だ。
「来いよ」 
 別人のように乱雑な口調で、薫は、志野の腕を引いて立ち上がらせた。
 恐ろしさと嫌悪で足がもつれる。薫は苛立ったようにその腕を抱き支え、自分の方に引き寄せた。
「さっさと歩けよ、手をかけさせるな」
 蒼白い照明の下、見下ろしているのは一匹の美獣だった。
 おそらく、昼間祖父に叱責されたことが癇(かん)に障っているのだろう。今日はいつにも増して不機嫌らしく、額に蒼白い筋が浮いている。
 背を押されるように奥の部屋に連れて行かれ、畳の上に突き倒される。
 咄嗟に抱いていた雅楽器を庇う。うつぶせに倒れた志野の視界に、閉じられた襖の白さが飛び込んできた。
 三味線の音が聞こえてくる。
 襖一枚隔てた隣室では、すでに雅流が、三本の糸が奏でる世界に入り込んでいる。
 志野の耳に聞こえる『時雨西行』には、一糸の乱れも迷いもない。
「なんだ、もっと嬉しそうな顔をしろよ。世が世なら、御渡りってやつなんだぜ、志野」
 普段の優等生面からは想像できないほど、粗野で残酷な男。それが櫻井家の長男の本性だった。
 おそらく、子どもの頃から殿様として育てられた彼にとっては、下女に手をつけることなど罪の内に入らないのだろう。むしろ志野にとっては名誉なことだと、半ば本気で信じ込んでいる節がある。
 雅流は、隣室で情事が行われている間、心を乱すことなく延々と三味線を弾き続けている。
 美しい三味線の音色が、いっそう志野の心を惨めにさせる。
 人形のように抱かれることは、もちろん辛い。しかし、その光景をまるで無関心にやり過ごされているのは、いっそ死んでしまいたいと思うほどの屈辱である。
 しかし、薫と同様、いや、ある意味薫以上に母親に甘やかされて育った末っ子の雅流には、志野の感情を想像することさえ出来ないのかもしれない。今も雅流は、隣室で繰り広げられている情事が、あたかも別世界の出来事であるかのように―― 一心不乱に三味線を奏で続けている。
「おい、何をぐずぐずしている」
 今日はよほど苛立っているのか、薫はひどく乱暴だった。ブラウスが破れそうになり、志野は慌てて身をよじる。衣服に痕跡が残れば、他の女中たちの不審を買う。
 曲が本調子から二上がりに変じる。高鳴る調べが、悲しいほど美しく流れていく。
 志野はようやく全身の力を抜くと、音の世界に自分の意識を滑らせていった。









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