耳から胸に、雨のように旋律がしみていく。
初めは静かに、囁くように優しく、次第に緩急を交えて激しくなり、やがて気高く鳴り響く。
志野は目を閉じ、そっと音色に自分を重ねた。
愛しい人と心が溶けあい、魂ごとひとつになる――そんな感覚を、確かに感じる。
眼を閉じていても判る。はっきりと頭に浮かぶ。
彼の撥(ばち)が、指先が。
きれいな横顔が、凛とした背筋が、美しい眼差しが。
決して、叶わない恋だけど。
明日には、別れる人だけど。
もう二度と、生涯会えない人だけど――。
「聞こえる、恋の唄」
第一部
一
「……っ」
鞭がしなるような音がして、指先に鋭い痛みが走った。
衝撃で右手が痺れる。井関志野(しの)は、咄嗟に撥を落とすと、指を唇に当てていた。
舌先に、錆の味が広がっていく。
冬の初め、稽古の直前まで水仕事をしていた指は、表皮がひびわれ、節には血が滲んでいた。
痛む指で、無理な弾き方をしたのがいけなかったのかもしれない。切れた弦は、あかぎれだらけの指に一筋の朱を刻みこみ、今は力なく垂れさがっている。
「どうしました、志野」
厳しい声が上座からかかる。
「申し訳ございません」
志野は即座に三味線を置くと、畳に手をついて低頭した。
屋敷の奥にある二十畳ほどの座敷には、今、志野を含めて七人の家人が集まっている。末席に座る志野の身分が一番低く、着物も三味線もみずぼらしい。
土下座したまま動かない志野の姿がおかしいのか、静かだった場にひそやかな失笑が広がった。
「顔をおあげ、早く糸を張りなさい」
再度掛けられた厳しい声は、この家の女主人、櫻井御園(みその)のものである。
普段は温厚で優しく、伯爵夫人とは思えないほどきさくな女も、三味線の稽古の時だけは、別人のように厳しくなる。
「申し訳ございません」
志野は同じ言葉を繰り返し、すぐに切れた糸を張り直しはじめた。
失態はそのまま、この場に同席するよう計らってくれた御園の顔に泥を塗ることになる。侮蔑の目は、確かな演奏で跳ね返すしかない事を、志野はよく知っている。
――奥様の体面だけは、汚してはならない。
うつむいたまま、志野は自分に言い聞かせた。
自分の命など棄ててもいいと思うほど、志野は伯爵家の女主人に心酔していた。
孤児だった志野を引き取り、使用人として傍に置きながら、我が子同然に読み書きなどを躾けてくれた人である。今の志野にとっては何よりも大切な三味線を――最初に教えてくれたのも御園である。
「ねぇ、なんだか糠(ぬか)臭くない?」
小馬鹿にしたような声がした。
志野は顔を上げていた。
確認するまでもない、先年、鴨居(かもい)子爵家に嫁いだばかりの櫻井家の長女、鞠子(まりこ)である。
御園の右隣に座っている鞠子は、特注で作らせた三味線を所在無く弄びながら、あざけるような眼差しで志野を見た。
「志野、あんた今朝、糠床をいじったでしょ? いやぁねぇ。ちゃんと手を洗ったの?」
耳まで赤くなるのを感じ、志野はさっと視線を伏せた。
「お母様、だから下働きの女なんて、同席させるのはよしなさいって言ったのよ。せっかくおじいちゃまの稽古を受けられる大切な日なのに、なぁに? この匂い、綺麗にしてきたのに台無しじゃない」
綺麗にしてきた――と言うとおり、わざとらしく肩をすくめる鞠子は、今日はいつもの洋装ではなく、銘仙の着物をまとい、髪も島田に結いあげている。
鞠子だけではない、御園も大島の単衣を身に着け、髪も美しくまとめている。
今日は、櫻井家にとっては特別な日なのだった。
鞠子の言う、おじいちゃま、というのは、御園の実父で、長唄三味線黒川流の家元、黒川泰三のことである。
祖父と、同じく黒川流師範である御園の影響で、櫻井家の三人の子供たちは、幼い時から手習いのように三味線の稽古を続けている。今日は、黒川流の本家から、家元の黒川泰三が出稽古に来る月に一度の日なのだった。
「ああ、臭い、臭い。匂いが移ってしまいそうだわ」
わざとらしく鼻を摘まむ鞠子は、御園にとっては血の繋がらない先妻の子だった。鞠子の母親は公家の出で、御園は士族。そのせいかは鞠子は、継母に対し、いつもぞんざいな態度を取る。
御園は厳格な横顔のまま、義娘の皮肉にも眉ひとつ動かさなかった。
一番上席に座する家元、黒川泰三もまた、同じである。
「お母様も物好きだこと。何も使用人の女にまで稽古をつけてやる必要はないのに」
自分の嫌味が聞き流されたと察した鞠子は、露骨につまらなそうな目色になった。
「それにお爺ちゃまもお爺ちゃまよ。うちには薫も雅流(まさる)もいるのに、どうして志野ばかりに目を掛けられるのかしら」
「志野は筋がいいですからね、それに稽古熱心な娘ですから」
義娘の執拗な嫌味を、御園は疲れたように手短に遮った。そして、少し厳しい眼で、まだ糸を引っ張っている最下席の志野を見る。
「志野、早くなさい」
「は、はい」
志野は我に返り、手元の作業に集中した。
指が痛んで、糸が上手く伸ばせない。
天神を腰に引き寄せ、右手で思い切り糸を引っ張るが、糸巻きを回す段になるとどうしても糸が緩んでしまう。
この行程を怠ると、演奏中に調子が下がり、上手く音が合わせられなくなるのだ。焦りが、余計に手元を狂わせる。
「貸してみろ」
低いがよく通る声がした。
驚いた志野は、びくりと身体を震わせる。有無を言わさず、節くれだった大きな手が、志野から三味線を奪い取る。
志野の隣に座る櫻井家の次男、雅流だった。
「結構です、私が」
慌てて手を延ばすが、黙した横顔は取りつく島がない。太い指は、すでに三味線の糸を引っ張っている。
「ありがとうございます……」
仕方なく志野は礼を言い、手をついて頭を下げた。
年を言えば雅流は、二十二歳の志野より四歳も若い。が、寡黙で粗野、どこかしら冷めた雰囲気を身にまとうこの男が、志野は昔から不思議と恐ろしく、苦手だった。
今日も雅流は、今風に流した髪をざんばらに額に落とし、白い開襟シャツに黒のズボンという出で立ちで、ただ一人、座の中で洋装を決め込んでいる。
家元が来てもろくに挨拶もせず、それが元で御園に叱られても、他人ごとのような冷めた目で、障子の外を見つめている――雅流の野放図な性格は、年を追うごとにひどくなるばかりである。
が、志野の雅流への感情は、三味線のことになると全く別のものになるのだった。
不思議だな、と、雅流の指を見る度、いつも志野は思ってしまう。
節くれだっていて男らしい指。なのに――いったん三味線の撥を持つと、その無骨な指が信じられないほど優雅に動く。心を溶かすような優しい音色を奏でるのだ。
雅流は器用に、そして力強く糸を巻き締めると、何事もなかったように、三味線を志野の膝に投げてくれた。
「あらあら、雅までお母様やおじいちゃまの真似事なのね」
呆れたように眉をひそめ、鞠子が露骨に嫌な顔になる。
雅流は――それが普段の彼なのだが、むっつりとした表情のまま、腕を組んで押し黙ったままだった。
「姉さんのすねる気持ちは判りますけど、志野は、腕だけは確かですからね」
雅流の横で、柔らかく口を挟んだ人がいた。
櫻井家の長男、薫である。
「なにしろ、あの厳しいお母様が気に入って、片時も離さない秘蔵っ子ですよ。あれだけ毎晩お母様の稽古につき合わされているのだから、嫌だって上達するでしょう」
薄い唇が微かに笑う。
色白の肌に整った顔立ち、少し色素の薄い髪と瞳。実際、女にしてもいいほどの、綺麗な容貌をした男である。今も薄暗い部屋の中、薫の周辺にだけ燐光がかかったような輝きがある。
東京芸大の邦楽科で、二つ年下の雅流と共に本格的に三味線を習っている薫は、今日は、黒単に袴という凛々しい姿であった。
優しげな微笑を浮かべたまま、薫は続けた。
「僕も時々、志野の三味線を聞いては勉強させてもらっているんですよ。本音を言えば、志野のように、お母様につきっきりで稽古をつけてもらいたいのですがね」
志野は、目を伏せていた。できるならば、その声さえも遮断してしまいたかった。
一見天使のような美貌を持つ薫だが、彼の内面に、実は非常に軽薄で残忍なものがあることを――志野だけは、嫌というほどよく知っている。
「あら、単にそれだけではありませんことよ、薫様」
薫の隣で、にっこりと微笑した人がいた。目が覚めるほど鮮やかな萌葱の着物を身につけている――男爵令嬢の、綺堂綾女(あやめ)。
「志野さんの才能は、お稽古で身につけたと言うより、きっと天性のものなのですわ」
「なるほど、天性の」
花より可憐な笑顔で見上げられ、薫の口元にわずかな苦笑が浮かびあがる。
「志野さんの演奏は、それはそれは見事ですもの。私、天性の何かを感じますわ。志野さんも、雅流様や薫様のように、本格的に邦楽をお学びになればよろしいのに」
無邪気な笑顔を振りまく綾女は、薫の幼少の折からの許嫁だった。
櫻井家と綺堂家、祖父の代から懇意だった両家の親によって決められた縁組で、昨年二人は、正式に婚約を交わしたばかりである。
実際、志野が、薫にいくばくかの人間らしさを感じるのは、彼が婚約者と一緒にいる間だけだった。が、それを微笑ましく思う反面で、薫の本性を知らない綾女が気の毒に思えてしょうがない時もある。
「そう、確かに志野には才能があるわ。だってそれが血筋ですもの。ねぇ、志野」
ふいに鞠子が、声を弾ませて膝を乗り出してきた。思わず見た顔は、意を得たり、とでもいうように生き生きと輝いている。
「志野さんのお母様は、それはもう、見事な三味線の弾き手でおられたのですもの。私、初めて知りましたわ。殿方の前で三味線を弾いて、そしてお酒の相手をするだけで、随分なお金になるんですって」
聞き流し、うつむいて三味線を本調子に合わせ始めた志野は、それでも一瞬、手が強張りそうになっていた。
母が本所で芸者をしていた――その過去は、鞠子に今さら言われるまでもなく、もっと屈辱的な形で、何度も志野を苦しめている。
「お喋りはこれくらいになさい、鞠子」
重々しい声で、志野の動揺を救ってくれたのは、家元の黒川泰三だった。
灰色の頭髪と、薄い顎鬚を持つ痩せぎすの老人は、七十近くなった今でもかくしゃくとし、長唄三味線の最大流派、黒川流のトップの椅子に何年も座り続けている。
「志野、弾いてみなさい。お前たちは皆、真剣に聞くように、――特に薫」
老人は、鋭い眼差しで、斜め前に座る孫を睨んだ。
「今日のお前の演奏は、全く心が入っていなかった。稽古をさぼっているのだろう。調子が途中から何度も狂って、聞き苦しいことこの上ない」
いきなり叱責された薫は、目を伏せたままで居住まいを正す。
本格的に三味線で身を立てたいと公言している薫は、黒川流の後継者の座を狙っていることを隠そうとはしていない。ゆえに薫は、黒川流家元である祖父には、実のところ犬よりも従順なのだ。
けれど、祖父の目の届かないところでの薫は、暗い、陰火の灯ったような眼差しを志野に向ける。
今も志野には、薫がこう言っているように思えた。
いい気になっているのも、今のうちだぞ――。
「はい、おじいさま」と素直に頷きながら、薫はわずかに視線をあげて志野を見る。
湖面のように凪いだ目は、笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
――今夜もだろうか……。
志野は憂鬱にけぶりそうな眼差しを伏せ、一息ついてから、ようやく撥を動かしはじめた。
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