二十五
「お入り」
襖を叩くと、中から静かな声がした。
志野は静かに襖を開け、廊下に座ったままで、両手をついて頭を下げた。
雅流は、さきほどまで演奏していた三味線を膝の上に置き、袂から布巾を取り出しているところだった。外出から帰った時の洋装から、静かな色合いの和服に着替えている。
そして――三味線を丁寧に拭きながら、穏やかな声で雅流は言った。
「母さんのことなら、心配しなくてもいい。家に帰る前、姉さんには俺が電話しておいた」
何もかも、見透かしたような言い方だった。
志野は、そのまま動かなかった。
無言で顔を上げた雅流の目は影で覆われ、その顔がどんな感情を抱いているのか、読み取る事はできない。
志野は躊躇し――けれど、確かな決心を固め、膝で、雅流の傍ににじりよった。
雅流は気配に驚いているのか、わずかに眉を上げている。
二畳分の間をあけ、そこで膝を止めた志野は、両手をついて頭を下げた。
「志野で、ございます」
自分の声が震えていた。
「奥様に呼ばれ、今日、急ぎ高岡からまいりました。お久しゅうございます」
雅流の返事はない。動く気配さえない。
震えだす指を懸命に堪え、志野は続けた。
「お察しいただけますでしょうが、本当は来たくなぞございませんでした。奥様からご事情をお聞きし、夫がどうしても、と言うから出向いたのです。私どもの……立場をお察しくださいませ。大恩ある奥様の願いを、どうして私たち夫婦が断れましょうか」
答えない雅流の、膝だけが志野には見えた。
息を吸い込み、志野は唇を噛みしめた。
「奥様は、何か誤解しておられるようですが、こうなっては、雅流様が私に約束なさるまで、私は夫と子供の元に帰ることはできません。私を憐れと思うなら、少しでもご自分の罪を罪とお認めになっておられるなら、どうぞお約束くださいませ。目を」
「夕飯は作ったのか」
唐突な声だった。
志野は驚いて顔を上げていた。
「高岡が丹精こめて作った野菜だ、痩せすぎのお前のことを案じていた」
「………」
雅流の顔を見つめたまま、志野は――身体を強張らせ、言うべき言葉を、いや、とるべき態度を考えていた。
「お前は何故、ここにいる」
雅流の目が、初めてまっすぐに志野を見つめた。
「俺を憎んでいるはずのお前が、どうして、俺の傍にいるんだ」
生気のこもった、確かな意思を有した眼差し。
志野は――全てを理解した。そして同時に驚愕した。
「いや……っ」
逃げる志野より、雅流の動きのほうが早かった。顔を覆おうとした手首をつかまれる。
雅流の眼は、確かに視力を有した人のそれだった。かつてのように、どこか一点を見つめているのではない。
「お前が、口が聞けない真似を止めるまで」
両手を押し開かれる。強い力に抗いきれず、志野はただ、顔をそむける。
「俺も目が見えないふりを続けるつもりだった。そうでないと、お前がまた去ってしまうと思ったからだ」
「いつからですか――」
志野は、声をふり絞り、顔を背けたままで呟いた。
「……いつからですか、あなたは」
「何ヶ月か前から、時々光がまぶしいと感じるようになっていた。あれは、お前に母の様子を尋ねたときだ」
引き寄せようとする腕を、志野は満身の力で押し留め続けた。
「お前がふいに障子を開けたんだ――顔を上げると、目の前には、志野が立っていた」
「離してください……っ」
張り詰めていた力が途絶え、そのまま志野は大きな腕に抱き締められていた。
「すぐに光は消えて、俺にはそれが、錯覚だったのか現実だったのか判らなくなった。迷っている時に、姉さんがきてあの騒ぎになった。姉さんの口からお前の名前が出た時に、ようやく俺は理解したんだ。ずっと俺の傍にいた女が、志野だったのだと」
「どうして、すぐに言わなかったのです」。
震えながら、志野は訊いた
「言えばどうなる。どうしてお前は口のきけない振りをしていた。その時の俺には、お前が自分の意思で傍にいるとは思えなかった。母さんと姉さんが企んだことだろうと、正直、腹をたてもした」
雅流の声には怒りがある。志野は言葉を失っていた。だからあの時彼は、御園が怒るほど冷淡な態度で「僕には関係のない人です」と言い切ったのだ。
「次に視力が戻った時……夜半だった。あれから時々、ちらつくように光が差すようになった目が、その夜はどうしたことか、ずっと鮮明に見えていた」
それがいつのことか、考えるまでもなかった。あの夜、雅流がいきなりやってきた夜のことだ。
「今夜しかないと思った俺は、どうしても確かめたくて、お前の部屋に行ったんだ。はっきりと顔を見て、問い正すつもりだった。でもできなかった」
「どうしてですか」
言葉を途切れさせた雅流は、わずかに眉を翳らせた。
「……お前が口がきけないでいるのは、俺が思うような理由ではないかもしれないと思ったからだ」
その時に。
志野は唇を噛みしめた。私の顔を、彼ははっきり見てしまったのだ。
「それから……ずっと、考えていた。お前が俺の傍にいることの意味や、お前が今まで俺にしてくれたことを……考えていた……」
「目は」
唇を震わせながら、かろうじて志野は言った。
「では、その時からずっと……見えていたのですね」
「時々見えたり……見えなかったり、その繰り返しだ。ようやく視界がはっきりしてきたのは、ここ十日くらいのことだ。それも一時のことで、また見えなくなるのかもしれないが」
「病院に行ってください」
もの言わず、雅流の腕が、志野を強く抱きしめた。
息苦しいほどの体温に包まれながら、志野はうわ言のように繰り返した。
「お願いです、病院に行ってください。きちんと手術を受けてください」
「俺は莫迦だった、まさか――ずっと傍にいた女が、お前だとは夢にも思わず、ただ三味線だけに心を奪われていた」
「奥様のためなのです」
もう抵抗する力はなかった。それでも言葉で、志野は彼に抵抗した。
「私はただ、奥様のお手伝いをしたかっただけなのです」
「俺もそう思った、だから、ずっと迷っていた」
「あなたが迷う必要などないのです、私は」
「お前は嘘までついて、俺の傍から消えた。それにも、何の意味もないと言えるのか」
「……奥様を」
悲しませたくなかっただけなのです。それだけなのです。
繰り返しながら、志野はいつしか嗚咽をもらし、泣いていた。
「俺ももう限界だった。だから高岡まで行ったんだ。真実を聞きたかった、お前がこの六年、何をして過ごしてきたのか」
志野は首を振った、振りながら泣き続けた。
「俺はもう決めた、今度こそお前を俺の妻にする。母さんにもそう伝えた。今夜、母さんは帰らない、鞠子のところに泊まって帰る」
「……お、お願いです……」
夢のような言葉だった。今までの苦労も辛さも、悲しみもやるせなさも、その瞬間溶けて消えるようだった。それでも志野は、それでも首を――横に振らなければならなかった。
「そのようなことを、仰らないで……私を……苦しめないで……」
「お前がここを出て行くのなら、俺は医者になど決して行かない。このまま再び、何も見えなくなった方がましだから」
「…………雅流様……」
束ねた髪に――雅流の指が触れている。何度も優しく撫でてくれている。
せきあげる涙で、もう呼吸が苦しかった。
「それでも……それでも、私は」
「言ってくれ、志野、一言でいい、俺を好きだと言ってくれ」
「いいえ、いいえ」
「志野……言ってくれ」
「いいえ、いいえ」
「言ってくれ、志野」
「…………」
ぐっと、強い何かが込み上げて、志野はその一時、狂おしいばかりの激しさで目の前の男を抱き締めた。
「好きです、あなたが好き、大好き」
多分――最初から、最初にこの人の音色を聞いた時から。
御園に「志野をお手本にしているのかしらねぇ」といわれた時、志野はようやく理解したのだった。彼が私の音色を真似ているのではない、その逆で――私が、彼の音色に惹かれ、音を極める道にのめり込んでいったのだと。
「でも、一緒にはいられない。例えあなたが忘れても、私にはどうしても忘れられない。私は、何度も、あなたの前で浅ましい姿になりました。それが――どうしても忘れられない。大切なあなたの妻が、こんな汚れた女であることが、……私には耐えられない、我慢できない!」
「志野……」
「私を一人にさせてください、私を……苦しめないでください……」
雅流の唇が、やさしく額に――決して見られたくなかった傷跡に触れた。
顔をそむけても、どれだけ逃げても、男の唇はひるまなかった。
「お前は大切なことを忘れている」
腕が背に回り、和服の着付けに手馴れた手が、簡単に帯を解いていく。
「いやっ……お願い」
志野は男の胸を叩いた。
惨めに痩せた身体を、この人にだけは見られたくない。 「お前は自分を浅ましいという。では、それを黙って見ていた俺はどうなんだ、兄貴と一緒に外道も同然のふるまいをした俺はどうなんだ」
「そんなこと……」
「お前がその時に汚れたというなら、俺も同じ時に汚れたんだ」
はっと息をも止まるような思いで、志野は雅流を見上げていた。
「俺が、どれだけ自分を蔑んでいたかお前に判るか。どれだけ自分を汚いと思っていたか、……お前は、判っていないのか」
志野が受けた心の傷を、同じ深さで雅流もまた、何年も引きずり続けていたことに、志野はようやく気づいたのだった。
「お赦しください……」
震える声で、志野は言った。
「雅流様が、そのようにお思いになる必要はなにもないのです。雅流様には関係ございません。これは、私一人の問題なのでございますから」
懸命に訴える志野を遮るように、雅流はゆっくりと首を横に振った。
「お前は何も知らない、男というのは、お前が想像している以上に浅ましくて、獣みたいな生き物だ、お前は俺を美化すしぎているだけだ」
仰向けに、畳の上に倒される。
志野は、怯えたまま、ただ目を閉じ、顔を背け続けていた。
「今から、それを教えてやる」
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