二十二

 見慣れない色をした手紙がポストに投げ込まれているのに気づいたのは、暮れも押し迫ろうとしている夕刻のことだった。
 今日は大きな座敷に呼ばれているらしく、御園と雅流は連れ立って外出し、その日、志野は独りで留守居をしていた。
 ――なんだろう……。
 手紙を裏表にひっくり返し、志野は首をかしげていた。
 宛名も差出人も、暗号のような奇妙な字で綴られている。
 不思議に思いつつ、帰ってきた御園の元にそれを持っていくと、
「あら、これは、外国からの手紙ですよ。エアメイルというのよ、志野。雅流にきたものなのだろうけど」
 御園は、差出人に心当たりがあるようだった。
「なんなのでしょうねぇ、今時分」
 呟きながら、手紙を持って雅流の部屋へ消えてしまった御園を見送ってから、志野は夕食の準備のために台所に立った。
 悲鳴のような――歓喜とも絶望とも思える声が聞こえたのはその時だった。
 ――奥様……?
「おお、……こんなことが、聞いて頂戴、雅流の目が……」
 しばらくして、台所へ戻ってきた御園の目は充血しており、顔色は興奮のせいか、薄赤く染まっていた。
「あの子の目が、見えるようになるかもしれないのですって。向こうで雅流の主治医だった人が、連絡をくだすったの。最近成功した新しい手術なら、目を見えなくしている原因を頭から取り除く事ができるかもしれないって」
 志野は、何も言えない代わりに、取り乱した御園の両手を握り締めた。
 御園は、志野にすがり、崩れるようにして泣き咽んだ。
「奇跡だわ……ああ、神様、ありがとう……雅流の目が……あの子の目が……」
 志野も御園から聞いてはいた。雅流が失明した原因は、頭部の内出血が、視神経を圧迫していることからきているらしい。
 ただ、日本で再検査した医師は、レントゲン写真を見て、出血が原因かどうかははっきり判らない――と首をかしげており、いずれにしても、視力回復は不可能だと思われていただけに、喜びはひとしおだった。
「奥様、おめでとうございます、本当におめでとうございます」
 二人きりになってから、志野はそう言って、御園の筋張った手を握りしめた。志野もまた、自分の双眸に浮いてくるものを、抑えることができなかった。
 そして、同時に察してもいた。
 彼の眼が開く前までに――自分は、ここを出て行かなければならない。

     二十三

 翌日は朝から小雨が降っていた。
 午後になり、ひそかにまとめた荷を押入れの中から出した時だった。雅流と共に病院へ行ったはずの御園が、ふいに背後に現れたので、志野は鞄を足元に落としたまま、立ちすくんでしまっていた。
「奥様」
 けれど、振り返った志野は、思わず声を上げていた。
 襖にもたれるようにして立っているのは――御園である。が、その顔色は蒼ざめ、髪は乱れ、まるで死人のように見える。着物は着崩れ、肩にかけたショールが脚元まで垂れ下がっている。
「志野……お前に、……無理を承知で、頼みが、あります」
 駆け寄る間もなく、その場にがくりと膝をつくと、御園はきれぎれの声で言った。
「奥様、どうなさったんです」
 これは、ただごとではない。
 今朝、あれほど喜んで家を出ていったはずの御園が、どうしてこんな。
 志野の抱きかかえられると、御園はようやく面を上げた。その目にうっすらと、滲むものがある。
「雅流に……あの子に、手術を受けるよう、お前の口から言っておくれでないか。あの子を説得できるのは、志野、もうお前しかいません」
「え……?」
 言われている言葉の意味が、よく理解できなかった。
「……それは」
 どういうことなのだろう。何故――目を見えるためにする手術に、説得などがいるのだろうか。
 混乱したまま、口ごもっていると、御園は辛そうに目を逸らした。
「お前が、雅流の目が見えるようになれば、出て行くつもりなのは知っています。いえ、今だって出て行く用意をしていたのでしょう。……それを承知で頼む私を、いくらでも恨んでおくれ。志野、雅流は今のままでいいというのです。三味線を極めるためなら、視力などいらないというのです」
 そんな、莫迦な。
 志野は、声を立てずに驚愕していた。
「今日も病院へ行く途中、あの子はそう言って車を降りてしまったのです。目も見えないのに、……一人で、いったい何処へ行ったのやら」
「雅流様は大丈夫です、しっかりしておいでですから」
 動揺したまま、それだけしか言えなかった。
 今のままで……いい?
 いくら三味線のためだと言っても――信じられない、その考えは理解できない。いったい彼のために、この老いた母親が、どれだけの苦労を重ねてきたのか――雅流様は本当に理解しているのだろうか。
 そして、指を何よりも大切にしなければならない三味線奏者として、やはり視力はないよりあった方がいい。先日の湯沸しの件といい、この先、何が起こるか判らないのに――。
「志野……」
 肩を強く抱かれ、志野ははっとして我に返った。
「お前しか、もう私には、お前しか頼る者はいないのです。本当のことをいいます。雅流の縁談は、とうに破談になっているのです。いったん自分で了承したものを、あの子は、四方八方に土下座して自ら断りに回ったのですよ」
 目の前が暗く陰るのを志野は感じた。
「どうして……」
 どうして、そんな。
「……私は愚かでした。雅流の時雨西行なら……何年も前に聴いていたのに」
 囁くように言い、御園は老いた目から涙を零した。
「お前は気づかなかったのですか、雅流の弾き方に独特の悪癖があることに。何度も厳しく言って叱ったものを、雅流は何故直そうともしないのでしょう。あれはお前の弾き方なのです。いえ、今のお前には決して弾けない、昔のお前の弾き方なのです」
 志野はよろめき、背中を壁に当てていた。
 雅流の時雨西行に、妙な癖があることは六年前から知っていた。ただ、それが、自分の弾き方だったとは、夢にも思っていなかった。
「あの夜……、私は、ようやく、判ったのですよ」
 涙で潤んだ目で、御園は志野の両手を握り締めた。
「あの子の情は、私が思うより遥かに深い所にあったのです。雅流はね、志野、今でもお前のことが忘れられないのです」

    二十四

 とにかく、私は鞠子のところへ相談に行ってきます、もしかして、雅流が行っているかもしれませんから。
 そう言い残し、御園が出て行ってから、どれだけの時間がすぎただろうか。
 夕闇に包まれた座敷で、呆けたように座り続けていた志野は、それでも夕食の支度の時間がくると、機械的に立ち上がっていた。
 御園の言葉を、志野は――何度も反芻し、その意味を考えていた。
 雅流が自分のことを忘れられないという――本当だろうか……、一瞬揺らいだものの、妄想は、すぐに激しい感情で打ち消した。
 有り得ない。
 御園は知らないのだ。自分が、いかにひどい言葉で、年下の男を傷つけてしまったか。プライドを踏みにじってしまったか。
 それに、もし、――有り得ないことだが、雅流がまだ――自分にいくばくかの感情を抱いてくれているとしても。
 志野が、自らを名乗り出て、そして説得したとしても、自分の言葉が何の意味を持つのだろうか。雅流が実際、どういう思いを抱いているのかは知りようがない。しかしいずれにしても、彼を再度傷つけ、怒らせるだけではないのだろうか。
 名乗ろうとも、黙っていようとも――結婚が破談になろうとも――それでも。
 彼の眼が開く時、自分はもう、その傍にはいられないのだから。
 激しく胸が痛むのを感じながら、志野は自分の傷跡に手を当てた。
 この顔を、そして貧相に痩せた身体を――変ってしまった自分を、彼にだけは見られたくない。眼が開いた彼はどう思うだろう。激しく失望し、それでも優しいあの人は、情けで傍においてくれるだろうか。それだけは……できない。そんな負担にはなりたくない。
「…………」
 志野は目を閉じた。長い間閉じ続けていた。
 いつの間にか日は暮れ、畳に伸びた志野の影も、闇に紛れて消えていく。
 ようやく心が、一つの道を探り当てた時だった。
「ただいま」という声が玄関から聞こえた。
 まるで普段どおりの、雅流の声だった。
 志野は―― 一時、躊躇して、それから玄関に向かって小走りに駆けた。
「昔の知り合いにもらった、お前の好きに料理してくれ」
 三和土に立っていた雅流は、手にしていた紙袋を差し出した。ずっしりと重い袋の中には、白菜や大根、長ネギなどが溢れている。
 言葉をかける間もなかった。雅流は悠然と靴を脱ぎ、志野の横をすり抜けて自室へと戻っていく。
 ――どうしたら、いいのだろう……。
 決心のつかないまま、志野は野生の匂いがする袋を抱き、台所に戻っていった。とにかく、鞠子の家に電話しなければならない。けれどこの家で、雅流がいる時に口を開くことはできないから――。
 台所であれこれ迷う内に、雅流の部屋から三味線の音色が聞こえてきた。
 志野は手をとめた。
 それは何百回も繰り返し聞いた、時雨西行だった。
 本調子、二上がり本調子――調子が変り、しっとりと――胸にしみいるように響き続ける。
 遊女江口が自分の身の上を語る場面になり、志野は自分の目に、自然に涙が流れていくのを止める事ができなかった。
 ――雅流様……。
 これまで聞いたどんな演奏より、今日の雅流の弾く時雨西行は素晴らしかった。
 耳から胸に、雨のように旋律がしみていく。
 初めは静かに、囁くように優しく、それが緩急を交えて激しくなり、やがて気高く鳴り響く。
 志野は目を閉じ、そっと音色に自分を重ねた。
 愛しい人と心が溶けあい、魂ごとひとつになる――そんな感覚を、確かに感じる。
 出て行こう。
 志野は、ようやく迷いの縁から浮かび上がっていく自分を感じた。
 出て行こう、明日――いえ、今夜にでも、この家を。
 もういい、本当に、心からそう思えた。
 この演奏を、この音を聞くことができただけで、何もかも報われた。何もかも――この愛しさも苦しさも。
 深く蓄積された想いが、緩やかに解き放たれ、清らかな光となって浄化していく。
 眼を閉じていても判る。はっきりと頭に浮かぶ。
 彼の撥が、指先が。
 きれいな横顔が、凛とした背筋が、美しい眼差しが。
 涙を拭い、志野は、彼への思いを胸の内で繰り返した。
 決して、叶わない恋だけど。
 明日には、別れる人だけど。
 もう二度と、生涯会えない人だけど――。





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