二十
眠りに落ちかけていた志野は、かすかな物音で目を覚ました。
締め切った襖を、外から叩く音がする。
――奥様……?
志野は慌てて跳ね起きた。
「しず、俺だ」
雅流の声だった。そうだ、御園は今夜、鞠子の家に行くといったきり、まだ戻って来ないのだ。夜半すぎに、今夜は泊まりになりそうだから先に寝ておいで、と電話があったばかりだった。
再度、襖が叩かれる。
志野は、布団の上に半身を起こしたまま、びくりと身体を震わせた。
夜は、しんと静まり返っている。
一度寝所に入った雅流が、途中で起き出してくることなど初めてだ。志野の部屋に、自ら呼びに来るのも初めてである。いったいどういった用向きだろう。こんな時間から、よもや三味線の稽古だろうか。
困惑したまま、手を叩くことさえ忘れていると、少し躊躇したような低い声がした。
「遅くにすまない、悪いが、茶を一杯煎れてもらえないか」
そんなことか……。
ほっとして、ようやく冷静になって、志野は一回手を叩いた。無駄に緊張した自分が、愚かしくもあり、おかしくもある。
夜着の上に上掛けを羽織り、急いで暗い廊下に出る。
雅流の姿はもうなかった。代わりに、台所に明りがついている。
志野が出て行くと、所在なさげに立っていた雅流は、ようやく安堵したような表情になる。そして、慣れた足で座敷にあがり、卓袱台の前に腰を下ろした。
「すまない、こんな時間に」
志野は微笑し、軽く二回手を叩いた。いいえ。
台所は、座敷より一段低い土間にある。湯沸しを火にかけながら、志野は、雅流がいつになく憔悴しているのを感じていた。
――どうなさったのだろう……。
昨夜の鞠子とのいさかいを、まだ気にしているのだろうか。それとも三味線のことだろうか。
卓に肘をついた雅流は、右手指を唇にあて、ずっと無言のままでいる。
柱時計が十二時を告げた。こんな時間までいったい何をなさっていたのだろう。三味線の音は聞こえなかったけれど――志野は、不思議に思いながら、戸棚を開けて茶葉を取り出した。
湯が沸き、茶の匂いが室内にたちこめるまで、志野が口を聞けないのはもちろんのこと、雅流もまた、一言も喋ろうとはしなかった。
初めてこの沈黙を気詰まりに感じながら、志野は、少し冷ました茶を、彼の座する卓にそっと置く。
そして、手を一度叩いた。
「ありがとう」
そう言ったきり、雅流は再び口を噤む。
雅流が――何かを迷い、沈思しているのは明らかだった。それが、彼自身の結婚のことなのか、三味線に係わる事なのか、志野には測るよしもない。
時計の秒針の音だけが響いている。
雅流の手の中で、茶は、多分、すっかり冷めてしまっている。
屋根を叩く雨音がした。雨が降り始めたのかもしれない。志野は立ち上って土間に下りると、まだ熱い湯が残る湯沸かしを持ち上げた。桶に移し、冷まして飲み水にするつもりだった。
雨音が少し強くなる。ふいに、雅流の声がした。
「お前は、結婚しないのか」
意識を雨に向けていた時だった。志野は驚いて、湯沸かしから手を滑らせていた。
――いけない。
わずかな悲鳴がもれ、足元に熱い湯が飛び、獰猛な蒸気が舞い上がる。
「大丈夫か!」
雅流が立ち上がる。志野は慌てた。いけない――こっちへ来てはいけない。急いで手を二度叩く。熱い湯に触れ、指に火傷でもしたら――。
けれど雅流は、過たずに志野の傍に駆け寄ってきた。
――駄目。
自分より、むしろ濡れた土間に素足で飛び込んでくる雅流のほうが危険だった。志野は言葉の代わりに、咄嗟に目の前に迫る男の胸を、両腕で強く突いていた。
虚を衝かれたように、雅流は壁に背をぶつけ、そのままよろめいて腰をつく。
同時に志野も前のめりに倒れ、男の胸に被さるようにして膝をついた。
雅流の両腕が志野を支える。それでも勢いを支え切れず、二人は重なるように土間に倒れた。
気がつくと志野の目の前には隆起した雅流の喉があり、襟からのぞく、形良い鎖骨があった。
心臓の音が聞こえる。激しい自分の動悸が聞こえる。志野は、おそるおそる顔をあげた。ほとんど触れあうほど近くに、雅流の顔があった。滑らかな肌があった。唇が動くのが見えた。
直視できないまま、志野は目を逸らし、立ち上がろうとした。
ふいに、強い力で肩を抱かれた。
肩を抱いた腕は腰にまわり、そのまま強く引き寄せられる。
――え……?
何?
胸が――痛いほど圧迫されて――別々だった鼓動がひとつになる。
――どういうこと?
動揺と混乱で、息もできないほどだった。ただ、抱き締められるままになりながら、志野は顔さえあげられなかった。
これは――どういうことなのだろう。この抱擁に、いったい何の意味があるのだろう。
何かの間違いだ。そうに決まっている。
志野は自分に言い聞かせ、控え目に身をよじる。拒否の意思表示のつもりだったが、さらに強い力で、その動きは封じられる。
ますます判らなくなり、雅流の顔を見ようとする。けれど、腕はそれさえ許さない。
さらに強く抱きしめられ、耳元に、男の吐息が触れる。
――雅流様……。
ふいに恋しさで胸が詰まった。苦しい、辛くて――息もできない。別れてから、どれだけ夢をみただろう。もう、絶対に、二度とありえないことだと思っていたのに――。
けれど、我を忘れていたのは、夢を見ていたのは一瞬だった。
志野は激しく身をよじり、急いで手を二度叩いた、強く叩いた。
一瞬ひるんだ男の腕を逃れ、胸を押しのけるようにして立ち上がる。
「……すまなかった」
やがて身を起こした雅流は、背を向けて立ったまま、呟いた。
声は、六年前、別れの日に聞いたものと、まるで同じように聞こえた。
「お前が」
雅流は言いかけ、わずかに躊躇して、うつむいた。
「……一瞬、昔好きだった人のように思えたんだ……。悪かった、もう二度とこんな真似はしない、許してくれ」
うつむき、込み上げる感情を堪えたまま、志野は手を一度叩いた。
動悸が、胸苦しく渦を巻く。どうして、そのような錯覚をなされたんだろう。もしかして、お気づきになられたのだろうか。
ひどく沈んだ横顔のまま、雅流は再び座敷に上がる。彼が冷めた茶を飲み干すまで、志野はその場から動くことが出来なかった。
「ごちそうさま」
雅流が、両手を卓について立ち上がる。はっと志野は身をすくませる。気配を察した雅流が、表情を陰らせるのが判った。
「怖いか……当たり前だな」
うつむいた志野の耳に、自嘲気味の声がした。
「三味線の音で……それで錯覚したのかもしれない。いや、錯覚というより、夢を見ていたんだ。……許してほしい」
志野は大きく息を吐いた。今の感情をどう言い表していいのか判らなかった。
雅流もまた、憂鬱気な溜息を吐いて、続けた。
「こんな不様な真似をした以上、お前が俺を恐れるのは仕方のないことだと思う。……だが、母さんは、お前だけが頼りなんだ。もう少しの間、傍にいてやってくれないか」
「…………」
「お前が言いにくいなら、俺の口から今夜のことを話してもいい」
慌てて手を二度叩く。何度も叩く。
雅流が自室へ戻って、ようやく、志野はその場にしゃがみこんだ。
手足が、ぶざまなほど震えている。
落ち着かなければならない――。
必死で自分に言い聞かせた。
気持ちの箍が壊れて、そして外れてしまえば、もう、ここにはいられないのだから……。
二十一
「お前を縛ることはできないとわかっていますよ、でもね、やはり雅流の式の日までは、ここにいておくれでないか」
御園にふいに言われたのは、その夜からいくらもたたない午後のことだった。
多分――志野の態度にも表情にも、あからさまな憂いが出ていたのに違いない。女主人に気を使わせてしまったことが申し訳なく、志野はただ、申し訳ありません、とだけ繰り返した。
雅流は、朝から稽古場に篭りきりで三味線を奏でている。
流れるような旋律が、向かい合って座る二人の女の耳にも響いてくる。
「あらためて……」
ふっと息を吐き、御園はわずかな苦笑を浮かべて呟いた。
「お前には、謝らなくてはならないと思っているのですよ、志野。六年前も、今も、私がお前たちの気持ちを理解できないばかりに、結局はお前一人を傷つけてしまったようで」
「とんでもないことでございます」
「六年は……」
遠い目になって、御園は笑った。
「私のような年寄りには、わだかまりを流すには短すぎる年月ですけど、雅流のような若い者には、十分な時間だったのですねぇ」
無言のまま、志野は頷いた。
あれから数度部屋に呼ばれ、いつものように稽古をしたが、雅流の態度は全く普段と変わらないものだった。
ただし、志野の警戒を察してか、態度は少しばかり他人行儀で、砕けた笑顔をみせることもなかったが、違いといえばその程度しかなかった。
「私が……奪ってしまったのですねぇ」
寂しそうに呟く御園の手を、志野はそっと握り締めた。御園の目は潤んでいた。
「許しておくれ、志野。私は、雅流が本心でお前を望んでいるのならば、何をしても信楽との縁談はお断りするつもりでした。本当です。私も武士の家に生まれた娘ですから」
「わかっております」
志野は頷いた。「ただ私は、それを望んでお傍にいるのではないのです」
御園もまた、頷いた。枯れた指で涙を拭った。
「何度聞いても雅流の意思が固いので、私もあきらめがつきました。言ってはいませんでしたが、明日が正式な結納です。婚礼は来年の三月頃になるでしょう。江見さんが女子大を卒業されてからということになりそうですから」
「本当に、おめでたいことだと思います」
気持ちにも言葉にも、嘘偽りはわずかもなかった。例え何があろうとも、志野が雅流の前に出て行くことはできない。金銭的にも物理的にも、手助けすることは絶対にできない。その役目を他に託すなら、これほどいい縁談はまたとないもののように思われた。
――これでよいのだ。これほど幸せな結末はない。
志野は自分の胸に、再び頑なな鍵がかかるのを感じていた。
だったら精一杯お世話をしよう、こうしていられるのも……本当にあとわずかなのだから。
その日以来――はっきりと覚悟を決めてから、ようやく志野の日々はいつもどおりの処に落ち着いた。
稽古に明け暮れる雅流は、あの夜のことなどまるで気に掛けていないようだったし、御園は、別人のように機嫌がよくなった。
「今日は気分がいいのよ、私も何かこしらえましょうかね」と、台所に立ち、包丁を取る事もしばしばだった。そんな日は、二人は本当の母子のように、屈託のない時間を楽しんだ。
「私はねぇ、志野」
今日も御園は、台所で機嫌よく志野に語りかけた。
「今、とても幸せなのですよ。あと何年かして旦那様のところへ行く段になって、私の人生というものを振り返った時」
きっと、今ほど幸せな時期はないと、そんなことを思ったりするのですよ。
御園の言葉を聞きながら、志野もまた同じことを考えていた。
雅流の奏でる三味線の音が、台所に立つ二人にところにまで響いてくる。
――時雨西行……。
志野はふと、野菜を洗う手を止めていた。
「おや、時雨西行とは懐かしい」
御園もまた、包丁を持つ手を止めていた。
「目が見えなくなった雅流に、最初に稽古をつけてやった曲ですよ。あれから弾くこともなくなったのに」
「お若い頃にも、よく練習なさっていた曲ですね」
志野は頷いて目を閉じた。
生涯忘れることはない曲だった。耐え難い――人生の地獄としか思えない状況で、何度も何度も繰り返し聞いた曲だった。一時は、思い出すのも辛くなる曲だった。
なのに昔も、そして今も、不思議と悲しみは感じない。ただ、安らいだ幸福だけが緩やかに志野を包みこむ。
「お前が最初に弾いたのも、そういえば時雨西行でしたね」
「そうだったでしょうか」
少し驚いて志野は眉をあげていた。
御園はおかしげにくすくすと笑った。
「私が教えたのではないのですよ。お前が母親の曲を、見よう見まねで弾いていたのです。覚えてはいないでしょうねぇ……お芸者風とでもいうのかしら、随分な悪癖があって、改めて教える際に、ひどく苦労しましたから」
まるで記憶にない話だった。けれど昔から時雨西行には、ふと心惹かれる何かを感じていたことだけは覚えていた。
「今にして思えば、鞠子や薫が、随分お前に嫌がらせをしていましたねぇ。お前はいつも一人で、時雨西行を弾いていたのですよ」
では私はいつも。
ふと志野は思っていた。いつもこの曲に、助けられていたのだろうか……。
美しい旋律は、変調を向かえて二上がりとなり、遊女江口が身上を語る場面になる。見事な演奏だと志野は思った。魂が、気迫が、離れている志野にも震えるほどに伝わってくる。
「今日は、いい音を出されていますね」
志野は嬉しくなって、隣の御園を振り返る。
御園は何故か放心したような目をしていたが、志野の声に、我に返ったように顔をあげた。
「奥様?」
「いえ……少し眩暈がしたのかしらね」
顔色が蒼白に変じている。志野は慌てて痩せた肩を抱き支えた。
「お休みになってくださいませ。後は私がしますから」
「悪いわねぇ」
やはり顔色の悪いままの御園だったが、床を用意する頃には落ち着いて、着替えも自分で済ませて床についた。
あらためて台所に立つ志野の耳に、再び時雨西行の音色が聞こえてくる。
穏やかで幸福な気持ちに包まれたまま、志野は雅流の好物を作り始めた。
――今が……一番いい時かもしれない……。
そして目を閉じ、この宝物のような時間が過ぎていく事を惜しみながら、残された日々を大切にしたいと心から思った。
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