十五

 御園が倒れたのは、それからほどなくしてからだった。
 幸い、風邪がこじれただけだろうと医師はいい、本人も一日寝ていれば治りますよと、いたって気楽なものだったが、年が年なのか、ふいに涼しくなった気候のせいなのか、二日たっても三日たっても、熱は一向に下がらなかった。
 志野は殆んどつきっきりで看病に当たり、鞠子と綾女が代わる代わるに手伝いに来た。
 雅流はしきりと母親の容体を気にしており、口が聞けない志野に代わり、鞠子や綾女が間にたって話をしてくれた。
 鞠子も綾女も、不思議なほど志野に同情的で、綾女などは時折そっと涙を拭うほどだったが、いきなり家の中に現れた女二人の存在は、志野に、寂しい事実を否応なしに再認識させたのだった。
 ――私では、いざという時、雅流様のお役にはたてない……。
 例えば鞠子のように、綾女のように。
 なんの躊躇もなく話ができて、手を取って身体を支え合うことができる、そのような人が、今の雅流様には必要なのだ……。
 そうして一週間がすぎ、十日が過ぎた。
 雅流との縁談が進んでいる雅楽器商の娘、信楽(しがらき)江見が櫻井家を訪ねてきたのは、そんな折だった。
「奥様がご病気で、櫻井様が、不自由しているのではないかと思いまして……」
 女中と下男を連れ、あでやかな洋装で現れた江見は、霞がかった美貌と、弾けるような若さを持つ、闊達な娘だった。
 笑顔は優しく、笑い声も清く、雅流が出かける場所にはどこへでもついていく。たった一日で、江見という女は、御園の病気以来どこか陰鬱だった櫻井家を、たちまち明るい色に染め上げてしまったようだった。
「お母さま、滋養によいという漢方をおもちしました。ぜひ、お試しになってくださいな」
 お母さま、お母さま、と可愛らしい声で連呼され、御園が嬉しくないはずはない。
 江見は、連れてきた女中や下男をつかい、やがて家中を彼女のペースで動かすようになった。屋敷の一部屋を自室として占領し、御園と雅流の身の回りの世話から、稽古の段取りまで、全て彼女が手配するようになると、本人に他意はなくとも、志野の居場所は自然となくなっていった。
「本当に腹がたつわ、あの女」
 鞠子一人が、未来の義妹に辛辣だった。
「平民のくせにずうずうしい。縁談なら、雅は断ろうとしているのよ。なのに、あんな風に恩きせがましい真似をして。可愛い顔にみんな騙されているけど、あれは相当の女狐よ」
 志野は鞠子の愚痴を聞き流しながら、庭の草を抜いていた。家内の仕事がなくなった志野は、もっぱら外回りの掃除や片付けをしている。
「お母さまもお母さまよ。あれだけ志野、志野と言っていたのに、何なのかしら、いったい」
 御園の気持ちは、志野には痛いほどよく判っていた。今の状況を、どれだけ心苦しいと思っているか……どれだけ胸を痛めているか。
「それにしても、わからないのは、雅流よ」
 鞠子は吐き捨てるような口調になった。
「あの子が今まで縁談を断ってきたのはなんだったの? ねぇ志野、お前のためだったのではないの?」
 戸惑って志野は、曖昧に微笑する。志野が判らないのは、むしろ手のひらを返したような鞠子の態度なのだが、むろんそれは口には出せない。
 稽古場の窓から、雅流の三味線の音が聞こえてきた。
 ――随分、御上手になられた……。
 志野は目を細めている。何度も繰り返し実演で教えた曲は、すでに完全に雅流のものになっていた。若干の迷いが随所にあるが、完成まで、あとわずかというところだろう。
 肝心の雅流は、母の容体が安定していれば、後は三味線だけに集中していたいようで、家のことは江見の好きなように任せている。澄みきって静かな眼差しからは、相変わらず何の感情も読みとれず、ただ時折、江見を見て微笑む姿から、決して、不快な感情を持っているわけではないことが伺い知れた。
 このご縁談は、きっと上手くゆくだろう。
 自分のせいで、雅流が幸運を逃してはならないと思いこんでいた志野は、その一点だけでも、肩の力が抜けるほど安堵した。
 が、連れ添って歩く二人に背を見送る度に、寂しいのか嬉しいのか、自分でも理解できない複雑な感情がこみあげ、ふと眼を伏せてしまうこともある。そんな時、志野は自らの顔を鏡で見て、自身の揺れそうな気持ちを励ますのだった。

      十六

「確かに、あれは口がきけませんけれど」
 戸惑った御園の声が聞こえ、自分のことが話題になっていると察した志野は、緊張して足を止めた。
 雅流の稽古場に、御園と江見が同席している。十一月の半ば、先週、ようやく御園は床上げとなったが、江見は相変わらず櫻井家を訪れ、御園に代わって采配をふるい続けていた。
「ああみえて、三味線は確かなのです。雅流の稽古には、随分と役にたつ娘なんですよ」
「三味線でしたら……私でも、お役にたてると思いますわ」
 江見の、控え目な声がした。
 その会話だけで志野には判った。
 江見は、志野にかえて別の女中を雇ったらどうかと御園に進言したのだろう。以前、わるびれない口調で「どうして不自由な方のお世話を、不自由な女に任せなくてはいけないのかしらね」と自らの女中に話していたのを聞いたことがあるからだ。
 おそらく、本当に雅流を気遣ってのことだろう。江見という女には、純粋な無邪気さしかないことを、志野は知っているつもりである。
 だから、腹も立たなかったし、むしろ当たり前のことを言われているのだと思った。しかし、同時にこう思わざるを得なかった。
 ――やはり……私は、お屋敷にあがるべきではなかったのかもしれない。
 御園の気持ちが判るだけに、断ることが忍びなく、それ以上に、助けて欲しいと言われれば、どんなことでもするつもりでここまで来た。
 が、現実に今、志野がいることが御園を悩ませているのなら、一日も早く、家を出たほうがいいのではないか……。
「なれどあの子は、可愛そうな子なのです」
 御園の、憤慨を必死に抑えたような声がした。
「わかりますけど、雅流様の傍におくのはいかがでしょう。目がお見えにならないのですから、普通より気がつく者を、おつけになるべきではないのですか」
「それは、我が家の問題ですから」
「お言葉ですが、私は、雅流様ことを心配申し上げているのです」
 それきり、息詰まるような沈黙があった。
「さっきから黙っておいでですけれど、雅流様は、どうお思いになるのですか」
 江見の、問い詰めるような声がした。
 志野はわざと足音を立て、自身が部屋の前に近づいたことを、稽古場の中にいる人たちに気づかせた。
 江見が口を閉ざし、御園が息を引くのが判る。志野は何気ない顔で頭を下げ、座敷の隅で三人に出す茶を用意し始めた。
 一人上座に座る雅流は、無言のまま沈思している。一見、女二人の言い争いに窮しているように見えなくもないが、志野の目には、彼はひたすら音のことだけを考えているように見えた。もしかすると、今までの会話も、殆んど耳に入っていなかったのかもしれない。
「しずさんと、おっしゃったかしら」
 志野は顔をあげ、頷いた。まだ先ほどの御園との問答を眉間に濃く残した江見は、膝で志野の傍までにじり寄り、急須にそっと指を当てた。
「随分と熱いお茶ですけど、雅流様の目が不自由なことは、ご存じでいらっしゃいますよね」
 知らないはずがない――。あえて念を押したのは、御園と雅流に聞かせたかったためだろう。志野は無言で面を伏せる。
 切り口上な声で、江見は続けた。
「私でしたら、雅流様のお茶は少し温めにいたします。うっかり熱いものに触られたら、大切な指を痛めてしまうことがありますから」
「まぁ」
 困惑気味に、志野を見たのは御園だった。
「私もよく言ってきかせていたのですよ。たまたま忘れたのでしょう。最近は、ずっと外向きの用事ばかりしていたようですから」
「その、たまたまが、命取りになることもございますわ」
 御園の言葉を当てこすりと思ったのか、江見も譲らずに言い返す。
 いけない――。
 志野は慌てて、両手をついて頭を下げた。こんなことで、御園に余計な心労を重ねさせたくない。
 その時だった。
「茶のことなら、いいのです」
 雅流の声がした。
「茶を熱くする代わりに、碗を冷やしておいてくれるのです。最初は気付きませんでしたが、おそらくそうでしょう。僕は、熱い茶が好きですから」
 志野は、顔を上げることができなかった。
 気づいてくださっていた――そのことさえ、言葉にできない驚きだった。
 江見も御園も唖然としている。
「しずのことですが」
 静かな口調で雅流は続けた。
「好みの問題かもしれませんが、僕には、この人の音があっているようです。お気遣いはありがたいのですが、しばらくはしずに、稽古を相手をお願いしたいと思っています」
 江見が去り、御園が早々に床についた後、志野は久しぶりに雅流に呼ばれて稽古場に赴いた。
「この曲を弾いてみたいのだが」
 差し出された譜面を見ながら、では――前の曲は完成されたのだ、と、志野はえもいえぬ感慨を噛みしめた。
「貸してごらん、糸が緩んでいるようだ」
 爪弾いた志野の三味線に、雅流がそっと手を延ばす。
 見えないはずの目が、確かに自分を見ているような気がして、その刹那、志野はふっと頬が赤らむのを感じていた。
 もし、口がきけるのなら――。志野はこう言いたかった。今日は、
「今日は、ありがとう」
 志野は驚き、目を見開いている。心を読まれたのかと思っていた。
 雅流は目を伏せたまま、手元の三味線を膝に乗せた。
「お前が、母さんを気遣ってくれていたのがよく判った。気分の悪い思いをしただろうが、許してほしい。彼女も、悪気があって言ったのではないと思うから」
 わずかに黙り、微笑して、志野は一度手を叩いた。判っています。
 静流の目元に、初めて柔和なものが浮かんだ。
「しずは、どこで三味線を習った」
 雅流の中には、しずという女がいるのだと、志野はようやく気がついていた。目に入っていなかったわけではない。心の底から無関心だったわけではないのだ。
「ああ、そうだな、言えないのか……もしかして、母さんだろうか?」
 ためらいながら、志野は手を叩く。
「そうか」
 雅流は、はっきりと笑顔になった。
「いい音だ」
 志野もまた、わだかまりが解けたように、自然に笑顔になっていた。





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