八
郊外の山間部に暮らす高岡の家は、田に囲まれた緩やかな勾配の上にある。
本郷から雇った車を降りた途端、御園は胸迫る何かを感じて、自然に目を細めていた。
過去の懐かしい世界に、足を踏み入れた気分だった。
静かな山間の村からは、急速に進む都内の近代化も、戦争の傷跡も感じられない。折しも収穫の時期なのか、黄金色に輝く稲穂の中で、頬かむりをした男や女たちが、忙しなく立ち働いている。
日傘を差した御園は、ゆっくりと目的の家目指して歩き出した。
ここまで来て、ようやく御園は、はやりたった自分を後悔していた。
今日のことは、鞠子にも薫にも、むろん雅流にも言ってはいない。
(雅に、志野をあきらめさせるためですよ)
理由を言えば、鞠子などは喜んで、自分も行きたいと言っただろう。判っていて、あえて黙って一人で行くことにしたのは、御園の中になお、志野への愛情が色濃く残っているからとしか言いようがない。
実際、今朝、いそいそと支度をする御園を見て――いや、見ることなどできないから、気配を察して「母さん、今朝はひどく楽しそうですね」と雅流になにげなく本心を衝かれたりもするほど、御園は浮き足立っていたのである。
葉書の住所は、駐在で地図にしてもらうと、以前御園が知っていた高岡の家とは所在が違うということが判った。
そういえば高岡は次男坊で、いずれは本家の跡取りに、という話があったような記憶がある。とすれば、あの葉書は、何気なく新たな住所を知らせるためのものだったのか――。
志野が愛しいのか憎いのか判らないまま、御園は激しい日が照りつける午後の農道を、汗を拭いながら歩き続ける。
――志野は……私を恨んでいるのかもしれないねぇ。
歩きながら、様々な思いが御園の胸に去来する。
あれから六年もすぎている。が、六年はまだ、全てを洗い流すには短かすぎる時間だ。雅流がいまだ、当時の傷を完全に癒しきれないでいるように、志野の気持ちにも遺恨がないとどうしていえよう。
いってみれば志野は、意に沿わない縁談を無理に押し付けられたのだ。いや、雅流と志野の立場であれば、あれは真っ当な求婚方法であったと今でも思うが、志野には言い交わした男がいたのだ。
家が窮していた折、恩を仇で返されるように出て行かれたのは悔しかったが、今にして思えば、志野の立場では出て行くしかなかったのではないか。あれだけ陰日なたなく仕えてくれた志野に、一言も祝いを言うこともなく、ねぎらうこともなく、私は顔さえ合わさずに追い出してしまったのだ――。
ようやく目的の家にたどり着く。傘をたたんで顔を上げると、涼やかな風が御園の額を冷まし、りん、と風鈴の音がした。
「ごめんくださいまし」
二度目の呼び声で、はぁい、という間のあいた声がして、子供を背負った一人の女が飛び出してきた。
御園はどきりとしたが、声も顔も立ち振る舞いも、志野とはまるで似ていない女である。
「こちらの家の方は、おられますか」
自分の姓名を名乗って御園が聞くと、飲み込みが悪そうな女は二三、不思議そうに瞬きしてから、「呼んでまいりましょうか」とだけ言った。
「田に出ているのですか」
「へぇ」
指差す方向は、家の裏側に広がる山裾沿いの田である。数人の影が立ち働いているのを認め、御園は大きく息を吐いた。
突然、勘気でもついたのか、女の背中の赤子が泣き出した。伝々太鼓をふる女の傍に、御園は引き寄せられるように歩を進めていた。
「こちらのお子様ですか」
「へぇ、昨年お生まれになりました」
ようやく一つになったばかりだろうか。高岡に目元のよく似た利発そうな男児である。御園は自然に微笑んでいた。笑うと志野に似ているだろうか、そう思うと不覚にも涙腺が緩んでくる。
「高岡の夫婦は元気にしておりますか」
「奥様はご病気で、今、家にはおられません」
さっと顔色が変わるのが自分でも判った。御園は再度、息を吐いて顔を上げた。
「あの、呼んでまいりましょう」
御園の様子をみて、これは急ぎ主人に伝えねばならないと思ったのだろう。女は慌てて駆け出していった。
九
「これは、……まぁ、奥様、このようなところにまで、まぁ」
鎌を投げ出した高岡の母親は、痩せた腰をかがめ、へどもどしながら土間にはいつくばった。
「お立ちになってください。近くまで用事があったものですから」
はやる気持ちを冷静な口調で誤魔化しながら、御園は座したまま、簡単な挨拶をした。立とうとしたが、ここまでの急斜面続きの道中で、すっかり足腰がまいってしまっている。
「ご子息は、高岡の本家をお継ぎになられたのですね」
御園が問うと、泥の塊のように日に焼けた老婦は、滲んだ涙を手の甲で拭った。
「本家などという大層なものではございません。見てのとおり、田畑しかない貧乏農家でございます。私は従前の家に住んでいるのですが、今日はたまたま稲刈りの手伝いにきておりまして」言い差して老婦は、背後を振り返った。
「平馬、これ、兵馬、何をしている、早く来なさい」
外に向かって声を張り上げる。
御園はどきり、として思わず表情を強張らせていた。
「何をぐずぐずしておいでだい。着替えなんてどうでもいいよ。櫻井の奥様がお見えなんだよ。お前、ずっとお会いしたいと言っていたじゃないか」
――私に……。
やがて、白いシャツに半ズボンという簡単な格好のまま、六年ぶりに見るかつての書生、高岡兵馬が、おずおずと姿を現した。
農作業の途中だったのか、足は脛から下が泥まみれで、顔には汗の雫が滴っている。
母と同じで真っ黒に焼けた顔を泣きそうに歪め、高岡は土間に両手をついた。
「奥様……、お久しぶりでございます」
顔を上げた男の目に、真実の懐かしさからとしか思えない、綺麗な涙がうっすらと浮いている。
「お前もまぁ……よく、無事で」
どこか頑なだった御園の心は、その刹那ほぐれていた。
思えばアカ屋敷と呼ばれ、誰からもそっぽを向かれていた家に、最後まで頑張って残ってくれたのが高岡と志野だった。復員したと聞いた時、せめて心づくしのねぎらいでもしてやればよかった。意地を張らずに、結婚の祝いなりとしてやればよかったのだ……。
頑固だった自分を後悔しつつ、御園は、奥の居間に通され、勧められるままに腰を下ろした。
「お疲れでしょう、すぐに、母がお茶を持ってまいりますので」
簡素だが、掃除の行き届いた部屋だった。裕福ではなさそうだが、かといって暮らしに困っている様子でもなさそうだ。
「志野は、子供を生んだのですね」
志野の具合のことをすぐに切り出せず、御園は何気ない風に問ってみた。
「うちにも先年、ようやく孫が生まれたのですよ。そちらとは同い年になるのかしらね」
「ええ」と何故か曖昧に頷き、高岡は御園から眼を逸らした。
その態度に不審を感じた時、忙しない足音と共に、着替えをすませた高岡の母が、茶の盆を下げて現れた。
「すいませんねぇ。嫁が、体を悪くして実家に帰っているものですから」
湯気のたつ茶が、御園の前に差し出される。
やはり、そうなのだ。
御園は暗々たる思いにかられ、胸を押さえた。やはり志野は、体を悪くしているのだ。
「具合はどうなのでしょう。ひどく悪いのでしょうか」
「いえ、たいしたことはございませんのですが」
途中まで言いかけ、ふと母親は、何かに思い至ったように顔をあげた。 ああ、と口の中で呟き、狼狽したような目色になる。
実家?と、ようやく御園は違和感を覚えていた。嫁は実家に帰っているとこの女は言ったが、志野に――実家など、あったのだろうか。
「……奥様…………」
高岡の、呟くような声がした。御園が振り返ると、すでに男は両手を畳についていた。
真摯な眼差しが、じっと御園を見上げている。
昔と変らない優しい眼。けれど、六年の歳月と父親になったという貫禄が、高岡を随分老けた印象にさせている。
がくり、と、まるで糸が切れたように高岡は額を落とし、そのまま畳に顔を伏せた。
「ずっと、お会いして謝らなければならないと思っていました。それはこの母にしても同じことでございます。申し訳ないことをいたしました、本当に申し訳ないことをした」
声を途切れさせる。
黒い予感を感じ、御園は、固まったように動けなくなった。
「……志野の、ことですか」
ものもいわず、低頭したままで高岡は頷く。
「死んだの、ですか」
男は首を横に振る、何度も振る。
その苦しそうな所作に、死とは別の――けれどそれと同じくらい不幸な運命が、志野を襲ったのだと――御園は理解した。
「奥様」
高岡はようやく顔をあげた。目は、溢れるような涙で濡れていた。
「私は、志野さんと結婚などしておらないのです。いえ、私は彼女を本気でもらうつもりでした。けれど、志野さんは――断固として、結婚はできないと言い張ったのです」
そんな馬鹿な。一瞬呆けた御園は、次の瞬間、嵐のような激情が頭の奥に渦を巻いたのを感じていた。
「……入営の直前に、彼女から急ぎの手紙をもらいました。それには、……いえ、読んでいただければ判ります。あの人が……どのような思いで、奥様や雅流様と別れることを決められたのか」
無言で立ち上がり、棚から古ぼけた手紙を取り出してきたのは母親だった。
差し出されたそれを、手にするべきかどうか――怖いような気持ちで迷う御園を、高岡が静かに促した。
「……お読みください。志野さんは許さないでしょうが、もう私には、このまま彼女を見ているのが辛すぎるのです」
御園は震える手で、黄ばんだ手紙を受け取った。
高岡兵馬さま。
見覚えのある――懐かしい志野の筆跡。御園自ら教え込んだ手習いどおりの、丁寧で、正確な文字である。
一度堰を切ると、後はもう止まらなかった。御園は封から便箋を引き出し、それを性急な手で押し開いた。
高岡さま。あなたのご親切に、一度だけおすがりしてもよろしいでしょうか。どうか私を、あなたさまのかりそめの婚約者にしていただきたいのです。
理由はくわしくは申せません、ただ、私がお屋敷にいることで、奥さまやご家族の人たちに大きなご迷惑がかかるということと、私のために、大切な人たちが笑いものになるのだということをご理解ください。
奥様に受けた恩を仇で返さないためには、私が結婚という形であのお屋敷を辞去するほかないのです。
ご迷惑は重々承知しております。前も申しましたとおり、私はあなたさまの妻になる資格のない、薄汚れた女でございます。それでもあなたさましか頼る者のない私をどうか哀れと思い、ほんの一時、奥様をあざむくという、耐えがたい罪を引き受けてはくださいませんでしょうか。
このご恩は、一生かけてお返しさせていただきます。
兵馬さま しの
御園は――吐胸をつかれるような思いだった。これはどういうことだろう。
この手紙は、間違いない、志野に、雅流が求婚していることを伝えたその日に書かれたものだ。
「……奥様、私は嘘をつきました」
きれぎれの声が聞こえた。
「私は……志野さんの思いつめた気持ちが判るだけに、彼女の嘘に口裏を合わせることに決めたのです、――そう、母にも頼んだのです」
再び土下座したままの姿勢で、高岡は泣きむせんだ。
「志野は……では、どうしているのです……」
自分の声とは思えないうつろな声で、御園は呟いた。
どうして今まで、想像することさえしなかったのだろう。志野とはそういう娘だったのに。間違っても主人の意にそむくようなことをしない娘だったのに。
稲妻に打たれたように、刹那に御園は理解した。
志野は――察したのだ。敏感に理解したのだ、主人の心の底にひそんでいたものを――御園が内心、この結婚を、ひどく愁いていたことを。
「……お屋敷を出て……志野さんは、うちを訪ねてきたそうです。僕はもういませんでしたが……」
「志野さんは、お詫びにいらしたのです」
言葉を継いだのは、高岡の母親だった。
「聞けば行く当てもないというので、しばらくお引止めすることにしたのです。ちょうど……人手がなくて、私も病に伏せておりまして……農作業も忙しい時期でしたから……志野さんは、それはよく手伝ってくださいました。私は何度も、この人が息子の嫁にきてくれればと思ったものです」
母も涙ぐんでいた。
「……たまに多くいただいた野菜や米を、私はお礼がわりに志野さんに分けてあげたのです。お金の代わりに、いえ、あの人はお金など決して受け取らない人でしたが……けれども」
母は言葉を途切れさせた。
土下座したままの、高岡の肩も震えている。
「あの人は、それを全部、櫻井のお屋敷に届けていたのでございます。肩の骨が突き出すほど痩せて、あの娘もひどく飢えていたのに……私も後から知って驚いたのですが、いくら止めてもやめようとは致しません。自分の食べるものを切り詰めては、それをお屋敷の人に、こっそり渡していたのでございます」
御園は手で口を覆っていた。いくら食料が底をついても、どこかから沸いて出たように用意されていた食事。それは――てっきり綾女が都合してくれたものだとばかり思っていた。
「……奥様……東京に、大きな空襲があったとき……」
きれぎれに、ようやく高岡が口を開いた。
「お屋敷が焼けた時もそうでした。志野さんは……母の止めるのも聞かず、燃え盛る帝都に引き返していったそうでございます。お屋敷の方に走り、奥様が残されているのを聞き出し、炎の中、必死で……助けを呼びに走ったとか」
「たくの兄が、志野さんについて行きました……止める間もなかったということでした……どうお詫びしていいのか、あれほどお綺麗な方だったのに……」
そのまま、母親は手で顔を覆って泣き咽んだ。
御園は、唇を手で覆ったまま、信じられない言葉の数々を夢のような気持ちで聞いていた。
十
一心に縁側を拭き清めている女は、御園が庭に立っても、気がつかないようだった。
「しず、あんたにお客さんよ」
御園を庭まで案内してくれた仲居が声をかけ、ようやくしずと呼ばれた女は顔をあげた。
翳っていた日差しがにわかに強まり、女は、眩しそうに目を細める。
御園は、無言で、軒先の下まで歩み寄った。
(昨年、手紙を差し上げましたのは、あれでも奥様が、志野さんを訪ねてこられないか……。あつかましくも、そのように願ったからでございます)
昨日聞いたばかりの、高岡の言葉が蘇る。
(迂闊なことに、母がうかと、私が手紙を書いたことを志野さんの耳に入れてしまいました。志野さんが母の元を出て行かれたのは、それからすぐのことでございます。先月、風の便りにようやく居場所を突き止めましたものの……私が出向けば、またあの人は行方をくらませてしまうでしょう)
だから、高岡は、鞠子の店をうろうろしていたのだ。
小さな田舎町の温泉旅館。御園の姿を常連の客とでも見間違えたのか、別人のようにほっそりしたうりざね顔の女の顔に、人好きのする笑顔が浮かぶ。
「……志野……」
御園は呟いた。声と共に、涙があふれそうだった。
はっと双眸を見開き、信じられないものでも見るような目になった女はすぐに、真っ青に蒼ざめた。
志野は、よろよろっとニ三歩後ずさり、そしてくずれるように膝をついた、両手をついて抵頭した。
「お許しください……お許しください」
何を許せというのだろうか、何を許すことがあるのだろうか。
「志野、お前はどうして」
御園は駆け寄り、震える女の肩を強く掴んだ。
決して楽な生活をしているわけではないことが、痩せた肩から感じられた。
「どうして結婚したなど、そんな嘘をついたのです、どうして雅流の気持ちを踏みにじるような真似をしたのです」
肩を震わせたまま、志野は何も言わなかった。
いや、言わなくてももう御園には判っていた。全て私のせいなのだ。私が志野をそうさせてしまったのだ。手紙を読んだ時から判っていた。志野は雅流を、決して嫌っていたわけではない。それどころか。
「お前は莫迦です、莫迦ですよ、志野」
何度も志野の背を叩き、叩きながら御園は泣いた。声をあげて泣いた。
お許しください、お許しください。
そう繰り返す志野の声もまた、涙声になっている。顔を逸らして隠そうとしている。
右の額から耳にかけての、赤いひきつれのような火傷痕――それが出来た理由を、もう御園は知っていた。
「許しておくれ……」
号泣しながら御園は志野の肩を抱き締めた。
「私を許しておくれ――志野、許しておくれ」
もう取り戻せない。
自分のあさはかな思い上がりから奪ってしまった六年という歳月は、雅流と志野から若さと美貌を奪ってしまった。それはもう、どんなに悔いても取り戻せない。
それでも、それでも御園は信じたかった。
二人の運命は、きっとまだ繋がっていると。
「志野、雅流はまだ、お前のことが忘れられないのです」
志野は首を横に振る。激しく振る。
「雅流は目が見えない。私も、もうまともに家事をこなせない。手助けしてくれる人が必要なのです。志野、来ておくれ、お願いだから、私たちの家に来ておくれ」
志野はただ、泣きながら首を振るばかりだった。
お許しください、お許しください、奥様――そう繰り返すばかりだった。
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