五

「まぁ、少しの間、通ってきて精進しなさい」
 御園の演奏を聞き終わった黒川泰三は、はじめて顔を上げ、表情を緩めた。
「ありがとうございます、家元」
 御園はほっとして三味線を置いた。
 家元――黒川流長唄三味線の宗家といっても、御園の実の父である。黒川家は、由緒ある士族の家柄で、二代前から三味線の一派を興した新派であった。
 元華族だった母は戦前に病で亡くなっており、御園にとって血縁とは、子どもたちをのぞけば、もう泰三しか残っていない。
 弟子が用意してくれた薄い茶をすすりながら、戦後、なおかくしゃくとしている老人は、ふっと軽い溜息をついた。
「お前が、うちの流派の看板を出すのはかまわない。ただ、この時勢だ。うちにしても、弟子の大半がやめて、食うや食わずの有様だ。生半可なやり方では、三味線で生計を立てるのは難しいぞ」
「……判っています。でも、やってみたいんですわ」
「そうかね」
「幸い、鞠子が援助してくれると言っておりますし」
 空になった茶椀を置いて、御園はすっかり寂しくなった邸内を見回した。
 かつての黒川家は、元士族らしい伝統的な武家屋敷を有しており、簡素だが美しい、広々とした庭園を持っていた。その屋敷は空襲で跡形もなく焼け落ち、今は、跡地に建てられた手狭な家屋が、老いた父の住処であり稽古場でもある。
 蔵の中に山ほどあった掛け軸や骨董品などは、すべて二束三文で売り払ったらしい。父もまた、ぎりぎりのところで戦時下の東京を生き延びた、逞しい人間の一人なのだ。
「まぁ、頑張りなさい。今は人々に、音楽を楽しむだけの余裕がなく、また、音楽といえば、アメリカの洋楽が素晴らしいという風潮が蔓延し、かつての古典芸能が忘れ去られようとしている時代だ」
 茶碗を置き、泰三は少し厳しい顔になった。
 御園は頷いた。
 確かに、誰もが自分が生きるのに精一杯の時代だった。天皇がただの人間になったり、婦人議員が誕生したり、メーデーが各地で開催されたり……時代は目まぐるしく、確実に動いているものの、最下層の人々の暮らしは一向によくならない。
 厳しい眼のままで、黒川は続けた。
「だからこそ、我々は日本の伝統を守り、後世に継承していかねばならんのだ。いずれ日本文化の素晴らしさを、人々が再確認する日がくるまでは」
 ――やはり、お父さまはお強い。
 御園は変らぬ父の姿に安堵した。
 来年は、再起を賭けた定期演奏会を、都内の公会堂を借り切って催す予定であるという。話を聞いた時には、無謀だと驚きはしたものの、父ならば大丈夫だろうと、この瞬間思い直している。
 ふいに、襖を隔てた隣室から、弦を弾く音がした。
 最初はひどくぎこちなかった。それが次第に滑らかに、高らかになり、確かな感情を紡いでいく。
 ――時雨西行。
 御園は茶碗を持つ指を強張らせたまま、身体を凍りつかせていた。
 独特の弾き方に、確かな聞き覚えがあった。心に直に訴えてくるような激しい撥さばきが、変調後、一転して優雅で優しい音色に変わる。緩急の取り方、間の開け方、これは。
「……志野」
 呟いた御園は、無礼も忘れて立ち上がっていた。志野は、黒川流に師事していたのだろうか、ならば何故、お父様も志野も私には何も言わずに――。
 目の前の父のことも忘れ、座布団を蹴るようにして襖を開ける。
 廊下に飛び出し「おい、御園」父の制止も聞かず、躊躇することなく、隣室に続く襖を開けた。
 四畳ほどの狭い和室の中央に、目指す人は座っていた。
 顔を上げ、戸惑ったように撥を置いたのは、しかし志野ではなかった。
 御園自らが連れてきて、用が済むまで待たせていた雅流だったのである。
 ――雅流……。
 しばらくの間、御園は口が聞けなかった。
 どうして雅流のことを忘れていたのだろうか。久しぶりに父に会わせたくて、ここまで連れてきたのは御園自身だったのに。
 それにしても――今の、演奏は。
「申し訳ありません、懐かしかったものですから」
 御園のことを家元の黒川だとでも思ったのか、雅流はあらぬ方に向かって手をついた。
「ま、雅流」
 ようやく我に返った御園は、雅流の傍に膝をついてにじりよった。
「今の演奏は、お前のものなのですか、雅流」
 母の剣幕に、雅流は戸惑って瞬きをする。
「……そうですが」
「それは――」
 言いさして、御園は再び言葉を失った。志野の――かつての志野の弾き方とよく似ている。というより、雅流とは、こういう弾き方ができる人間だったのだろうか。
 御園の目からみた雅流の三味線とは、確かに光るものがありはしたが、まだまだ荒削りで、未熟としか映らなかった。当時は、本人の態度もどこかいい加減なものだったし、まず、ものにはならないと思っていたのだ。
「お前は……戦場でも、稽古をしていたのですか」
「いえ」
 雅流はわずかに苦笑を浮かべた。
「ただ、頭の中で想像して、指だけはよく動かしていたと思います。自由に弾ける時は面倒で仕方なかったものが、不思議ですね」
 言葉を切ってうつむいた雅流は、手元の三味線を所在なげに爪弾く。
「雅流、お前も御園と一緒に、しばらくここへ通いなさい」
 頭上から、泰三の声がした。
 御園は、はっとして顔をあげる。
「御園、実はお前にもそう薦めようと思っていたのだ。雅流は目が見えないという。しかし、音の世界に視力は必要ない。むしろ見えぬ方が、本質に迫れることもある」
「……お父様」
 光明が――暗闇の中に、薄い光が差し込んできたような気がした。
 御園は手をつき、がば、と頭を下げた。
「技術はひどいものだったが、昔から雅流の音には、何かあると思っていた。ただ、生来のものをここまで昇華させたのは、心の変化によるものだろうがね」
 落ち着き払った父の声を耳にしながら、御園は、それが、志野と係わりがあることだけは確かだと思っていた。
 あの女が奏でた音が、雅流の何かを決定的に変えてしまったとでもいうのだろうか――。
「僕に、できるでしょうか」
 雅流の口調は少しも変らない。
 それでも御園は、天啓を受けた人のように理解した。この子には三味線がある、視界は閉ざされても、まだ音の世界が残されている。
 そして私の残された生は、雅流を確かな道に導くためにあるのだと。

       六

 花町に近い商家通りに借家を借り、御園と雅流の、二人だけの生活が始まった。
 御園はもっぱら、芸者や水商売の女相手に稽古をし、呼ばれればどこへでも赴いて演奏した。元伯爵夫人という触れ込みもついて回って――概ね、屈辱的な、腹立たしい思いをすることばかりだったが、全ては雅流を支えるためだと割り切れば、全く苦にはならなかった。
(――殿方の前で三味線を弾いて、お酒の相手をすればお金になるんですって)
 若き日の鞠子が、志野の母親をあてこすって吐いたセリフだったが、皮肉なことに、御園自身が、それと同じことをして日々の糧を得ている。 むろん老齢の域に達した女に、色気のあるようなことを言う輩はいなかったが、御園の扱われ方は、まさに芸者そのものだった。
「お金のことなら、私がなんとでもしてさしあげるのに」
 鞠子は不服そうだったが、御園は耳をかさなかった。この労が、降りかかる屈辱のひとつひとつが、いずれは雅流の糧になると信じて、あえて極貧を貫き、義娘の援助を断り続けた。
 そうして半年が過ぎ、一年が経ち――御園はますます痩せ、体力は目に見えて衰えたが、艱難辛苦の日々は、確かに雅流の演奏に芸術という名の魂を吹き込んだのだった。
 母子二人の成果は思いの外早く訪れ、どん底の生活にはっきりとした光が差し込んできたのは、雅流が本格的に黒川に従事してから、一年半ほどたった頃である。
 黒川流の定期演奏会で、初めて観衆の前で演奏した雅流が、にわかに有名になったのだ。
 ただし、最初は実力というより、活字の威力のほうが大きかったのかもしれない。盲目の奏者。戦争で視力を失った悲劇の貴族青年。そういったドラマティックな側面がクローズアップされ、雅流の若さや男らしい容姿などが、人気に拍車をかけることになった。雑誌は再三取材に訪れ、若い娘たちは、こぞって雅流に師事することを求めた。雅流が出る定期演奏会は常に満員で、他流からも再々お呼びがかかるほどの盛況ぶりだった。
 雅流自身は、そういった騒ぎにも人気にも辟易していたようだったが、かといって、極貧を貫くほど愚かでもなく、母のため、生活のためと割り切り、世間の求めるとおりの役割を淡々と演じていたようである。
「雅の音は嫌いよ」
 けれど鞠子はそう言い、薫にいたっては、演奏を聞きに来ることさえなかった。それは、かつての――櫻井家の栄華と、そして一人の女の存在を否応なしに連想させるからだろうと――御園自身も、胸が詰まるような気分で思うのだった。

    七

「女中を雇おうかと思うのですよ」
 御園が、そんな余裕のあることを鞠子に言えるようになったのは、昭和二十四年も半ばに差しかかろうとした頃だった。
 雅流が復員してから、早くも三年の歳月が流れている。
 まだまだ食料事情は悪かったが、世間にも、ようやく音楽を趣味として楽しめるような――そんな風潮が流れはじめていた。
 雅流は二十五歳になっていた。二十七歳になる薫と綾女との間には先年男児が誕生している。相変わらず仕事をしない薫だったが、それでも文筆という分野で、わずかな身銭を得ているようではあった。 
「女中もいいけど、雅もそろそろ、奥さんをもらったらどうなの」
 鞠子は、ふくよかになった身体をもてあますように揺すって、御園を見あげた。洋品店の女社長をしている鞠子は、仕事の羽振りのよさが、肉体にみっちりとついている。
「そうねぇ……」
 御園は、曖昧に頷いた。
 廊下ひとつ隔てた隣室からは、雅流の三味線の音色が聞こえてくる。三時から五時の間、通いの生徒たちに稽古をつけているのである。
 午後の日差しが、卓袱台(ちゃぶだい)で向き合う女二人を照らしている。昨年移り住んだばかりの家は、間取りも広く採光もよく、周囲に民家もないため、三味線の稽古にはもってこいの場所だった。
 鞠子は茶椀を置き、肩をそびやかすようにして御園を見上げた。
「隠しても無駄よ。縁談がたくさん来ているそうじゃないの。いい男は得ね、目が見えなくても、世話したいって女が沢山いるんですもの」
「雅流が承知しないのですよ」
 御園は立ち上がり、溜息をつきながら開け放していた窓を閉めた。
「実は、先日も、元子爵の尚武家の入り婿にどうか、というお話があったのだけど」
「すごいじゃない? 本当なの?」
 鞠子の感嘆を、御園は苦い目で遮った。
「まだ返事はしていませんけど、どうせ、あの子は断るでしょうよ。最初から乗り気ではないのが、見ていてよく判りましたから」
「断るって……誰か意中の人でもいるの」
「まさか」
「でも、あの身体で、いつまでも一人ってわけにはいかないでしょ」
「まぁ、そうなのだけど」
 御園が返事を濁すと、憤慨したように鞠子は続けた。
「言っておくけど、雅の人気なんて、しょせんは一過性のものよ。こんな言い方をしてはあれだけど、人気が冷めても雅の不自由は一生続くんだから」
「わかってますよ」
 言われるまでもない。大きな家から縁談がある内に、早くまとめて、雅流に確固とした後ろ盾を作ってやりたいのは、母としての、当然の願いである。
 しかし、当の雅流が、頑として首を縦に振らないのだ。こればかりは、御園がいくら焦ってもせんのないことである。
「修行中の身で、時期尚早だと思っているのでしょう。将来のことは、雅流なりに考えてはいるとは思いますがね」
 あえて素っ気なく言葉を切りながら、御園は内心、苦い思いで、一人の女ことを考えていた。
 ――志野……。
 思い出すたびに、口惜しさが胸に募る。
 雅流が結婚を承知しないのは、まだ、志野との過去に拘っているからに違いない。
 問い正せば違うと言うに決まっているが、母親の勘が、それに違いないと告げている。なにしろ、大袈裟ではなく、雅流は命を賭けて志野を妻にと望んだのだ――。
 茶を淹れ代えるために台所に向かいながら、御園はそっと唇を噛んでいた。
 志野という女は、全く雅流の何もかもを変えてしまったのだ。いいようにも悪いようにも。志野とのことさえなければ、雅流が戦場へ行く事などなかったかもしれぬ。そうでなければ視力を失うこともなかった、代わりに奏者として大成することもなかった……。
「言わないつもりだったけど」
 新しい茶を卓上に置いた時だった。物憂げに窓の外を見ていた鞠子が、ふいに眼差しに意味ありげなものを浮かべて、御園を見上げた。
「実は先日、私、高岡に会ったのよ」
 何気なく「そう」と答えようとして、御園は喉に骨が引っ掛かりでもしたような咳をしていた。
 櫻井家の元書生で、志野の夫でもある高岡兵馬のことは、まるで全ての不幸の源でもあるかように、家族の間では口に出すことさえ禁忌な存在になっている。
「驚いたでしょう」
「別に」
 御園は、気を取り直すように喉を鳴らした。
「別段、珍しい話でもないでしょう。お互い、車で一時間もかからない所に住んでいるのですからね」
 冷やかな感情も露わに眉を寄せた御園は、先月、暑中見舞いと称して送られてきた葉書の書面を思い出していた。

 雅流様のご活躍、まことに嬉しく思っております。
 父も母も元気にしております。
 こちらへ来られる便がございましたら、是非一度お寄りください。
                              高岡兵馬

 かっとして、その場で葉書を握り締めてしまったのをよく覚えている。こんな手紙を寄越しながら、志野の名前ひとつ付記していないのは、どういった按配からだろう。
 自分の妻が、かつて雅流から求婚されたことで、余計な気でも回しているつもりなのだろうか。あれほど自分たちに世話になっておきながら――小ざかしいことを。
 そんなひねくれたことを考え、雅流の目に触れないうちに、葉書を破り捨ててしまったのだ。
「で?」
 もう一度咳をして、御園は訊いた。
「でって、何よ」
 自分から高岡のことを言いだしたくせに、鞠子はしれっとした顔で空を見ている。御園は苛立って卓を叩いた。
「だから高岡がどうしたのですか」
「最初から気になるなら、そう言えばいいのよ」
 呆れたように肩をすくめ、鞠子は、三日も前のことだけど、と語り出した。
「うちの店に来たのよ。あの男一人でね。母親の服を買いに来たと言っていたかしら。相手をしたのは店員だけど、私もいたから、挨拶だけはしてやったの。向こうは偶然だと言っていたけれど、なんだか全てがわざとらしくて、思うに暮らし向きが楽ではないのではないかしら」
「そうなのですか」
 御園は身を乗り出している。
「金の無心に来たのではないかしら。そんな気がしたから、早々に帰ってもらったのよ」
 鼻息を荒くして、鞠子は笑った。
「そこまで恥知らずだとは思わないけど、万が一志野がうちを頼って来ても、絶対に相手をしてはだめよ。あの女が雅流にどれだけの恥をかかせたのか、それを絶対に忘れてはだめ」
「志野は……」
 言いかけた御園は、苦い目で頷いて、すっかり冷めてしまった茶を口にした。
 志野は、そんな女ではありませんよ。
 つい、言ってしまうところだった。
 鞠子が帰った後、三味線の稽古をしている雅流の食事の支度をしながら、御園は志野のことばかりを考えていた。
 あれは、幸せではないのだろうか。
 よもや、病気でもしているのではないだろうか。
 認めないわけにはいかなかった。結局のところ、いくら憎んでも、御園は知りたくてたまらなかったのだ。志野が今、どうしているか――元気でいるのか、幸せにしているのか。
「母さん」
 いつの間にか三味線の音が止んでいた。
 息子の呼ぶ声に、御園は濡れた手を布巾で拭って、隣室に続く襖を開ける。
 稽古の時の着物姿のまま、雅流は音のする方に顔を向けた。我が子ながら、美しい顔をしている、と御園は思った。十代の頃は、むしろ荒々しく野性的だった雅流の顔は、今はすっきりとした色白の、雅楽に携わる人の面差しになっている。
 静かな所作で一礼し、雅流は目を伏せたままで、顔を上げた。
「申しわけありません。実は、尚武様のことですが」
「断るのですね」
 予感はしていたが、さすがに御園は眉が曇るのを感じた。
「色々考えたのですが、まだ、時期ではありませんので」
 雅流は静かな口調で答える。
 考えたというのは嘘だろう、と御園は思った。返事をすぐにしなかったのは、単に相手方への配慮であり、本人は迷いもしなかったのだろう。
「これ以上の話は、お前にはないと思いますよ」
 思わず漏れた厭味にも、雅流はただ、静かに頷いただけだった。
 御園は嘆息して立ち上がり、「志野のせいではないのですか」と、喉元まで出かけた言葉を、かろうじて飲み込んだ。
 それこそ、訊くまでもないことだ。
 わざと足音を荒げて台所に戻りながら、御園はふと、腹立ちまぎれに、では会ってみたらどうだろう、と思っていた。
 志野ももう三十前だ。さすがに子どもの一人や二人はいるだろう。そんな年増になった女を、今さら雅流に会わせたところで、かつてのような心配をすることもない。むしろ、雅流も目が覚めて、縁談を受ける気になってくれるかもしれない……。
 ふいに、心の閊えが取れ、すっと胸が軽くなった気分だった。
そうだ、何を逃げ回っていたのだろう。逃げるから余計に、雅流の中で思い出だけが美化されてしまうのだ。
 志野に会ってみよう。
 初めて――あの日から六年たって、初めて御園はそんな気になっていた。



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