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窓から月光が差し込んでいる。 ベッドに身を投げ出したままの水南が、ようやく虚ろな目を開けた。 長い髪がむきだしの肩に張り付き、はだけた夜着はかろうじて腰の周辺にまとわりついている。 氷室は、この部屋に入った最初と同じように、ベッドサイドの肘掛け椅子に座っていた。 衣服をあわせ、弱々しく身を起こす水南を、黙って見つめる。 一瞬むきだしになった背中に、赤く走る一本の筋が見えた。何もかも完璧な水南の身体に刻まれた、唯一の傷跡。 随分前の傷のはずだが、痕はまだ生々しく残っている。 不意に胸に痛みがこみあげ、氷室は視線を伏せていた。それは水南が完璧に作られた人形ではなく、1人の、生身の、かわよい女であることの象徴のように思えたからだ。 うつむいたまま、氷室は深い溜息をついた。 どうしていいのか。何を切り出していいのか、――正直全く判らない。 全く惨めな――完全に自我を奪い去られたセックスだった。どうしてだろう。主導権は終始自分にあったはずなのに、そんな優越感は最初から最後までひとつも感じられなかった気がする。 判っている。今まで体験したことのない興奮に、氷室はただ、我を忘れて溺れたのだ。 氷室を煽り立てたのは、水南の許しを乞う声であり、すすり泣く声だった。 羞恥に歯を食いしばる横顔であり、嫌悪しながらも震えてわななく身体であり、陥落した時の上気した肌だった。 「神様……神様、ああ、こんなことが決して許されるはずがないわ。……助けて……助けて……成島先生」 そうやって、右手の薬指にはめたリングを左手で握りしめる水南に、ますます氷室の嗜虐的な欲望はかきたてられた。 すすり泣きながら拒絶の意を示す水南の身体を、氷室は何度も押し開き、残酷に蹂躙した。 自分がひどく醜悪な悪魔になった気分だった。いや、紛れも無く悪魔そのものだった。 理性とは裏腹に身体は熱を加速させ、歯止めを無くし、完全に飢えた雄になり―― けれど全てが終わり、半ば失神したように倒れた水南から身体を離した時、氷室の胸に残ったのは、一抹の、恐ろしい疑問だった。 ――まさか、初めてだったのか? 判らない。こういう時、女は演技するいきものだからだ。 感じたふりができるなら、苦しむふりもできるだろう。水南の中の強烈な嫌悪が、そうさせたのかもしれない。そうだ。いずれにしても、水南が処女であるはずがない。―― ベッドに横座りになり、虚ろな表情で乱れた寝着を直した水南が、小さな声で呟いた。 「……天、水を頂戴」 水。 それは、ベッドサイドテーブルの上の水差しの中にある。 習性で立ち上がろうとした氷室は、これが2人の立場を定める大事な一歩なのだと気がついた。 もう、立場は逆転した。なのに水南は、まだ平然と氷室に用事を言いつける。――応じるべきではない。 氷室が動かないでいると、水南は膝で這うようにして水差しのあるテーブルの近くに寄った。 頼りない手で水差しを取り上げ、グラスに注ぐ。 水が溢れそうになった時、氷室は立ち上がって、自分の手をグラスに添えていた。 「入れすぎです。慣れないことをするから」 水はコップの縁ぎりぎりだ。丸みを帯びて盛り上がり、あと一滴でも注がれると溢れてしまう。 「平気よ。水には表面張力があるから」 微笑む水南を、氷室は初めて奇妙な不思議さをもって見下ろした。 なんだ、この反応は。 今、水南が見せるべき態度は、怒るか泣くか絶望するか、そして憎むかのいずれかではないのか。 「液体内と液体の表面のエネルギー差が互いに引き合って凝縮しようとしている。そのぎりぎりの状態ね。見て、天、綺麗に均衡がとれているでしょう」 氷室は黙って水の盛り上がったグラスを見た。それが、一体、どうしたというのか。 「この均衡は、外部の圧力がないと決して崩れない。……まるで私たちのようだと思わない?」 静かにそう言った水南が、右手の薬指にはめていたリングを抜いた。 「ほら」 リングが、まるで用なしのゴミのように、あっさりとグラスに投げられる。あふれた水がテーブルを濡らし、均衡は永遠に戻らなくなる。 「答えを教えてあげるわ。天」 氷室は黙って水南を見つめた。 「人が狂わずに生きていけるのはね。今いる場所が地獄だと判らないからよ」 「………………」 「人はね。ずっと地獄にいると、そこが地獄だってことが判らなくなるのよ」 「……………」 「誰かに、界面を壊してもらわない限り」 何一つ言葉が出ない代わりに、今夜自分が失ったものが何なのか――そして水南が得たものは何なのか、氷室はそれを考え続けていた。 |
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved この物語はフィクションです。 |