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   後藤水南。
 天から何もかも与えられたような完璧な女。
 氷室が、この女の些細なしくじりに気がついたのは、先月の初め、大学から戻ってきた水南を門扉まで迎えに出た時だった。
 リボンの結び目が違う……。
 19歳になった水南は、車で片道1時間もかけて、キリスト系の女子大学に通うようになっていた。
 後藤家の直系子女が代々クリスチャンだったこともあり、水南もまた幼い頃に洗礼を受けているのだ。彼女の行状や日常生活を見る限り、とても敬虔なクリスチャンだとは思えなかったが、女子大への進学は彼女の強い意志によるものだった。
 彼女の父である後藤雅晴(ごとうまさはる)は意外にも進学に反対した。彼は、水南を1日も早く嫁がせたいと目論んでいたのだろう。
 類まれな美貌を持つ水南は、いずれ政界に打って出ようと企む後藤にとって、何より価値のある財産である。大学などに行かせて余計な虫がついてはならないと思ったに違いない。
 あれほど狡知に長けた水南が、唯々諾々として父親の言いなりになっているのは不思議なものだが、水南は幼い頃から、父親のいいつけにだけは恐ろしく従順だった。それが水南の性質であり、限界だと言えばそれまでだが、なんとも不可解な気がしたものである。
 いずれにしても、部外者出入り禁止の女学校で、行き帰りは後藤家の車による完全送迎。氷室の知る限り、水南の大学生活に羽を伸ばせるような時間はわずかもないはずだった。
 その水南の――制服のリボンの結び目が違っている。
 制服は、白い襟のついた灰色のワンピースで、胸に藍色のリボンがついている。リボンは、ちょうちょ結びに結ばれていて、左右に作ったループの下からリボンの端が2本飛び出ていた。
 その2本の重なり方が、朝と夕で違うのだ。朝は確かに右側が上、左側が下になっていた。今は逆だ。左が上になっている。
 何故そうなるのか? 氷室は自身で試して実証してみた。水南は右利きだ。普通に自分で結べば、当然右側が上になる。
 それがどうやったら逆になるのか?――簡単だ。他人にリボンを結んでもらえばそうなる。
 それから氷室は、水南のリボンの結び目の変化を注意して見続けた。
 朝は必ず右が上。左を上にして帰宅するのは、決まって水曜日である。その日に、おそらく何かがあるのだ。学校でリボンを解くような何かが……。
 氷室は、当時複数いた恋人の1人――水南と同じ大学に通う同級生で、当然それだけの理由でつきあいはじめたのだが――その女を使って、校内での水南の動向を逐一探らせることにした。
 水南の弱みに繋がるものなら、それがどんなささやかなものでもっておきたかった。今はすっかり氷室に無関心になった水南だが、いつその関心が悪い形で向けられるかは判らない。その時に反撃する駒がないと、勝負しようがないからだ。
 氷室は、水曜日の水南の様子を重点的に探るよう女に命じ、ほどなくして結び目の謎は解明された。
 水曜日。水南は東京藝大からやってきた30代半ばの美術講師に、密かに個人授業を受けていたのである。放課後、校内にあるその講師のアトリエで。
 想像できることはひとつだが、まさかと思った。
 あの校則の厳しい学校で――確かに水南なら、どんな抜け道でも見つけるだろうが――ただ絵を書くだけしか取り柄のない貧乏画家相手に――
 絶対にあり得ないとは思ったが、氷室はその現場を押さえることにした。
 この程度の火遊びが水南にとって致命的なスキャンダルになるとは思えなかったが、決定的な映像が入手できれば、いつか彼女が相当高い地位を手に入れた時、最強の武器に化ける可能性もある。
 が、水南の同級生に依頼して隠し撮りさせた映像は、大したものではなかった。
 アトリエで抱き合う二人。手をつないで寄り添う二人。おそらく指輪でもプレゼントされたのか、右手を目の前にかざして微笑む水南と、その水南を愛おしげに見つめている男。――幸福そうな水南の平凡そのものの笑顔に、氷室は唖然とし、軽い軽蔑さえ覚えたほどだ。
 相手の男は成島襄(なるしまじょう)。
 32歳の臨時美術講師。一応名の売れた画家らしいが、どこに取り柄を見出せばいいか理解に苦しむほど間が抜けた優男面に、正直、悪い夢でも見ているような気持ちになる。
 馬鹿馬鹿しい、と内心思いつつも、氷室は念の為、プロに頼んで成島の素性を調べてみることにした。そうして手に入った情報は、氷室が想定した以上のものだった。
 新鋭画家である成島襄は、貧乏だった学生時代、学費を捻出するために、美術窃盗団から依頼された名画の贋作を請け負っていたのだ。――つまり盗品の複製だ。
 当時は警察にもマークされていたそうだが、結局証拠不十分で逮捕にまでは至らなかったらしい。
 しかし、その過去が仇となったのか、どうやら成島は、ごく最近にも贋作の依頼を受けていた疑いがある。現在警察が内偵中で、取引相手は関東を拠点とする暴力団――ここまで読んで、氷室は思わず眉をあげた。
 致命的だ。男にとっても、政治家への転身を夢見る父を持つ娘にとっても。
 さて、この情報をどうするか……。
 狡猾な水南が初めてみせた尻尾。もちろん、有益に使わない手はないだろう。
 氷室は、水南の手法をそのまま真似てやることにした。つまり、こちらから『ゲーム』をしかけるのだ。相手は水南。そして『ターゲット』は成島である。
 水南の周辺に、少しずつ、成島に関連する足跡を残しておく。それは彼の誕生日を意味する数字だったり、代表作に関する隠語だったりする。
 それだけで水南は、自分の秘密が氷室に漏れたことに気づくだろう。
 あとは、餌を巻いていく。小鳥を罠におびきよせるためのパン屑だ。
 巧妙に撒かれたそのパン屑を辿って行くと、ようやく真実が見えてくる。それが、成島襄というクズ男の、真実の姿なのだ。
 むろん水南は、すぐさま成島を切り、氷室を牽制しにかかってくるはずだ。
 氷室は上手くそれを交わし、彼女にとってささやかな醜聞を握っていることを誇示するのだ。それが2人の立位置に、将来に渡って少なからぬ影響を与える。ゲームの成果としては、それで十分なはずだったのだ。が――
「謝るわ」
 氷室を自身の書庫に呼び出し、開口一番、水南はそう切りだした。
 『ゲーム』を始めてから一ヶ月。秋も深まった、月光の美しい夜のことだった。
 立ちすくむ2人を、室内を彩る不気味な絵画たちが見下ろしている。
「私は子どもで、父の愛人であるあなたのお母様のことも、あなたのことも許せなかった。……それにあなたは頭がよくて、今までの遊び相手の中で一番……そう、歯ごたえがあった」
 珍しく迷うように言葉をつないだ後、水南は視線を下げながら呟くように言った。
「今まで非道い真似をしたことを、謝るわ」
 しばし唖然とした後に、氷室はようやくこれだけ言った。
「まさかそれで、あの男の罪を帳消しにしてくれとでもいうのですか。判らない……なんのために」
「成島先生を愛しているのよ」
 何故か氷室はその一瞬、深い闇の底に転落したような衝撃を覚えた。
「愛しているの……彼のいない人生なんて、もう考えられないほど」
 ―――嘘だ……あんな、くだらない、生活能力の欠片もないような脆弱な男を、何故……
「私、20歳になったら、あの人と一緒にパリに行くの。判るでしょう。それまで私たちのことは、誰にも知られたくないのよ。特に、父には」
 パリ?
 ようやく冷静さを取り戻した氷室は、呆れて水南を見下ろした。
 何を馬鹿な夢を見ているんだ、この女は。
「海外留学など、お父上は決してお許しにはなりませんよ。だいたい卒業後、すぐにでもあなたを結婚させるおつもりでいる。それはお嬢様もご承知でしょう」
「父が私を、どんな男にやろうとしているか、知っている?」
 水南は嫌悪に耐えかねたように眉をしかめた。
「父とさほど年の変わらない、醜く肥えた男の後妻よ。この私が――ぞっとするわ。あんな脂だらけの、老臭の染みた手で身体中を触られるなんて!」
「だったら断ればいい」
 顔を背けて氷室は言った。何故だかその想像は、一瞬、氷室の胸に黒い炎をたぎらせた。
「私には無理よ。……父の強引な性格は知っているでしょう。成島先生とのことが知られてしまえば、先生はきっと何もかも失ってしまう。私はそれを黙って見ていることなどできない。……結局は父の言いなりになって、老人の妻になる道を選ぶことになるわ」
「だったらそうすればいい」 
 何に憤っているか判らないまま、氷室はそう吐き捨てた。
 この女は馬鹿だ。これほど頭がいいくせに、自分を自由にする術ひとつ知らないのか。
「いずれにしても、成島みたいな男にこれ以上関わるのは得策じゃない。成島の才能は、今でも闇の商人たちに高く買われている。――彼を切れない以上、あなたも否応なしに奴らと関わり合いになりますよ」
「20歳になれば、母の遺産を自由に使えるようになるわ」
 自分に言い聞かせるように、水南は続けた。
「相応の代償さえ払えば、成島先生は自由になれる。そうしたら私たちは日本を出て、誰にも縛られることなく生きていくのよ」
 氷室は唖然としたまま、しばらく何も言うことができなかった。
 暴力団と繋がりがあるかもしれない男と駆け落ちする。しかもその男は水南の財産を頼って生きていくしかないヒモ同然だ。――そんな未来に、一体何が待っていると言うのか。
 これは本当に悪い夢だと氷室は思った。水南とはこれほど、愚かな女だったのか。
 それとも恋は、こうも女を愚かにさせるものなのか。
「お願いよ。天」
 水南は、躊躇いを必死に振り払うように、ぎこちなく頭を下げた。
「謝れというなら、何度でも謝るわ。あなたの望みならなんでも聞く……。先生のことは、私が20歳になるまで誰にも言わないで黙っていて」
 あまりに簡単な敵の全面降伏に、氷室はただ呆然としていた。
 20歳になるまで相続財産を自由に使えないと言う水南の無力さにも腹が立った。そんなもの、抜け道なんていくらでもある。自分が手を貸してやれば、すぐでも水南に何年も遊んで暮らせるくらいの大金を用意してやれるのに――
 結局、実社会の中では、水南は哀れなほど無力なのだ。
 父親の権威と後ろ盾がなければ何もできない、世間知らずのお嬢様だったのだ。
 学校という閉鎖された特殊な場所で発揮されていた水南の絶対性は、社会に出て一個人として向き合った時、こうも脆く崩れるものだったのか――
 最早、水南は敵ですらない。2人の立場は今、完全に逆転している。
 なのに氷室は、自分の中に棲みついたものが、ひとつも消えていないことに気がついた。
 むしろ以前より強く、鮮やかに――これまでとは別の意味を持って、水南は氷室の中で息づきはじめている。
 そして判った。信じがたいことに、今もなお、追いつめられているのは氷室の方なのだ。
 どうやったら、この忌々しい感情から逃れられるのか――数日懊悩した氷室の出した答えが、この一夜だった。





 
 
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この物語はフィクションです。