プロローグ


 「荷物、持ちましょうか」

 背後からいきなり声をかけられたので、しゃがみこんで額の汗を拭っていた安藤叶恵(あんどう かなえ)は、少し驚いて顔をあげた。
 それが若い男の声だったので、無意識に警戒している自分がいる。馬鹿じゃない。もう今年で49だってのに。
 振り返ると、降り注ぐ初夏の陽光の下、思いの外好みの男性が立っていた。
 年の頃は20代後半か30代の前半あたり。すらっとした痩身にほどよく筋肉のついた長い足。ベルサーチのブラックスーツにレイバンのサングラス。
 叶恵は目をすがめ、数秒でその男に――いわゆる犯罪的な意味での心配はないと、判断した。
「あら。いいんですか」
「ご迷惑でなければ。自分もこの先に向かうところなので」
 すみませんねぇと、おばさん根性むきだしで、叶恵は重たい方の手提げ袋を男に渡した。
 最悪、盗まれて困るものではない。中身は全部、採れたての野菜である。
 もうひとつの袋にも、そして背負ったリュックにも、きゅうりやトマトやレッドオニオンやらがぎっしりと詰まっている。
「ふもとの農家に毎朝もらいに行くんですけど、折悪しく、その帰りに車が故障しちゃって」
「それは、大変でしたね。――そちらもお持ちしましょうか」
「いいんですか。でも」
 男の片方の手には、白い紙袋がある。そして、銀色のキャリーバッグ。
「お持ちしますよ。申し訳ないのですが、代わりにこのキャリーバックを持っていただけますか。キャスターを使えばさほど重くないと思うのですが」
「はいはい、もちろん」
 この罰ゲームみたいな荷物を手放すのと引き換えなら、たかだかキャリーバックを引っ張ることなんてなんでもない。
 男が持つ白い紙袋に目をとめて叶恵は訊いた。
「そっちの紙袋も持ちましょうか?」
「いえ、これは大丈夫です」
 視線だけで紙袋の中身を確認した叶恵は、なにげなくそれから目をそらした。
 白薔薇の花束……。なんとまぁ、ロマンチックなことか。
「お兄さんは、……このあたりのお客様?」
「ええ」
 言わずもがなの質問である。
 こんな山奥に、――しかも陽気のいい時節に、上から下まで質のいいスーツを着こみ、ネクタイまできちんと締めている人間は、この先の別荘地の客――もしくはオーナー家族以外にありえない。
「まさか歩き? ふもとからここまで随分な距離があったでしょ」
「あなたと同じで、車が故障したんですよ」
「あらま」
 迷うまでもなく嘘だと判る軽い口調である。
 叶恵は肩をすくめ、これ以上詮索するのはやめにした。
 金持ちというのは、元来謎と隠し事が好きな生き物である。
 そしてこの先の別荘地には、およそ庶民には縁のないレベルの資産家たちの、豪奢な別荘がひしめいているのだ。
 今度は、男が口を開いた。
「お姉さんは、別荘の管理人ですか」
「あら、判る?」
 格好的に一目瞭然だろうけど、嘘でも別荘をお持ちなんですか、とか言えないかしら。と思いながら叶恵は続けた。
「東京で色んな職業を転々とした挙句、ここにたどり着いたってわけ。雇われ管理人兼家政婦。世の中には色んな職業があるものよね」
「ほんとうに」
「お金持ちはグルメだから、食材の調達にも一苦労よ。野菜は地元のとれたてじゃなきゃだめっていうから、ほら、この通り」
「大変ですね」
「こう見えて調理師免許を持ってるの。若い頃は一流ホテルの厨房で働いてたこともあったのよ。あと警備会社でもね。そういう何もかもを買われて雇われたってわけ」
「なるほど」
「………………」
 どうでもいいけど、見事なまでにつかみどころのない相槌だ。
 これっぽっちも目の前の女に関心がないか(その可能性の方が高いのだけど)、もしくは自分の素性をこれっぽっちも漏らしたくないか。
 叶恵はなにげなく自分が雇われている屋敷の場所を告げてみたが、それにも男は、「そうですか」と頷き、魅力的な微笑(この場合全く無意味な)を返してくれただけだった。普通はそこで自分の向かう場所を告げるのが礼儀だろうに。
「ねぇ……、お兄さんの顔、誰かに似てない?」
「誰かとは?」
「さぁ、誰だったかな。テレビか雑誌でよく見る顔だけど……韓国ドラマかなにかの」
「よく言われます」
 あっさりと返され、さすがに叶恵は鼻白む。まぁ、イケメンなんて、この程度の賛辞は耳にタコなんだろうけど。
 不思議な侵入者に対する好奇心はひとまず打ち切ることにして、叶恵は視線を道の先に巡らせた。
「お兄さんの行き先がどこだか知らないけど、忠告。この先一区画でも、方向を間違えたら命取りだからね」
「というと」
「金持ちの中には物騒な連中が多いってこと。まさか、それも知らずに迷い込んだわけじゃないんでしょ?」
 男は微笑み、それきり無言になって歩き始めた。
 まぁ、もちろんこの男が黒い連中の客人だって可能性もあるのだけど――叶恵は横目で男を見た。その心配はないと踏んだが、100パーセントとは言い切れない。
 このキャリーバックの中身にしても……まぁ、ヤバイものなら、こうも簡単に他人に手渡したりはしないだろう。
 ようやく、叶恵の務める別荘が見えてくる。
 叶恵は足をとめ、キャリーバックを手前に転がしながら礼を言った。
「ありがとう。助かりました」
「どういたしまして」
 男は優しげに微笑する。
 叶恵が、キャリーバックを置いて両腕を伸ばすと、たちまちずっしりとした重みが手渡された。
「う、本当にどうも。今更ですけど、かなり重かったでしょ」
「そうでもないですよ。最近は、鉄骨ばかり持ち上げているので」
「は……テッコツ?」
 意味を解しかねて、視線を上向けた叶恵は、今度は驚いて眉をあげた。この暑さで、しかも黒のスーツを着込んでいるというのに、男はまるで汗をかいていない。
「……もしかして、暑さに慣れてる?」
 わずかに眉を上げた男は、数秒の沈黙の後、微笑んだ。
「冷え性なんですよ」
「……は?」
 じゃあ。と、あっさり踵を返すと、男は背を向けて歩き出した。叶恵は慌ててお礼を言うと、ちょっと首をかしげて歩き出す。
 まぁ、世の中には色んな性格――そして体質の人がいるってことで。
 坂をなんとか上がりきったところで、荷物を降ろして一息つく。
 途端に汗が滝のように溢れてきて、叶恵は首に巻いたタオルでごしごしと顔を拭った。
 まだ5月だってのに、もうすっかり初夏の陽気だ。まぁ、いい。この大型連休さえ終わればまたしばらく暇になる。繁忙期の夏に備えて、しっかり体力をつけなくちゃ。
 そう思いながら、タオルを再び首に巻き直した時だった。
 視界に飛び込んできた光景に、叶恵は目をすがめてつま先立ちになった。
 ――え?
 もう、随分小さくなった人影が、木々に埋もれそうな山間の道を、上へ、上へと進んでいく。
 上から下まで真っ黒な後ろ姿は、先ほどの男に違いない。 
 ――ちょっとちょっと。あの人、どこまでいく気なの?
 眉を険しくさせた叶恵は、咄嗟に両手を口の傍にあてた。
「その先には、何もないわよ!」
 もちろん声が届く距離ではない。
「んもう――」
 叶恵は野菜の袋を投げ出して、登ってきた坂道を駆け下りた。
 何もないどころか、男が向かっている先は立入禁止の私有地だ。
 別荘地は、まぁ、たいていが切り売りされた私有地なのだが、男が向かっている先は性質が違う。
 いわゆる「その先危険」というやつだ。危険な崩壊建物が取り壊されないまま放置されているらしく、ゲートで完全に道が塞がれている。
 叶恵の雇い主は――すでに棺桶に半身をつっこんでいるような高齢の老人だが――その先に行ったら「サタンに喰われてしまうぞ」と教えてくれた。
 サンタ? と思わず叶恵は聞き返していた。
 サタン――むろん悪魔のことだろうが、それほど今の時代、似つかわしくない脅し文句だったからだ。
 雇い主が言うには、なんでも山頂には、山を所有している富豪が明治の初めに建てた奇妙な館があるのだそうだ。
 終わりの家。
 この辺りではそう呼ばれて不気味かられている館は、今でも廃屋として残っているらしい。
「その富豪はなァ。お江戸の時代からの熱心なキリスト教徒だったそうじゃが、妻がおそろしい悪魔崇拝者じゃった。妻はその館で、夜な夜なサバトを催したのじゃ。そうしてついに恐ろしい人喰いのサタンが降臨した。――あの館でいったい何人の人が行方不明になったか定かではないが、夜な夜な凄まじい叫び声が山の麓まで響いてきて、この辺りの者は、そりゃあ生きた心地がしなかったそうじゃ。もちろん、とうに無人になっておるが、今でもサタンが館のどこかに隠れ棲んでいるのではないかと言われておる。で、……うっかり館に踏み込んだ者は」
 みぃんな、神隠しにあうんだそうじゃ! サタンにくわれてしまうのよ!
 おぞけを奮うように言ってから、雇い主の老人はかかかと笑った。
「まぁ、ゆうても大昔の話じゃがな。だぁれもあのゲートの向こうには行けんのじゃから、本当のところは誰も知らん。まだ件の館は残っているそうじゃが、大方幽霊屋敷にでもなっているんじゃろうて」
 もちろん、半分は尾ひれがついた作り話だろう。それに、今から十数年前になるが、とある事件との関連で、その館が警察の念入りな捜索を受けたことも後から聞いた。
 その事件では実際1人の人間が行方不明になっているという話だから、あながち疑惑が晴れたともいいがたいのだが……。
 いずれにしても、いわくつきの場所であることだけは間違いないのだ。その先にどんな危険があるのか知らないのは、叶恵だって同様である。
「ちょっと――どんだけ足が早いのよ」
 叶恵は、息を切らしながら、男の辿った道を懸命に駆け上がった。
 一宿一飯の恩義、ではないが、助けてくれた男が今まさに誤った道を進んでいるのに、それを止めないほど冷酷な人間にはなりきれない。
「ちょっと――」
 しかし、すっかり体力の落ちた身では、とても男の足に追いつけない。叶恵は斜面の途中で足をとめ、再度男が行く先を振り仰いだ。
 そこにはただ、緑の木々の葉が延々と広がっている。
 まるで全てが白昼の幻だったように、男の姿はどこにもなかった。



 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。