「人が、狂わずに生きていけるのは何故だと思う?」
 不意に問われ、氷室天は少し驚いて顔をあげた。
「……どういう意味ですか」
「たった100年先の未来も、夢よ」
 窓際に佇む人を、月光が妖しくも儚く照らしだしていた。
「儚い、一場の夢のような人生。どれほど苦しもうが栄華を得ようが、等しく待っているのは老醜と死。それが人のさだめで、その決められた世界から逃れて生きることは許されない」
 陰りを帯びた目が、物憂げに氷室に向けられる。
「なのに人が、狂わずに生きていけるのは何故だと思う?」
 氷室は静かに、その眼差しに対峙した。
「人は誰も、明日自分の命が尽きるとは思わない」
「明日と100年先に、一体どれほどの違いがあると思う?」
「……大多数の人には、相当な違いがある。今、あなたが言ったような見地に、殆どの人はたどり着くことができないと思いますが」
 水南はかすかな笑い声をたてた。
「人は皆、自分より愚かだと思っている。天の悪い癖よ」
 ――美しい。
 月光に照らしだされた憂鬱な横顔を、氷室は戦慄に近い感嘆を覚えながら、見つめた。
 後藤水南。
 この狡猾な天使を、氷室は初めて会った10の年から17になった今まで、途切れることなく警戒し続けてきた。
 初めて会ったその日、12歳の水南は10歳の氷室の中に有無をいわさず踏み込んできた。
 その場所を幾重にもガードしていた氷室の自尊心を容赦なく引き裂き、様々な悪しき感情をひきずり出した。
 不安、羞恥、嫉妬、憎しみ、劣等感――恐怖。
 そして、代わりに、水南がその中に棲みついた。
 以来、今日までの7年間、氷室はずっと、自分の中に寄生した得体の知れない魔物を追い出そうと、あがきつづけていたのかもしれない。
 あらゆる人心掌握術、謀略、世渡りの術を、氷室はその7年で身につけた。それは生き抜くためであり、同時に自分の中の魔物に打ち勝ち、追い払うためでもあった。
 でも、どれだけの人や物を得ようと――水南がいつしか氷室に無関心になった今でもなお――、氷室の中には、冷酷な悪魔が天使よりも優しい笑みを浮かべて佇んているのだ。
 どうすればこの忌まわしい存在を永久に追放することができるのか。
 氷室はずっと、その答えを探し続けてきた。
 そして今、改めて思っている。
 それが、今夜だったのだろうか。
 今夜――本当にこの方法しかなかったのだろうか。
「その話は、今、僕らが置かれた状況と、何か関係がありますか」
 躊躇いを振り払い、氷室は座っていた肘掛け椅子から立ちあがった。
 いや、もう迷うのはやめだ。
 この先に破滅が待っていようと、すでに『ゲーム』は始まってしまったのだ。――
 
 
『ゲーム』
 呼称として適当かどうかは判らないが、それはいつも形をなさないメッセージから始まる。
 人や物の配置の変化、差出人不明の贈り物、気がつけば消えている何か、身に覚えのない噂。
 不規則に、そして乱雑に散りばめられた『メッセージ』を丹念につなぎ合わせると、ようやくその意味するものがわずかながらに見えてくる。その時はじめて、不幸な『ターゲット』は誰で、どういった危機が迫っているかが判るのだ。
 『ターゲット』の身に重大な危険がせまっている。それを回避するには、メッセージを全て拾い集め、巧妙に仕掛けられた罠の全容を紐解くしかない。
 仕掛けるのは水南で、『ターゲット』はいつ、誰が選ばれるかは判らない。けれど謎を解くのは、いつも氷室の仕事だった。
 氷室自身が『ターゲット』に選ばれることは絶対にないが、どういった次第なのか、まるで悪夢のように気がつけばその『メッセージ』の駒に、氷室自身が組み込まれているのである。
 やがて氷室は気がついた。これは水南が、自分に仕掛けた『ゲーム』なのだと。
 水南の裕福で退屈な取り巻きたちは、ゲームの開催をお祭り気分で楽しんでいた。また女王様のゲームが始まった――この残酷な遊びを最初に『ゲーム』と呼び始めたのも彼らである。
 しかし、今回『ゲーム』を仕掛けたのは水南ではない――氷室なのだ。
「天、私たちを取り巻く状況は、いつも同じよ」
「僕は、今、この瞬間の状況を言っているのですが――水南お嬢様」
 皮肉に満ちた口調で言って、氷室は窓辺に背を預けて立つ人の前に立ち塞がった。
 背は、もう随分前に追い抜いている。
 体格では、完全に立場は逆転した。こんな真似をしなくても、いつだって腕ずくで屈服させることはできたはずだ。
 いや、できただろうか――結局、何をしても、自分とこの人の精神的な優劣は変わることがないのではないだろうか。
 氷室の一瞬の迷いを見ぬいたように、水南は華奢な身体をカーテンの影に潜めた。
「だめよ。天はもう答えを知りたがっている。私の問いかけの、その意味を」
「意味?」
「人は誰でも知っているのよ。自分が老い、衰え、確実に死んでいくことを。どう足掻こうと、この世界の創造者が作ったさだめから逃れられないことを。世界は逃げ場のない方舟よ。今も刻一刻と死の淵に向かっている。なのに何故、人は狂わずに生きていけるのだと思う?」
「狂う人もいる。それは個々人の心の鈍さの差にすぎない」
「では、その差はどこからくると思う?」
「生まれ持った感受性――教養、知識」
「全てを持っているのは、天も私も同じでしょう。では私たちは、どうして狂うことなく生きていると思う?」
「僕とあなたに、それを乗り越える特別な強さがあるとでも言うのですか?」
 氷室は、攻勢に出ることにした。
 言葉は、この女の最大の武器だ。
 こうやっていつも、彼女は氷室を翻弄し、惑わせ、精神的優位を誇示してきた。
 意味深な謎かけに、本気で答えるだけ無駄だということは判っている。どうせ答えは、水南しか知らないのだから。
 彼女を隠すカーテンごと、氷室は水南を壁際に追い詰めた。
「自分は人より優れていると思う。その言葉は、そっくりそのままお返ししますよ」
 冷たく言い放ち、氷室はカーテンを払いのけた。
 はっと水南が顔をあげる。
 氷室は面食らって瞬きをした。一瞬、その水南の目に、明らかな動揺が走るのが見えたからだ。それまで落ち着き払って会話をしていたのが嘘のように。
 演技か、本心か。いや、考えても無駄だ。水南の心の底に流れるものなど、いままで一度として分かったことなどない。
 それが嘘であろうが本当であろうが、氷室の今夜の目的はひとつだけだ。一枚一枚、辛抱強くこの女を包む自尊心の壁を剥がしていき、かつて氷室がそうされたように、その奥底に隠した感情をあぶり出すこと。
 氷室が一歩前に出ると、水南は逃げるように後退した。
「待って、天。話しあいましょう」
「話し合う?」
 思わぬ言葉に、氷室は思わず眉を寄せる。
「最後の過ちを犯す前に、私たちは分かり合えるはずよ。天」
 嘘だろう。本気で言っているのか?
「もうその段階は終わりましたよ。お嬢様。僕らは今夜、身体で分かり合うと約束した」
 ひきつるように、水南の黒い瞳が強張る。
 怯え? まさか。まさか本気で怖がっているのだろうか?
 氷室は戸惑ったまま、眉を寄せた。――おかしい。
 こんな時ですら、この氷の女王は冷静でなくてはならないはずだった。
 氷室同様、水南にとっても、セックスは初めてではないはずだし、それは彼女を翻弄するほど意味のあるものであってはならないからだ。
 氷室の初体験は中学2年の時だが、その時自分をコントロールできなかったことが、セックスを『危険な行為』だと認識させた。セックスは危険だ――男がひどく無防備になる。
 そうならないためには、肉体の快楽と精神を完全に切り離すことが必要だ。
 以来氷室は、セックスを特別な行為だと考えるのをやめた。セックスとは一種のスポーツであり、技であり、鍛錬によってコントロールし得る体術のひとつにすぎない。――女は、しょせん、ただの肉の道具なのだ。
 そして水南もまた、その女の1人にすぎない。
 しかし同時に判っていた。自分には、水南をそんな風には思えない。彼女を他の女と同列に考えるなど、どうしてもできない。想像しただけで吐き気すらもよおしそうになる。
 一体この女は、自分にとって何者なのだ。何故この女の前に出るだけで、俺はひどく惨めな――取るに足りない存在だという気になるのだろう。
 それだけではない。朝に夕に、まるで女神のように美しい姿を見るだけで、心のどこかに奇妙な陶酔を覚えるのは何故だろう。
 彼女の無関心や冷たさ――あたかも、蔑むような傲慢な眼差しにさえ、マゾヒスティックな快感を覚えるのは何故なのか。
 もしかすると、自分はこの屈辱的な主従関係にすっかり馴染んでしまったのかもしれない。絶対君主である水南に服従する立場に、心の安寧すら見出しているのかもしれない。――とうの昔にプライドをなくした母と同じように。
「あなたのしようしていることは、破滅よ。天」
 水南の声が、つかの間さまよう氷室の意識を現実に引き戻した。
 目の前には、いつもと同じで、さざなみひとつ立たない静かな双眸がある。が、もう氷室は知っている。刹那に見せた表情の変化を見逃したりはしない。澄んだ湖の奥には今、隠しきれない不安と恐れが揺らいでいるのだ。信じられないことに。
 そう、いずれにしても均衡はもう破れた。復讐者としての牙を垣間見せた以上、後退は死でしかない。
 氷室が黙っていると、水南は続けた。
「ここ数年、私たちはお互いにとってとてもいい関係を築いてきた。あなたはとても役に立つ使用人だったし、私はあなたに昔のような子どもじみた嫌がらせをすることもなくなった。そうでしょう?」
 氷室は黙ったままでいた。饒舌は危険だ。水南と対峙する時、多すぎる言葉は劣位を意味する。
「天、あなたの節度をわきまえた態度が、あなたの能力が、あなたのお母様の地位さえも安定させた。父はあなたへの援助を惜しまないし、あなたはいずれ国内最高学府に進むでしょう。その未来のどこに不服があるのか、私にはまるで理解できない。――あなたは間違ったことをしようしているのよ。天」
 ――おかしい。
 二度目の違和感に、氷室はわずかに眉を寄せた。いままでこんなことがあっただろうか――水南の言葉が、空回りしている。
「こんなことが父に知れれば、私だけじゃない、天だって身の破滅でしょう。天、お願いだから冷静になってちょうだい。私とあなたには、別の方法が見出す力があるはずよ」
 なんだろう。このチープな言葉の数々は。
 演技か、それとも何かの罠か。それとも――本当に水南は、変わってしまったのか。
 あの、くだらない芸術家との恋によって。
「お嬢様。それは確かに正論ですが」
 氷室は恭しく、胸に手をあてて頭を下げた。
「ですが――お嬢様はもうお忘れですか。我々のルールでは、正論を吐くものは常に敗者だと決まっている」
 それを俺に教えたのは、お前だ。水南。
 一瞬胸にゆらめいた炎を、氷室は冷静な微笑で押し殺した。
 対等な人間関係が構築できている相手なら、当たり前のことは当たり前にしてもらえる。対等とみなされていないからこそ、訴えてもなお、人としてのモラルや秩序でさえ踏みにじられる。つまり正論を訴えるしかない時点で、その者は敗者なのだ。
 後藤家で水南とすごした7年間で、氷室はそれをいやと言うほど実感した。
「服は自分で脱ぎますか? それとも僕に脱がされるのがお好みでしょうか」
 水南は、眉間に嫌悪を浮かべて氷室を見上げる。
「それとも着たままで? 僕はそちらの方が好きですね。今夜の夜着も……初々しい純白で……そそられる」
「――けだもの」
 鋭く罵った水南が、さっと右手を振り上げる。
 陳腐だ――冷静にそう思いながら、氷室はその腕を掴んで止めた。
「離して……っ、離しなさい」
 逃げようとあがく白い腕。薬指にシルバーのリングがきらめいている。それを目にした瞬間、氷室は自分でも思わぬ荒々しさで、水南を壁際に押し付けていた。
 冷えた心の奥底で何かが揺れた。ひどく危険な匂いがする何かが。
「舌を噛むわよ」
「やってみればいい」
「あなたを殺してやるわ。どんな手を使っても」
「好きにすればいい。その前に自分が置かれた立場をよく考えてみることですね」
 突き放すように言った氷室は、レースのカーテンを掴み取り、それを後ろに回した水南の腕に巻きつけた。
「何をする気」
 もがく身体。怯えた声。氷室の胸の奥に再び危険信号がまたたいた。しかし今は、それをも凌駕する抗いがたい何かがある。
 カーテンで腕を縛られ、窓際に磔にされた水南は、恐怖を帯びた目で氷室を見上げた。
「……待って、天。こんな風にするなんて、聞いてないわ」
「当たり前だ。話さなかった」
「外に人が来たら……い、いやっ、いやっ、触らないでっ」
 レールがたわむ音が響く。
「フランスから取り寄せた最高級のリバーレース。暴れないで。破れてしまえば、何かあったのかと怪しまれる」
「あ……卑怯、者」
 ただ顔を背けることしかできない水南の胸を、氷室は片手で包みこんだ。ひどくするつもりはない。むしろ、溶けるほど優しくしてやる。その方が何倍も屈辱を感じるだろうからだ。
「玩具を使いましょうか。……彼は使った? イキやすいのはどちらですか? 僕の言う意味、お判りですよね」
「き、汚い言葉で、私たちを汚さないで!」
 ――陳腐だ……。
 何もかもが、まるで安っぽいドラマのシナリオのように進んでいく。
「一生後悔するわ、天」
 悲鳴のような声で、水南が言った。
「私じゃない。あなたがよ。誓ってもいいわ。あなたは今夜のことを生涯悔やむことになるのよ」
 絵に描いたような、負け犬の遠吠え。 
 この女を守っていた壁は完全に剥がれた。もう、この辺りで手を引くべきだ。先ほどから自分の中の何かがこう告げている。これ以上踏み込むのは危険だと。
 しかし理性の歯止めは、何故か今夜に限ってきかなかった。









 
 
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この物語はフィクションです。