「やばい、とは?」
「連中、本気であんたに罪を着せるつもりだったってことだ。そういう裏工作はやたらと上手い連中だからな。検察がそこまで馬鹿だとは思わないが、少なくともあんたは疑惑をかけられた上に親父の過去をひっくり返されて、日本にいられないくらいの有名人にはなってたろうよ。――それが、だ。ある時を境に、あんたを巻き込もうとする動きはぴたりと止んだ。何故だか判るか」
「………わかりませんが、想像はつきますよ」
「……あんたの死んだ女房は、本当に怖い女だったんだな」
 水南はおそらく、アルカナの存在をほのめかしたのだろう。氷室に想像できるのはそこまでだ。
 そして同時に、水南は今度こそ本当に――自身の手からアルカナを解き放とうとしたのではないか。ただ廃棄するだけでなく、内密に――けれど公の機関に託す形で。
 宮原が誰の命令を受けて動いているのかは想像するしかないが、きっかけはおそらく成島だろうと氷室はみている。
 海外逃亡中の成島から、後藤水南がアルカナを所持しているという情報が漏れ、宮原は後藤水南と――奇しくも自身がその正体を知りつつも黙認していた男を追い始めた。
 水南は、もちろんその動きを察していただろう。
 宮原が青のナイロンを開くと、下から透明なナイロン袋がでてくる。それを開けると油紙に包まれた包みがでてくる。それをさらに慎重に開くと、中から衝撃防止用のビニールにくるまれた小さな物体が現れた。
 宮原が、最後の包装を取り外す。出て来たのは超小型のメモリーカードだ。
 彼は自身のバックパックからカードリーダーとレコーダーを取り出すと、イヤフォンをつけてからメモリーカードを読み込ませはじめた。
「……驚いたな。モノホンだ」
 呟くように言った宮原がイヤフォンを外して氷室を振り返る。その顔はこころなしか青ざめているように見えた。
「ただし録音状態はかなり悪い。これがオリジナルなら、そもそも証拠価値があったかどうかもあやしいだろうな」
 不意に2人の頭上が曇り、遠くで雷鳴の轟が響いた。
 宮原が慌てて、機材をパックパックに放り込む。
「おい、そろそろ山を降りようぜ。ここにいたら濡れネズミになるどころか、証拠ごと駄目になっちまいそうだ」
「……僕は、もう少し残っても?」
「は?」
 積乱雲で白く濁り始めた空を見上げてから、氷室は宮原を振り返った。
「雨が降るまでの間、しばらくここにいたいんです。――下山するには、僕が置いてきた道標をたどればいい。黄色のペンキを塗った小石です。それは僕が降りる時に回収する。あなたの記憶力がよほど確かでない限り、もうこの場所には誰も立ち入ることができないでしょう――おそらく、僕自身でさえも」
「どういうことだ」
「道を、塞いでしまうんですよ」
 宮原が眉を寄せる。
「ここは後藤家の、最もプライベートな場所なんです。まがりなりにもその末裔に一度でも籍を置いた僕の、これは責務だと思ってください。無駄ですよ。ここはそもそも犯罪現場でもなんでもない。そうして僕はどんな脅しにも屈しない」
 口を開きかけた宮原が、険しい顔で唇を閉じる。
「ここは、あなたが思っている以上に危険なトラップの多い場所なんです。その昔――ここに石碑が建てられてからの話ですが、妻を亡くした伝八が、その妻の墓石に莫大な財宝を隠したという噂が一気に広まった。太平洋戦争の頃まで、この山にはトレジャーハンター気取りの不法侵入者が後を絶たなかったんですよ。そのために当時の領主が山の半分を手放し、そこにあった遺骨を全て寺院に移し替えてしまったほどです」
「……財宝ってのは、本当にあったのか」
「あったとしても、墓地じゃない。もしあるとしたら、ここなんでしょうね」
 2人の頭上を、羽ばたきもせずに黒い鳥が横切っていった。
「先ほども言いましたが、僕はこの山の地形のことなら、おそらく水南より詳しく知っている。標高のさほどないこの山に、危険な罠がしかけてあることもよく知っている。携帯の電波が決して届かない場所があることも知っている。僕はその気になれば、あなたをこの山に永遠に閉じ込めることもできたんです」
「――おい……」
 冗談はよせ、と言いかけたのだろう。笑いかけた宮原の表情が、ゆがんだままで引きつった。
「わかった、わかったよ。1人で降りる。俺の目的はこいつだけで、財宝にも後藤家のプライベートにも興味がない――それでいいんだな」
「ええ」
 やがて陰った雲が再び散り、鋭い午後の日差しに暖かな黄昏の色が混じり始める頃まで、氷室はみじろぎもせずにその場に立ち続けていた。
 沈み始めた夕陽が、後藤家の影の形を刻一刻と変えていく。この場所にかつて立った人たちが見た光景を、氷室もまた違う目で見ている。
 何世代にも続いて受け継がれてきた悲劇。その渦中に立つ人たちの目に、業の全てがつまったあの屋敷は、どう映っていたのだろうか。
 最後にこの景色を見るのが自分であったという不思議を思いながら、氷室は足元に置いたリュックサックを取り上げた。
 折りたたみ式のスコップを取り出し、柄を伸ばしてロックする。
 見る前から予想してはいたが、聖堂を囲む角柱の周囲を線で結ぶと、それは美しい黄金長方形となる。
 『終末の家』と同じ方角からその長方形の内部に最大の正方形を切り取ると、もうひとつの黄金長方形が現れる。それは計算上、永遠に続くのだ。どこまでいってもゼロにはならない。
 永遠の螺旋の下。
 地下室に置かれた手紙を見た時から、地下が終わりの場所ではないことだけは、薄っすらと判っていた。そして、「永遠の螺旋の下」が、黄金長方形の永遠の螺旋を意味するなら――
 数字からこの場所に辿りつけたとしても、その先の秘密は、氷室にしか判らない。
(そうでしょうね。私にしてもごく最近、最後の謎に気づいたのだもの)
(運命が永遠の螺旋の下にあることに)
 水南は最初からそのヒントを、2人の記憶の中にしか遺さなかったのだ。
 スコップで、その場所を掘り始める。水南が1人で埋めたものなら、さほど深くはないはずだ。――その予測もまたあたり、ほどなくしてスコップの先が固い金属様のものに当たって止まる。
 しゃがみこんだ氷室は、軍手をつけてから、それを用心深く掘り出した。
 両手で抱えられるほどの、銀製の小箱。本来であれば石像の中に収められていたはずのもの。銀は腐食しにくい金属ではあるが、さすがに長い年月が表面を黒くすすけさせている。泥を払うと、表面にはあの鍵と同じ、魚の文様が刻まれている。
 鍵穴につまった泥を丁寧に取り除くと、氷室はそこに、とりだした鍵を差し込んだ。
 カチリ、とどこかくぐもった音を立て、小箱の蓋が微かに浮き上がる。
 中から溢れだした手紙の束を、氷室はひとつひとつとりあげていった。
 精巧に作られた小箱は、中に水滴ひとつ侵入させなかったのだろう。墨痕黒々としたためられた書状には、にじみひとつ浮き出てはいない。
 それは伝八と倭文との間に交わされた書簡だった。恋文といってもよかった。おそらくだが、終末の家で余生を送る倭文と伝八が交わした書簡なのだろう。
 古い和紙の束の下から、今度は洋紙の封筒の束がでてくる。
 氷室はあらためてその束を取り上げた。封筒には、宛名も差出人の名前もない。けれど氷室には、それが同じ人物がしたためたものだと即座にわかった。
 終末の家の地下にあった手紙と。
 今なら、わかる。
 あの情熱的な―― 一種愚かともいえる手紙は、父のような利己的な人物がしたためたものでは、決してなかった。
 知れてしまえば、破滅しかない関係。氷室なら手紙もメールも残したりはしない。父もまた、同じだったろう。
 熱烈な愛の手紙に、氷室は黙って目を通した。やがて気付いた。その愛は、欲情でもエゴでもない。深い、深い、父が子に向けるような愛おしさと、心配であふれている。
 ――堺先生…………。
 熱くなった目を閉じ、氷室はひとつ深呼吸をした。
 堺医師はおそらく、便りひとつよこさなかった佐伯涼に代わって、この手紙を代筆したのだ。
 まさか手紙を受け取った水那江が、この手紙を水南に残そうとするなど夢にも思わなかったに違いない。
 水南も、最初は驚き、打ちのめされたのかもしれない。けれどどこかの時点でこれが堺医師の代筆だと気がついたはずだ。だからこそ、手紙の一通を『終末の家』の地下に――氷室の目につく場所にあえて残した。
 その意図はひとつ。真偽を確かめずにいられなくなった氷室を、堺医師のところに行くよう仕向けさせるためだ。――
 最後に出て来たものを、氷室は静かに持ち上げた。
 それは厚手のビニール袋で、中のものは、なお厳重に油紙と紐でくるまれている。
 紐を解いて油紙を開くと、折りたたんだ紙片と小さなメモリーカード、そしてコインのよう何かが掌に転がり出てきた。
 氷室は一瞬息をつめ、しばらく呼吸をすることさえ忘れていた。
 時がとまり、その時が、あざやかにかつての一場面とリンクする。
 水南、ようやくわかったよ。
 あの時、君が言っていた意味が。
 あの一瞬は、君にも僕にも永遠だった。
 そして、その儚い輝きは。
 人生を永遠に照らす光なのだ。
 氷室は折りたたまれた紙を開いた。もう、そこに書かれていることにさほど重要な意味はない。きっと水南にとってもそうだったろう。
 何故なら、水南が本当におそれていたのは、氷室との血のつながりなどではないからだ。水南が恐れていたのは、幼い頃からただひとつしかない。やがては母と同じように醜く朽ちていく肉体の末路――そして感情を移してしまった人々との、永遠の別れだ。
 水南はその恐怖をのりこえようとした。でも、できなかった。きっと香澄の死の知らせ――それが自殺だったことが、水南の心を再び死の誘惑に引き戻してしまったのだろう。
 そうして水南は長瀬と出会い、氷室は日高成美と出会った――
 鑑定結果は不一致。
 最後の一文に目を通し、氷室はその紙を手元でふたつに引き裂いた。
 水南、君の選択は間違っていなかった。……結果論ではあるけれど。
 僕らはきっと陰と陰だ。性質が似すぎていたゆえに2人では決して陽にはなれない。君には長瀬さんという光が必要で、僕にもまた、別の光が必要だった。
 全ては、結果論ではあるけれど――
「…………………」
 メモリーカードを指で挟んでへし折ると、氷室は掌にあるものをそっとつまみあげた。
 宮原の手に渡ったものが、複製――しかも肝心な部分が故意に消されたものであることは、氷室は最初から想定していた。
 水南は、氷室が、長瀬の素性を疑う宮原ととアルカナを使って取引することを最初から望んでいたのだ。
 水南の動機が、日高成美が想像するようなセンチメンタルなものだけではないことを、氷室は最初から見抜いていた。
 彼女の緻密な計算と、周到さはさすがとしか言いようがない。――ゲームの最後になるまで本当の答えが見えてこない。それもまた、見事である。そういう時の水南は、まるで運命さえ味方につけ、手玉にとって操っているようだ。
「……君は、本当に相変わらずだな」
 苦笑して呟いた氷室は、指先で取り上げた指輪を、そっと目元まで持ち上げた。
 2人で後藤家を飛び出した夜、それは氷室が水南のために買った結婚指輪だった。
(今夜のことを、私、一生忘れないわ)
(本当よ、この一瞬の思い出だけで、私はこの先も生きていけるような気がするの。本当よ……天)
 氷室は指輪を再び元の箱に戻すと、最初と同じように穴に戻し、土をかけてから立ち上がった。
 今日、ここで過ごした数時間、自分の脳裏を占めていた思いは、生涯口にすることはないだろう。生涯――死ぬまで、胸の奥底に閉じ込め続ける。
 最後まで真実を口にしなかった堺医師のように。
「……さようなら、水南」
 僕は、君が見ることの出来なかった世界で生きていく。
 それがどれだけ残酷なものでも、目を逸らさずに生きていく。
 僕を照らしてくれる、唯一の光とともに――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。