エピローグ 1
 
 
 
 
 
 鬱蒼とした樹海を抜け、生い茂る草むらをかきわけるようにしてしばらく進むと、ようやく視界が開けてくる。
 ああ、ここだ。
 足を止めた氷室は、眼前に開けた光景に目を細めた。
 そういうことだった。
 ここの景色そのものが、既に“答え”だったのだ。―――
「おい、一体、どこまで行けばいいんだ」
 背後から聞こえる不機嫌な声に、前を見たままで氷室は答えた。
「もう、着きましたよ」
 涼やかな風が額を優しく撫でていく。
 足元に広がる青々とした草地の向こうには、澄んだ碧空が広がっている。
 ところどころにシロツメクサの花が散る草地の一部分には、ひどく雑草が集中している箇所がある。
 その場所を見やり、氷室はネクタイを緩めて、ひとつ息をついた。
「おい、いまさら騙しあいはなしだぜ。氷室さん」
 背後から、ぜえぜえという荒い息づかいと共に、宮原と名乗る警察官が現れた。
 カーキ色のハットの下、もじゃもじゃした髪はぬれそぼり、顎から珠のような汗が滴っている。
「て、……いうか、あんた、いかにも生ッ白い優男のくせに、体力、半端なくねぇか? こっちはもう、息があがって死にそうだ」
 この地方の今日の平均気温は真夏並みで、蒸れた湿度は、草の匂いをより濃密に空気に含ませている。
 あらためて汗をかかない自分の体質を不思議に思いながら、氷室は石に蹴躓いた宮原に手を貸した。
「だから僕1人で行って、とってきましょうかと言ったんです」
「そ、そんなの信じられるか。せっかくのブツを土壇場ですり替えられでもしたら、元も子もない」
「僕に、そんな真似をする理由などないのに」
「どうだかな。いっとくが改竄の痕跡が少しでも認められたら、あんたとの約束は反故だからな」
 警察官特有の疑心に満ちた眼差しに辟易するものを感じながら、氷室は男から手を離した。
「僕に、あなたとの約束を反故にするメリットがあると思いますか。僕だって警察を敵に回すほど馬鹿じゃない」
「どうだかな。――あるいはあんたの父親の、もっとひどい悪事が録音されている可能性だって、あるだろう」
「あるかもしれませんが、僕にそれを確かめる術はない。きっと、現物を見れば判りますよ」
「でもここまでの道は知っていた。――つまり、いくらだって事前に細工できたってことじゃないのか」
「……………」
 氷室は答えず、視線だけを雲ひとつない空に向けた。
 そもそも、あの絵のオリジナルが描かれたのはいつだったのだろう、と思いながら。
「まぁ、疑いたいならご自由にどうぞ。僕が確実に言えるのは、この場所を後藤家代々の直系血族が、人知れず暗号化して伝えてきた――ということだけですけどね」
「暗号ってのは、あの化物屋敷の地下に描かれた曼荼羅の絵文字のことか。コナン・ドイルの『踊る人形』を真似たような」
 宮原はにやり、と唇を歪めた。
「悪く思うなよ。あんたとおじょうちゃんの後をつけていて、あの地下のことも知っちまった。最も解読まではできなかったがな」
「……構いませんよ。もう秘密にしておく意味もない」
 氷室は呟き、草地に足を踏み入れた。
「むしろご存知の方が話が早くて助かります。マリア像の背後に描かれている記号は、暗号でもなんでもないんです。古典ミステリ好きの人間なら、誰でもドイルの『踊る人形』――つまり換字式暗号(かえじしきあんごう)を思い浮かべるでしょうが、いくら別の文字や記号に変換してみたところで、すっきりとした答えは出ないでしょう。換字は換字でも、あれは――ゲマトリアなんですから」
「……? は? ゲト……なんだ?」
「ゲマトリアというのは、ヘブライ語やヘブライ文字の数秘術――まぁ、わかりやすくいえば数字を使った占いのようなものですが、聖書の言葉に隠された意味を読み解く手法の一種です。あの地下の絵文字で記されていたのはヘブライ語の字母ですが、全て数字に置き換えられるんです。たとえば」
 氷室は指で空にと描いた。
「アレフは1、ベートは2、ギメルは3、レーシュは200、ペー・ソフィーは26といった風にね。中には意味のない絵文字がフェイクとして混じっているので、そこに拘ると永遠に答えには辿りつけません。ただし、これがゲマトリアだと気づくことさえできれば、フェイクを取り除けばいいのだと判るでしょう」
 後藤家とキリスト教の繋がりは深い。後藤家の俯瞰絵が『終末の家』の地下に続くヒントだとしたら、地下の絵文字にさえ辿りつけば、その絵文字がヘブライ語の字母を表していることまでは解読できる。
 が、その字母をゲマトリアで数字に置き換えたとしても、意味不明な数の羅列を解読する行程で、行き詰まる。氷室も最初、この数字に特段の意味を見出すことができなかった。
「壁に描かれた文字を数字に書き換えて並べるとこうなります。
47835026807030302,660466639316235300」
「……さっばり、意味がわからねぇ。てか、なんであんた、そんな長い数字を空で言えてんだよ」
「一度見た数字は嫌でも記憶してしまうんですよ。話を戻します。この数字は何を意味する数字なのか? そこで初めて、この鍵が必要になるんです」
 氷室はポケットに入れていたキーケースを取り出した。件の鍵――氷室の元の部屋に残された鍵だけを、注意深く取り外す。
「よく見てください」
「見る?」
 氷室が差し出した鍵を取り上げると、宮原は目をすがめて、遠ざけたり近づけたりした。
「古い鍵だ。今の様式じゃねぇ。なんだかちっちぇえ記号みたいな点が、表面にいくつもあるように見えるが……」
「魚ですよ」
「魚」
「ええ、拡大してようやく判る程度ですが、魚のマークをした彫り物が、全部で153ほど表面に浮きだしているんです。魚、そして153という数。キリスト教に造形が深い人間なら、すぐにある有名な一節を思い浮かべるでしょう。ヨハネの福音書の一節です」
 宮原は全く理解できないのか、ぽかんとしている。
「シモン・ペトロが『私は漁に行く』と言うと、彼らは『私たちもいっしょに行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、とれるはずだ』。そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスが「今とった魚を何匹かもってきなさい」といった。シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸地に引き上げると、153匹の大きな魚でいっぱいであった」
「…………?」
「網にかかった153匹の魚。マタイの福音書によるとシモン・ペトロは元漁師で、兄弟と釣りをしている時にイエスにこう声をかけられています。『あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。つまり153匹の魚とは人間を暗示しているんです」
 ぎょっと宮原が眉をあげた。
「おいおい、そりゃ一体なんの話だ。まさかここに153人の遺体が埋められてるとかいうオチじゃねぇだろうな」
 見当ちがいもいいところだが、目の前の刑事は案外本気で疑っているらしい。氷室は微かに苦笑した。
「宮原さん。153人とは神によって救われた人間の数なんです。間違っても死人じゃない。ゼカリヤ書の13章でこう預言されています。全地はこうなる。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」
 ますます意味が判らないのか、宮原が眉を寄せる。
「つまりこういうことです。最終的に救いの網に入る人数は、全人類の3分の1なんです。弟子たちに捕らわれた魚――153匹の魚は、救われた3分の1の人類ことなんです」
「…………」
「153が3分の1を意味するという根拠は、数術的にも証明されています。たとえば153の各桁数全てを3乗してみてください。そうして出た数字の桁数をさらに3乗する。その作業を繰り返せば、153は再び153に戻ります。153だけではない、3で割り切れるどの数字に同じ行程を繰り返しても、最後は153になる。つまり153は3分の1を代表する数字なんです」
「……で?」
「そこで先ほどの、絵文字からゲマトリアの変換を用いて出て来た数字がでてくる。47835026807030302,660466639316235300この数字が何かの隠し場所を示しているとして――それが数字でしか表せないとすれば、答えはおそらく緯度と経度でしょう。この数字の羅列をカンマで切り、3乗する前の元の数字に戻すとこうなります。3551184、1385647。それが緯度と経度なら、その場所は――」
 ここか、と宮原が夢から覚めたように呟いた。
「ここです。――理論上ここでしかありえないとは思っていましたが、僕も今日、この場所に立って初めて確信しました」
 ゆっくりと前に歩み出た氷室は、眼下に広がる景色を再度見下ろした。
 丁度後藤邸が俯瞰で見下ろせる。あの絵の描かれた角度そのままの正確さで。
 雪村と成美の稚拙な推理はある意味正解だったのだ。あの絵は最初からゴールを示していたのだから。
「鍵と、そしてゲマトリアの絵文字。この二つが揃って初めてこの場所に辿り着ける。ここには以前、後藤家の祖先である後藤伝八が建てた亡き妻の石像があったんです。絶対に誰も立ち入らせなかったばかりか、伝八以外誰も正確な場所を知らないという曰くつきの場所ですよ。『終末の家』同様、建造に携わった人々がこのあたりに埋められている程度のことは、……まぁ、あっても不思議ではないと思いますけどね」
「……人柱か。まぁ、そんな古い罪を暴き立てて喜ぶほど、警察は暇じゃねぇよ」
 宮原が目をすがめて周辺を見回した。
 草原には、苔で真っ黒になった石畳がところどころに点在している。その四方を囲むように崩れた角柱の残骸がわずかばかり残っている。
 4つの角柱を交差されたほぼ中央に、朽ち果てた石像の台座だけが残されていた。
「ここまでひどい有様になったのは、おそらく太平洋戦争の時でしょうね。このあたりも、随分空襲が激しかったといいますから」
「せっかくの祖先のお宝を、修復しようとは思わなかったのかい」
「山を切り開きでもしなければ無理でしょう。おそらく、ですが、関東大震災の折に従来あった山道が土砂で潰れてしまったのではないでしょうか。僕らが今きた道を通って、資材や道具を運びこむのは無理だと思いますね」
 ふぅっと重い息を吐き、宮原は石像の台座の前に回り込んだ。
 その周辺には無数の花が朽ち、あるいは枯れ、散らばっている。
「この中か」
 のぞきこんだ台座中に、一部分だけ色の新しいコンクリがあった。もともとあった穴を、上から塗り固めて塞いだ跡だ。
 雨が降るたびに溜まるであろう泥水で、黒く汚れたそれが昨日今日なされた施行でないことは明らかで、宮原の氷室への疑念も、これで晴れたはずだった。
「持ってきた工具が役に立つようですね」
 氷室は微笑して、背負っていたリュックを下ろし、中から電動ドリルを取り出した。
「あんた……、いまさらつくづく思うが、鉄人だな。こんな重たいものを担いでここまで来たのか」
 宮原が呆れた顔で、氷室が下ろしたリュックを持ち上げる。
「僕の今の仕事くらい、当然調べているんでしょう? どのような形で隠されているのか正直僕にも判らないですからね。堀削道具ならひと通り持ってきましたよ」
「ずっと今の仕事を続ける気か? あんたはやっぱり、肉体派というより頭脳派だぜ?」
 氷室は答えず、サングラスをかけてドリルの電源を入れる。
 凄まじい音が静かな山間に響き渡る。元々の接続部が甘かったのかコンクリの塊はあっけなく落ち、そこに暗い穴が現れた。
「どけ」
 宮原が、ドリルを手にしたままの氷室の前に割り込んでくる。氷室は逆らわずに背後に下がった。
 しゃがみこんだ宮原が、用心深く穴の中に手を差し込む。しばらく内部をさぐっていた手は、やがて青のナイロンで幾重にも包み込まれた――掌に乗るほどの包を取りあげた。
「この包を開ける前に、あんたに改めて問いただしたいことがある」
 振り返った宮原の目は、人並み外れて嗅覚の鋭い、刑事の目にもどっていた。
「あんたは、地下の絵文字からこの場所を特定した。そこまでは判る。が、なんでここにアルカナがあると最初から確信していた? あんたは一度もこの場所に立ち入ったことがないと言ったし、実際その通りだったのは俺にもわかった。――それなのに、だ」
「………………」
「俺は何も、あんたを疑ってるわけじゃない。国内でアルカナを所持していた人間がもしいるとすれば、それが後藤水南だということも判っている。俺が知りたいのは、このアルカナが正真正銘の本物で、一切の複製や加工がされていないかどうか、だ」
「複製されていたかどうかまでは僕には判らない。言わせてもらえば、水南にも判らなかったと思う。それはあなた方警察が存分に調べればいいだけのことだ。――ただ、水南に複製を残す理由はない。彼女がアルカナの存在を死ぬまで表沙汰にしなかったことからも、夫である長瀬氏にすら言い遺さなかったことからも、それは明らかだと思っています」
「なるほどな」
「先ほどあなたに見せた鍵は、水南が死に際して僕に遺してくれたものです。すこしばかり周りくどいやり方ではありましたが、彼女が僕をこの場所に導きたかったのは間違いない。彼女が、僕あてに何かを遺しているのだとしたら――彼女が生前、僕に渡そうとして渡せなかったもの、しかも周到に隠す必要があるものは、ひとつしかないでしょう」
「…………」
 宮原は顎のあたりを指で撫で、なるほどな――と呟いた。
「わかった。まぁ一応だが、納得してもいい。それからもうひとつ。これはあんたが昨日俺に言った言葉だが……」
「なんでしょう」
「あんたは昨日、自分にしかこの謎が解けないみたいなことを言っていたな。
――言っちゃあ悪いが、所詮は昔の人間が造った暗号だ。地下に描かれた数字を拾い集めてコンピューターにかければ、答えなんて、いつかは出てきたじゃないのか?」
 ああ――と、氷室は頷き、視線を背後の山々に移した。
「それは、ここまでの道程のことですよ」
「道程……?」
「元あった道は土砂で塞がれているといったでしょう。そうでなくとも、伝八が迷路のように複雑な仕掛けを施していた道なんです。道標を知らなければ、この場所にたどり着くのは容易なことではなかったと思いますよ。先ほどもいいましたが、山を切り開きでもしない限り」
「あんたが知ってたのは、どうしてなんだ?」
「子供の頃、この山で水南と知恵比べをしたからですよ」
 氷室は微かに苦笑を浮かべた。
「彼女は僕の大切なものを隠し、それを僕に探させるという意地悪い遊びが好きだったんです。この山も一度ならずその舞台に選ばれた。僕はこの山のことならかなり細かく観察しています。だから、一見しただけでは判らないちょっとした道標にも気づくことができたんです。最も当時はそれが、何を意味するかまでは判りませんでしたが」
「………………」 
 黙ったまま、探るように氷室を見ていた宮原は、なるほどね、と呟いてようやく包を開き始めた。
「色々喋らせて悪かったな。まぁ、礼と言っちゃああれだが、こっちも手の内を少しばかり見せてやるよ。――西東事務次官は今月中に逮捕される。で、氷室さん。あんたも薄々気がついてたと思うが、あんた――結構本気でやばかったんだぜ」

 


 
 >next >back >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。