「怖いって、……何が、ですか」
 成美がおそるおそる訊くと、氷室は目を閉じ、微かに息を吸い込んだ。
「日高さん」
「は、はい」
 彼がそっと手を伸ばす。成美は戸惑いながら、その胸に身体を寄せた。
 ゆっくりと、まるで宝物でも抱くように抱きしめられる。かがみこんだ氷室の冷たい頬が成美の頬に触れ、成美は思わず彼の背に腕を回した。
「昔、僕にこんな問いかけをした人がいます。明確な答えを明かさないまま、その人はもうこの世から去りました」
「………………」
「世界は逃げ場のない方舟だ。誰もが等しく、死という未来に向かっている。いずれ、必ず人は死ぬ。その宿業を背負っている限り、僕らにも必ず別れがくる」
「………………」
「老いて、病んで、多かれ少なかれ必ず苦しんで人は死ぬ。そういった未来がいずれくると判っているのに、どうして人は狂うことなく生きていけるのだと思いますか」
 え……?
 どうしてって。
 それは――そんなことは、今まで考えたこともなかったけれど。
 戸惑って瞬きした成美は、咄嗟に頭に浮かんだ言葉を返そうとして――気がついた。
 この人は、怖いのだ。
 死ぬことが――いや、死に向かって生きていることが怖いのだ。
 成美の胸の中に、ふと先日感じた不思議な感覚が蘇ってきた。
 氷室と2人で、別れるために後藤家の山を登っていた時。
 普段どおりの、なんでもないような会話をしながら、2人は確実に別れるための場所に向かって歩いていた。
 その時、ふと感じたのだ。もしかすると、これが人生というものなのかもしれないな、と。
 死は誰にとっても身近で、しかも確実にくるものなのに、日常でそれを意識することは殆どない。そうやって……いつもどおりの穏やかな日々を紡ぎながら、死という恐怖の瞬間に向かって歩いて行くことに、あの日、氷室と別れる恐怖とその場に向かう穏やかな道中を重ねあわせ、不思議な矛盾を覚えたのだ。
 成美は改めて、自分の腕の中の氷室のことを考えた。
 おそらくだけれど、まだ人格形成のなされていない彼の心に、その言葉と生の終わりを強烈に刻みつけたのは後藤水南だ。
 そうして彼女は自ら、その業病と早すぎる死によって、彼の畏れを現実のものにした。
 10代で両親を亡くしたことも、残酷にもまだ少年とも呼べる年齢で、その変わり果てた遺体を確認しなければならなかったことも、――彼の心に、死への恐怖と生の儚さが強く刻み込まれた原因となったのかもしれない。
 いずれにしても、水南の言葉はそうやって氷室の胸深くに沈み込み、水南ですら意図しないところで、ずっと彼を縛り続けていたのだ。……あたかも永遠に解けない呪縛のように。
 どうすればいいんだろう。
 氷室の体温を感じながら、成美は次第に焦り始める自分を感じた。
 今の私に、あまりにも人生というものを浅く考えていた私に、適切な言葉が返せるとは思えない。
 どう綺麗な言葉で言い繕ったところで、彼の心を閉じ込めた氷の呪縛は、決して溶けはしないだろう。
 というより、なんだか切なくて泣けてくる。
 この人は、―――この人が夜をずっと恐れていたのは……亡き妻の幻影を通して、やがてくる生の終わりを見ていたからなのだ。
 今ここにある温もりも幸福も、いずれは必ず消えてしまうことを知っていたからなのだ。
「く、狂ってる場合じゃない、からじゃないですか」
 最初に頭に浮かんだ言葉を、成美は咄嗟に口にしていた。
「だって、生きていかないといけないじゃないですか。朝起きて――ご飯食べて仕事して、怒られて残業して、またご飯食べて」
「………………」
「ダイエットもしないといけないし、氷室さんの好みにあわせるのも結構大変だし、仕事のことも友達のことも親のことも、心配しないといけないことはそれこそ日替わりで降ってきますし」
「………………」
「結構、生きてるだけで、人生って一杯一杯じゃないですか。そうやってふと気がついたら、終わりが見えていたとしても、もうその時はその時で、――たとえば走馬灯で沢山いい思い出を見れたらいいな、とか」
 初めて、あなたと手が触れた時のこと。
 キスした時、胸がすごくぎゅっとなったこと。
 好きだと言ってくれた時のこと。
 その思い出だけで、もう十分私の人生幸せだったとか言ったら、氷室さんはどう思いますか? 
 たとえこの先、2人かどんな終わり方をしたとしても。
「……うまく言えないですけど、もうそんな感じでいいんじゃないかなって、……私は、そう思うんですけど」
 自分を抱きしめる氷室の腕が、固まっているのが判る。
 成美はいまさらながら恥ずかしくなり、少しだけ耳を熱くした。
 つい勢いで思ったことを言ってしまったけれど、あまりに幼稚な言葉を羅列したのは判っている。それはきっと、彼の求めた答えとは程遠いものだったのだ。
「す、すみません、変な答えで。だって急にそんなこと聞かれても……私の頭じゃどう考えたって無理ですよ」
 そんな禅問答は、できれば思い出の中の水南さんとやりとりして決着をつけて……と思った時だった。
 不意に肩越しの氷室が震え始めた。
「――氷室さん?」
「いや……失礼」
「……………………」
 なに? もしかしてこの人、笑ってる?
 くっくっと肩越しに氷室のくぐもった笑い声が響く、成美はさすがにむっとして顔を上げた。
「まさか――からかったんですか?」
「いえいえ。ただ、あまりに単純な回答だったものですから」
「っ、悪かったですね、単純で」
 信じられない。こっちは馬鹿なりに、一生懸命考えて喋ったのに!
 氷室は笑いながら、成美の腰を抱いて自分から引き離した。
「なんだろう。君と水南が対決したら、案外君が勝つような気がしてきました」
「はっ? な、なんですかそれ。この状況で……絶対に褒め言葉じゃないですよね」
「褒めてるんです。日高さん、僕が死ぬまで傍にいてくれますか」
「………………」
 え?
「逆になるかもしれないですけどね。その時は、ちょっと辛くて、君のように前向きに考えられるかどうか自信がありませんが」
 ぼんやりと氷室を見上げる成美の唇に、そっと唇が降りてきた。
 触れるだけの優しいキスは、少しだけ成美の唇を包み込んですぐに離れる。
「……私なんかで、いいんですか」
 目の奥が熱くなり、成美は唇を噛み締めた。
「わ、私なんかで、本当にいいんですか」
「君の心は、もう雪村さんのものだと思っていた」
 成美の額に自分の額を重ねてから、どこか熱っぽく氷室は囁いた。
「君が長瀬さんの頼みをああもあっさり引き受けたりしなければ、僕にはとても、今夜の勇気はもてなかった。……こんな僕で本当にいいのかと、聞きたいのは僕の方です」
 成美は首を横に振って、氷室の首に両腕を回した。
 涙があとからあとから溢れて、もう息もできなかった。
 言葉が何も出ないまま、ただしゃくりあげる成美の髪を、氷室は何度も優しく撫でる。
「……、氷室さん……」
 好き――大好き。
「も……、どこにも、いかないで……」
 その言葉に応えるように、少しだけ強く抱きしめられる。
「いかないで……、離さないで……」
 もう、伝えきれないほど、あなたが好き。
 たとえあなたがどんなに冷酷な悪党で、私のことを愛していなかったとしても。
 格差恋愛でもなんでもいい。もう二度と、絶対にこの人の傍から離れない。
「日高さん」
 氷室が、耳元でそっと囁いた。
「僕は、君がいないと息もできない」
 成美は瞬きをして顔をあげる。その額に軽く口づけ、氷室は初めて見るような楽しそうな笑顔になった。
「君は僕の、――太陽だ」


 

 
 
 
 
 
 
  
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。