5


「……っ、あっ、いたっ」
 唇をかみしめていた成美は、たまらず声をあげていた。
「いたっ、痛い痛い、すみません、マジで痛いですっ」
「こら、いい大人がじたばたしない」
 成美をそうたしなめながら、少し面差しが柏原明凛に似ている女医は、一向に手かげんすることなく足の傷口に消毒液をふりかけていく。
 あ……痛くて、頭の芯がじんじんする。
 涙目を薄くあけて、成美はおそるおそる、診療台に投げ出された自分の足を見た。
 なんか色々あって、怪我のことはすっかり忘れていたけど、こうしてみると結構ひどい傷だったんだな。
 バンドエイドか包帯で済めばいいけど――済みますように。
「痕になりますか」
 訊いたのは、傍らに立つ氷室だった。
「まぁ、なるでしょうね。若いから直に目立たなくはなると思うけど」
 平然と女医は答える。その冷淡さもなんだか柏原課長によく似ている。
「いつ頃、目立たなくなりますか」
「……ご主人だっけ?」
「ええ」
 不審そうに眉を寄せた女医の問いに、氷室はなんらためらうことなく頷く。成美は吹き出しそうになっていた。
「まぁ、惜しむ気持ちはわかるけど――。ご主人があまり気にすると、奥さんも無駄に気にしちゃうわよ。そういうのって以心伝心するものだから」
「……そういうわけではないんですが」
 歯切れ悪く言いよどむ氷室を、成美は少し意外な気持ちで見た。
 心配してくれるのは嬉しいけれど、今の2人の状況で、彼が傷痕にこだわる理由がよくわからない。
(僕にも判りました。最初にどこへ行くべきかが)
 と言われて、有無をいわさず外に連れだされたのには驚いたが、氷室の目的は近所の外科医だった。
 迂闊にも、その時になって成美はようやく思い出したのだ。氷室の特殊能力――デビルイヤー ――つまり離れた場所にある携帯から、相手の微かな声を聞き取る能力を。
 結論から言えば、雪村と成美の会話は、ほぼ彼に筒抜けだったに違いない。
 あー、なんて恐ろしい真似をしたんだろう。私、何喋ったっけ。いや、私じゃなくて雪村さんが。
 確か……
(いっとくけど、一発どころじゃすまねぇぞ。二、三発殴って蹴りでも入れとけ)
 ひぇー…………。
「とりあえずご主人、今から麻酔かけて縫合するから、いったん外に出て行ってもらえる?」
「わかりました」
 氷室は一瞬露骨な不満顔になったが、結局は素直に出て行った。
 女医が、成美に向き直る。
「ご主人、足フェチ?」
 吹き出しそうになった成美は大急ぎで首を横に振った。
 そ、それ以前にご主人ですらないし。
「そ。じゃあ随分と愛されてるのね。面倒くさそうな男だけど、羨ましいわ」
「は、はぁ……」
 はじめて行った外科医院だけど、この女医さん、人を見る目が半端ないな。
 一見完璧で、みとれるほど綺麗な氷室を、初見で「面倒くさい男」とずばり見抜いてしまうとは。
 縫合を終えて外待合に出ると、壁に背を預けるようにして立っていた氷室が、すぐ傍に来てくれた。
「歩ける?」
「……今、どうやってここまで来たと思ってます?」
 そんな2人のやりとりを、通り過ぎた看護師が耳にしたのか、くすくすと笑っている。
「てか、どうしてあんな嘘をつくんですか」
 成美は耳を熱くしながら、小声で言った。
「嘘?」
「主人とか――氷室さんには1回きりの病院でも、ここはうちの近所なんですよ? 2度とこられないじゃないですか」
「別の病院を探せばいい」
 氷室は少し眉をひそめた。
「どうもあの医師は――、腕は確かでも信頼に足らないところがありそうで――。今回は応急ということで、次はもっといい病院を探しましょう」
「……………………」
 あのですね。
 成美はほっと息をついて、手前の長椅子に腰掛けた。
「氷室さんって、基本、あの手のタイプが苦手ですよね」
「え?」
「美人で冷たくて、男を支配するタイプの女性。柏原課長のことも最初は苦手だったとか言ってませんでした? それも水南さんのトラウマですか」
 心外そうに眉をあげ、氷室もまた成美の隣に腰掛けた。
「君のプロファイリングは、幼稚な上に的外れだとだけ言っておきます」
「あながち、まるっきりの的外れとは思えないんですけど」
「…………君は」
 少し苛立ったように、氷室がこちらを見るのがわかった。
「君は、この半年たらずで人が変わってしまったんじゃないですか? そこまでデリカシーのない人だとは思ってもみませんでしたよ」
「そうですね。でも変わったんだとしたら、きっと氷室さんの影響ですけど」
「僕の」
「ええ。あなたに受けたあまりの仕打ちから立ち直るのには、今までの自分じゃいられませんでしたから」
 しばらく黙った氷室の目に、微かな皮肉の色が浮かんだ。
「それはどうも……。でも、本当に僕1人の影響なんですかね」
「何が言いたいんですか」
「別に。その毒舌の影に、誰かさんの影響がかいま見えるといった程度の話ですよ」
 なに、その言い方。
 それってまさか、雪村さんのことを言ってるの?
「だとしても、それを氷室さんに責められる筋合いはないですよね!」
「おや、僕がいつ君を責めました?」
 ごほん、と咳払いが聞こえて、気づくと2人の前にあの美人女医が立っている。
「お話中のところ悪いんだけど、傷の様子を見たいから明日も来られる?」
 明日――明日は。
 もう時刻は午後4時を大きくまわっている。今から東京に行って今夜中に初対面の相手を訪ねるのは……少しばかり非常識な時間だ。
 言いよどむ成美の隣で、氷室がすっくと立ちあがった。
「もしかすると、明日は難しいかもしれません。念の為、自宅で包帯を変えられるように処方していただけますか」
「……できるだけお医者さんに診てもらったほうがいいと思うけど」
 女医が立ち去ると、成美は急いで立ちあがった。
「何処に行くんです」
「これ以上ぼやぼやしてはいられません。今からすぐ駅に行きます」
 今夜東京に泊まって、明日の午前中に用事を済ませれば、午後の早い内に灰谷市に戻れるかもしれない。
「ちょっと待って下さい」
 氷室は溜息まじりに言うと、首をかしげて成美を見下ろした。
「君は堺医師と初対面だと思いますが、事前にアポイントメントはとっているんですか。そもそも堺医師はかなりの高齢ですが――存命されているかどうか、確認はしているんですよね?」
 う、それは。
 そうか――なんだか勢いに乗っていたが、すっかり忘れていた。
 堺医師には、あの向井志都ですら門前払いされているのだ。アポなしで直撃したところで、あっさり追い返されるのがオチではないだろうか。
「だいたいその格好で、本気で今から新幹線に乗るつもりですか。仮に堺医師に会うにしても、相当礼儀を欠いていると思いますがね」
 数秒黙った成美は、おそるおそる自分の着ている服を見下ろした。
 下着以外は昨日のまま。
 そして全てに、昨日の冒険の残滓が染み付いている。
「そんなに、ひどいですか」
「まぁね。そんな格好でよくもまぁ、元彼の僕のところに顔を出せたものだと思いましたよ」
 う、だって。
 成美は恨めしく氷室を見上げた。
 一体どっちがデリカシーがないんだろう。よく人のことを言えたものだ。
「仕方ないでしょう。氷室さんに会えると思っただけでテンパッて――服のことなんか、頭からすっとんでたんですから」
「まぁ、いったん部屋に帰りませんか。いずれにしても着替えないと不衛生だ」
 ずばずばと成美が傷つくことをたてつづけに言い、氷室はようやく歩き出した。
「まぁ、僕も同じですけどね」
「……え?」
「君の格好なんてひとつも気にならなかった。不自然なハイソックスの意味もわからなかった。そういう状態を、君の言葉で言えばテンパってたとでもいうんですかね」
「………………」
 もう別れを決めているくせに。
 そんな風に、惑わすことを言うのはやめてほしい。
(どうもあの医師は――、腕は確かでも信頼に足らないところがありそうで――。今回は応急ということで、次はもっといい病院を探しましょう)
 本当にわかってるんですか。氷室さん。
 私たちにはもう、次なんてないんですよ。
 
 
 
「じゃあ、午後2時に。お忙しいところ、ご無理を言って申し訳ありません」
 成美がシャワーを浴びてリビングに戻ると、ソファに座った氷室がどこかに電話しているところだった。
 仕事かな、と成美は思った。
 彼の表情がひどく硬く、少しだけ緊張しているのがみてとれたからだ。
 氷室が、携帯を傍らにおいて成美を見あげる。
 その眼差しに、成美の鼓動が少しだけ音をたてた。
「傷、濡らしませんでしたか」
「ラップでぐるぐる巻にしましたし……気をつけました」
 成美はそっけなく言って背を向けると、タオルで乱暴に髪を拭った。
 部屋に着いたら、当然そこで別れだと覚悟していたら――そうではなかった。シャワーを浴びている間にいなくなっているかもしれないと思ったけど、それも違った。
 氷室はまだ、ここにいる。
 それが胸をざわめかせる。
 再び脱衣所に行こうとしたら、背後で氷室が立ち上がる気配がした。
「今、堺先生にアポをとりました」
「…………えっ」
 だってそれは、向井志都さんですらできなかったことで……。
 嘘でしょ? もしかして氷室さんの手にかかれば、なんでもアリなの?
「体調があまり芳しくないので午後2時から30分だけ。明日です。――僕も一緒に行こうと思います」
 タオルを握りしめたまま、成美は呆けたように氷室を見た。
「君には不本意でも、それが僕のぎりぎりの妥協案です。君が飲めないというなら、僕は君と堺医師を金輪会わせないよう、最大限の努力をするだけですが」
「私も――行ってもいいんですか」
 返事の代わりに、氷室は大きく息をついた。
「僕が必ず同行するという条件下なら、それも致し方ないと諦めました」
 今、胸に浮かんだ感情が嬉しさなのか悔しさなのかわからないまま、成美はうろたえたように視線を下げた。
「まぁ、……じゃあ、私も、妥協しますけど」
「妥協ね」
 氷室は少し馬鹿にしたように眉をあげる。
「君1人がどうご家族に事情を説明したところで、堺医師に会えたとは到底思えないのですがね。まぁ、いいです。いったん僕は帰ります。明日は――」
 帰る。
 その言葉に、少しだけショックを受けた成美に気づかないのか、氷室は腕時計に視線を落とした。
「正午発の新幹線に乗れば十分ですね。ホームで待ち合わせにしましょう。雪村さんに連絡して、明日は1日休暇をとったほうがいいと思いますよ」
「氷室さんは?」
「もう電話で休暇をとる旨伝えました。今夜はこちらのホテルに泊まるつもりなので」
 あ、そうなんだ。
 よかった。――安治屋の陽菜って女の人のところには戻らないんだ……。
 今度はほっとする成美に気づかず、氷室は脱いでいた上着を羽織った。
「何か予定を変更するようなことでも起きたら、僕の携帯に電話してください。新しい番号は、そこにメモして置いてあります。ちなみに今夜はリッツロイヤルに泊まる予定ですので」
 ととりあえず頷いた成美は、えっと顔をあげていた。
 リッツロイヤル?
 それって、市内で最も高級なホテルで、安くても一泊3万とかする…………。
「どうかしましたか?」
 口をぽかんと開けた成美を、氷室は不審そうに見る。
 そうか。氷室さんはまだ、昔のリッチ感覚が消えてないんだ。
 そりゃそうだよね。
 昔の感覚が忘れられずに、お金が底をついた今でも偽ブランド物を買ってしまうくらいなんだもん。
「あの、氷室さん」
「……? はい」
「あの――へんな意味じゃないですよ? そういう意味じゃないですけど、もしあれだったら」
 お金は少しでも節約しないと。
 ガソリン代や駐車場、明日の交通費だけでも馬鹿にならないのに。
 頭の中であれこれ考えながら黙りこむ成美を見て、帰り支度を終えた氷室が怪訝そうに眉を寄せる。
「さっきからなんですか。言いたいことがあるなら早く言って欲しいんですが」
「う、うちに泊めてあげても、構わないですよ」
 まるで灰谷市役所の屋上から飛び降りるような気分だった。
「もちろん、ただの、……昔の知り合いとしてですけど」
「…………………」
 氷室が無言でこちらを見ている。
 夕陽に照らされた彼の表情の変化を、成美は怖くて確かめられない。
「ふぅん」
 ややあって、氷室の薄い唇からそんな低い声がもれた。
「ただの、昔の知り合いね」
 な、なに、その言い方が不満なわけ?
 じゃあ他にどう言えばいいのよ。私たち、今はもう恋人でもないし、上司部下でもない。友だちかどうかすら微妙なのに。
「ま、いいですよ。君の部屋に泊まってあげても。――ただの、昔の知り合いとしてね」

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。